以下未完
Episode14
手術の後は抗がん剤もお休みで
1か月間、ベッドに横になる生活が続くという話は聞いていた。
抗がん剤治療がストップするということは
あの腹痛や食欲不振が収まるということで、そうなれば少し元気になれるかもしれない。
そう、思っていた。
ぼんやりと目を覚ました私は、準集中治療室と呼ばれる部屋にいた。
朦朧とした意識の中で、何人かの親戚や知り合いがお見舞いに来てくれている事を感じていた。
しかし、身体の重さとだるさで、起きることもできなかった。
麻酔がきいているのか、まだ全身に感覚は戻ってこない。
胸からはいつもの見慣れた点滴ルートが繋がっていて、尿道カテーテルも入っているようだった。
周囲の状況を少しずつ理解した私は、そこからすさまじい吐き気に襲われた。
ナースコールを押すが、看護師はなかなかやってこない。
しかし、おかしな話なのだ。私は前日の夜から絶食で、食べ物はおろか、薬も飲んでいない。
とうとう吐き気に耐えられなくなり、しかし身体が起こせないまま、
正面に吐くことだけは避けたいと、右手に向かって横へ私は"何か"をそこで吐いた。
見るとそれは鼻水や痰のようなものだった。
その後看護師がやって来て、上着を着替えさせてくれたのだが、
これも、私が身体を起こすことができないため時間がかかった。
まず私が手の動く範囲で袖を脱ぎ、ベッドの右側に立つ看護師がそれを介助しつつ回収。
そこから右手に片袖を通し、看護師が残った片袖と衣服を私の背中へと押し込み、
反対側から出して左手に通す。
そうして無事に着替えが終わった私は、再び眠りに落ちた。
身体が起こせない私は、水を飲むこともできなかったのだ。
夜中は、背中が熱く、何度か看護師さんが手を入れて空気を入れ替えてくれたが、
これは床ずれを防止するためなのだと後日知った。
私は何度か、ナースコールを押して空気の入れ替えをお願いした。
この準集中治療室にいることのできる期間は3日。
3日経ったら、他の患者さんに部屋を譲らなければならないのだ。
ほんの少しだけ、リクライニングベッドを動かしてもたれかかるようにして
起き上がれるようになったのは2日目のことだった。
角度にすれば30°~40°くらい。
それ以上は手術の痕が痛くて起き上がれなかった。
お茶も、水筒から上手に飲まなければこぼれてしまう。
それでも私の身体は本能で生きようとしていたのだと思う。
母と弟が見舞いにやってきたのは、そんな、少しだけ容体が回復した頃だった。
母は私の様子を心配そうに見て、マクドナルドの袋を開けて弟と2人で食べた。
私は食欲もなく、うまく食べることもできないので、見ていることしかできなかったが
その時一口だけもらったチーズバーガーは、
元気だった頃に食べていたそれよりも美味しかったような気がする。
3日目は、移動の日だった。
手術後から3日。まだお通じが無い上にベッドから身を起こすことすらできない。
本当に大丈夫なのかという不安は少なからずあったが、
整形外科棟に移動してから1週間は個室だということもあり、場所が変わるだけで環境に差は無いと思っていた。
しかし、整形外科棟に移るということは、場所が変わるというだけではなく
看護師1人あたりの患者数が増えるということで、私はその意味を痛感することになった。
その時は、無料の大部屋が満室だったため、本来有料で使う個室を使うことになった。
整形外来棟へ移動しても、ベッドから起き上がることはできなかった。
尿は、尿道カテーテルから点滴台へ自然に流れていく。
意識と気持ちが元気になってくると、私は自分のみじめさを痛感して
1人の部屋で、ひとり涙を流した。
なんて、みじめなんだろう。
私の友達や、同級生は、今この瞬間にも、楽しい学生生活を謳歌していて
五体満足に動く自由で元気な体で好きなことをしたり、旅行をしたり、しているだろう。
どうして私は、私だけは、生きることで精いっぱいで、こんなにも辛いんだろう。
足が痛い。
そんなことを繰り返し繰り返し、考えてしまうのだった。
手術痕が痛くてなにもできない分、悪いことばかりが頭に浮かんでは消える毎日だった。
そんなある日、急に便意が押し寄せた。
ナースコールを押し、事情を説明すると、
女性の看護師がちりとりのような形の容器を持って戻ってきた。
仰向けに寝ている私と布団の間に差し込み、私は寝たまま用を足した。
その後、ウエットティッシュでお尻を拭いてもらう。
これが、起き上がれない間の用の足し方である。
ウエットティッシュで拭いた後、乾ききらないまま下着をはくことの気持ち悪さ。
尿道カテーテルが汚れてしまうかもしれないという気持ち悪さ。
私はなお一層みじめな気持ちになったのだった。
しかし、生きている限り起こる生理現象は、おさまらないのだ。
ある時は、やってきた看護士が男性で、
容器を取りに戻ったはずが、全く戻ってこないことがあった。
その男性看護師は、女性の看護師を探していたそうだ。
その時は、ちょうど女性の看護師達は、他の患者さんの対応でいなかったらしく、
私は、準集中治療室との差を痛感した。
耐えきれず、もう一度ナースコールを押し、
やってきてくれた看護師長さんに速やかに対応してもらい、事なきを得た。
その後も、布団から起き上がれない私は、ただただベッドでじっと時間が過ぎるのを待つだけの生活が続いた。
そんな生活が何日か過ぎると、無料の大部屋に空きができ、私は再びストレッチャーに乗って移動することになった。
そうすると、今度は同じ室内の患者さんのいびきで、眠れない夜が続いた。
昼間は、周りの患者さんのご家族がお見舞いにくるなどで騒がしく、
私はベッドから起き上がることもできないので、眠れない、つらい、しんどい、を繰り返していた。
テレビはイヤホンをつなげて見るが、身体が仰向けのままなので、首を右に向けて画面を見ていたが、
すぐに態勢が辛くなり、ただただ時間が過ぎるのを待っていた。
1週間~10日くらいだろうか。
そのくらいの時間がたったころ、足に三角の大きいクッションを挟み、自力で体を横向きにする練習が始まった。
まだ傷口は痛むものの、久々に身体を横向きにできることに感動した。
医師の説明によると、
左脚の大腿直筋という、一番大きい筋肉以外のほとんどは、腫瘍とともに切除しているため、
股関節を支える筋肉がほとんど無く、全方向に股関節が外れやすい、ということだった。
そのため、左脚をひねらないように、身体の態勢を変える必要があった。
言われてから、左脚が、思うように上に上がらないということに気が付いた。
力を入れても、足は少しも動かなかった。
態勢を横向きに変えれるようになると、徐々に起き上がれる角度が増えていった。
ベッドをリクライニングしないと、自力では起きれなかったが、
それでも、食事を座って食べられるのは、嬉しかった。
少しずつ手術跡がふさがり、傷口の痛みが治まった頃、再び、抗がん剤治療に戻ることになった。
今後の話。
いほまいど(イホスファミド)+シスプラチン、休む のスケジュールを繰り返す
イホマイド→幻覚・幻聴の副作用がある
リハビリ開始。
ごはん食べられない。おいしくない。
しものせんじょうがすごく嫌い。
ウォシュレットでもいいっていったのに。ブチギレ
物を投げ始める。ごはんをひっくり返したりしだす。←我ながらどうかしとる
親にもだいぶ怒られたりする←そらそう
ほぼ毎月、祖母がお見舞いにきてくれる。
母は毎週、お弁当を持ってきてくれる←退院後、なんか文句言われた。喧嘩した。
輸血でアレルギーを起こす
肺に水が溜まって死にそうになった話。
退院
免許
修養科
復学
就職
異動
腎臓の話




