Episode>>4
治療が終わり、私は元々通っていた保育所へ再び通い始めた。
治療中も、血球濃度が落ち着いて退院できた時期は何度か遊びに訪れたことがあったため、
同じ組のみんなは、私を快く受け入れてくれた。
みんなで三つ編みを作っていた時には、
私だけ三つ編みができない様子を見た先生がつきっきりで教えてくれたこともあった。
先生のピアノに合わせてみんなで歌を歌うのも好きだったし、
水やり係で、係のみんなと一緒に園内の花に水をやって回るのも楽しかった。
係の友達と仲良くなれたし、何よりも戻ってきた私にできる仕事があること、
戻ってきた後に『居場所』があったことが、幼い私にとっても嬉しかったように思う。
そんな保育所では、卒園式の練習の時に歌を歌った。
「いつのことだか 思い出してごらん あんなことこんなこと あったでしょう。
ヨモギを摘んで団子を作った いつになっても忘れない」
そんなふうに歌詞を変えてみんなで歌うのだが、私にとっては体験していないことだった。
体験していないことを、体験したかのように歌う。
覚えにくい歌詞で、どこか寂しい気持ちになった。
卒園式の日は、同い年のみんなと一緒に卒園して小学校に入学できるんだと思うと、嬉しい気持ちが大きかった。
――――実家のアルバムには、緊張した顔で卒園式に臨む私自身の写真が残っていて、
私は卒園式の日に号泣していた母の顔を、今でも思い出すことができる。
予後不良と言われた私が、春から、小学生になるのだ。
小学校に入学すると、私は学年の中で一番背が低く、
身体も小柄だったため、同級生や上級生にからかわれることも少なくなかった。
背の順で整列したときには、いつも決まって一番前だった。
背の高いクラスの女の子が、私の肩に腕を置いて、
「肘置きにちょうどいいわ~。」
と言われることもあったし、もっとストレートに
「うっせえ、ちび!」
と言われることもあった。
幸いにも、負けず嫌いだった私は、何かを言われても強気に言い返し、
心の中では「あんたらよりも、私は大変な思いをしてんねんから、私の方が偉いんや!」と叫んでいた。
家から学校までの距離が長かったため、団地から通う友達と集団で一緒に帰り、
そこへ母が車で迎えに来てくれていた。
他の友達よりも歩くのが遅く、ペースを合わせて歩くだけで精一杯の私は、
友達の楽しそうな会話に入る余裕は無かった。
団地に辿り着くと、そこにはいつも母がいて、私にこう言うのだ。
「今日も頑張って歩いたね。お疲れ様。」
また、毎週水曜日には、学校を休んだり遅刻したりしながら病院に通っていた。
5年寛解、と言って、
癌は術後5年間再発しなければ、完治しただろうとみなすことになっているようで、
それまでは、検査や経過観察が必要だった。
親が通信教材を受講させてくれていたため、勉強に後れをとることなかった。
しかし、友達と過ごせる時間が減り、私という存在が置いて行かれるように感じるのが嫌だった。
血液検査では血管が細く、何回も針を刺されたので、何度も何度も泣きそうになるのをこらえた。
そんな私は、病院の帰りに買ってもらえるジュースが楽しみだった。
私は特に、入院治療中、苦い薬を飲むためにジュースを一緒に飲んだ経験が忘れられず、
ミルクティーがとても苦いと思っていたが、
ある日父が買ってくれたミルクティーを恐る恐る口にした。
ひとくち飲んだ瞬間、なんて甘くて美味しい飲み物なんだろうと思った。
そこから、今までどうして避けてきたのか分からないほど、私はミルクティーが大好きになり、
その日から病院の帰りのジュースはミルクティーが定番となった。
私は、そのようにして苦手な食べ物や飲み物が減ったのだが、一方で食べられないものも増えた。
小さい頃は大好きだったらしいトマトが嫌いになった。
りんごやいちごは酸っぱいと感じるようになったし、
炭酸のジュースや辛いものも刺激が強くて食べられないのだ。
後に聞いた話ではあるが、抗がん剤治療を終えた後に味覚が変わる例は少なくないらしい。
そんなこともあってか、私はその頃から、他の人と自分が違うと言うことに気付き始めていた。
自分を全く同じ人はいないのだが、そういう感じではなかった。
幼い頃の記憶は途切れ途切れにしか残っていないし、
全てが『気付いたら病院のベッドの上』から始まっていた。
今だからこそ言える話ではあるが、当時の私は、
自分が難しい病気を乗り越えたのだと言うことを知らなかった。
ただ、『つらい治療をした』記憶しかなかったのだ。
でも、その時の私は確信していた。
辛い治療をしただけではなく、私は他の人と何かが違っている、と。
違和感を抱いていたものの、親にそれをどうやって聞けばいいのか分からなかった。
ある日、弟と喧嘩して背中を蹴られたことがあった。
それを知った父が、今までにないくらい強い口調で弟を叱りつけた。
いつもの喧嘩と大きく変わらなかったのに、普段と叱り方が違うことに私は疑問を抱いた。
それから私は、いつもの通院途中、
一緒に病院に連れて行ってくれていた母に疑問をぶつけてみることにしたのだ。
「私って、他の人と違う所がある?」
「違う所って?」
「なんか、何かが無い、とかそういうの」
「あんたは、左の腎臓がないねん。」
おなかに大きな傷跡が残っているのは、
それまで特に気にもならなかったが、昔から知っていた。
しかし、腎臓が1つ無いという事実は、当時の私には理解できなかった。
そもそも、腎臓という臓器がどれほどの働きをしているのか、
それが無いことによってどうしてこんなにも人と違うのか理解できなかった。
背が低くて、運動はできないけれど、
それ以外は他の人と変わらない生活を送れているではないかと、そう思った。
後々になって、人間には腎臓が二つあり、そのうちの片方を摘出したのだということを理解した。
そんな私は、運動会のかけっこや持久走大会ではいつもビリだったし、
体育でもクラスメートのように自由に身体を動かすことができない事実を知った。
給食を時間内に食べ終わることができず、昼休みに残って食べたり、
パンを全部食べきることができずに持ち帰ったりしたこともあった。
私は、思い通りに身体を動かすことができない自分を好きにはなれなかった。
小学1年生の時の運動会では、上級生に阻まれて競技が見えなかった。
何とか前を見ようと背伸びをしたりジャンプしてみたりしていたのだが、不意に身体が持ち上がった。
後ろから、当時の担任の先生が私を抱え上げ、運動場の様子を見せてくれたのだ。
その時に見た『世界』を私は忘れることができない。
当時の私にとってはとても広い運動場で競技を行う上級生。
それに向かって全力でエールを送る応援団。
そして、周りの保護者席から聞こえる歓声。
私は、その時に改めて「背が高いっていいなあ、私も背が高くなりたいなあ」と改めて思ったのだ。
学年が上がり、色が変わっても私の所属する色は毎年負け組で、
小学校の運動会で勝ったことは一度も無かった。
そして、年間の行事を通して最も嫌いだったのが持久走大会。
持久走大会の時期が近付くと、朝には校庭やマラソンのコースを一斉に走る時間があり、
全校で持久走大会に向けて練習するのだ。
体育でも校庭を走る時間が増えたし、
コースを走るようになるあの時期は、今でも嫌な思い出として残っている。
そもそも、人よりも走るのが遅い上に人一倍体力が無い。
そのため、先生が先導し、「軽く流して走るだけだからね~」と言って走っても、
私にとっては全力疾走で、着いていくことができず、例外無く周回遅れになった。
走るのが嫌すぎて、雨が降らないかと神様にお願いしてみたこともあるが、
いくら願っても当日はいつも快晴なのである。
そんなことで、何度神様を恨んだか知れない。
ゴール地点のグラウンドには私より早く到着した人達が座っていて、
私はいつも決まってビリなので、同級生全員に見られながらゴールするのだった。
そこに座る同級生たちはみんな声をあげて私に向かってエールを送ってくれた。
「がんばれー!あと少し!」
そんな声援に、恥ずかしさを覚えたが、同時に力も湧き上がった。
ゴール地点が見え、応援の声が聞こえると、
それまで力が残っていないくらい全力で走っていたのに、どこからか力が湧き上がってくるのだ。
そこからは最後の力を振り絞って走った。
ゴールすると、クラスの女子の中で何番目にゴールしたかが書いてあるカードが手渡される。
その順位を見て、私はいつも思うのだ。
「ああ、今年はこれだけの女子生徒が参加していたのか」と。
私にカードが手渡された瞬間、それまで座っていた同級生達はその場に立ち、
それぞれのクラスの担任の話を聞いて解散するのだ。
「私がみんなを待たせていたんだ」と思うと、申し訳なさと恥ずかしさでいっぱいになった。
私の息が整わないうちに解散していく同級生達を見て、
「速く走れたらなあ」と、毎年思ったのを覚えている。
整わない呼吸が辛くて、持久走大会や体育でのリレーなど、
走る競技においてはいつも、走り終わるたびになりふり構わず地面にあおむけに寝ころがった。
動けなくなるくらい全力なのに、全然速く走れなかった。
持久走大会や運動会の日には、決まって作文の宿題が出た。
これが、私にとって持久走大会や運動会が嫌いだった第二の理由である。
私は作文が苦手だった。頭の中にあるものをどう文章にすればいいのか分からなかった。
私にとっては、ただ長い距離を走って疲れただけである。
日記も作文も、何を書けばいいのか分からなかったのだ。
そんな私を助けてくれたのは、母だった。母は私の話を聞いてくれた。
「今日どんなことがあったん?」
「そんとき、どう思ったん?」
「今お母さんに話したこと、そのまんま書いたらええねん。」
それから私はだんだんと苦手な作文が少しずつ書けるようになり、
私の作文が学校の文集に載ることもあった。
唯一私が持久走大会と運動会で頑張っていたことといえば、
何があっても完走するということだった。
途中で走るのをやめたら、それだけで負けた気がするからだ。
順位がいくら低くても、いくら走るのが遅くても、やめてしまえば順位すらつかない。
ただでさえ最後尾を走っているのに、諦めたら今までの練習や努力が全部無駄になると思ったのだ。
そして私はある日、一冊の本に出会った。
休日に弟と母と私で映画を見に行った帰りに寄った本屋で見つけた本だった。
『流れ星にお願い』というタイトルに惹かれて、私はそれを手に取った。
最初のページを開いて数行、読み進めた瞬間に私と主人公が似ていることに気が付いた。
走るのが遅くて体育が嫌いなのにも関わらず、じゃんけんで負けて体育委員になった主人公。
クラス対抗リレーでは、体育委員だという理由だけで代表を押し付けられてしまう。
そんな出だしに私は引き込まれた。
母にその本を買ってもらって家に帰った後、あっという間に読んでしまった。
私はその物語の結末に感動し、その本がとても好きになった。
その本は今でも、家の本棚に収まっている。
そんな私にも、体育のことで少しだけ良い思い出がある。
それは、小学4年生の夏だった。
夏といえばプールだが、私の通っていた小学校は、水泳に力を入れていた。
泳げた種目によって水泳帽にマジックテープが付けられるのだ。
床に手をついたら黄色テープが1本。だるま浮きと背面けのびとバタ足で黄色が2本、
というように黄色1~3、赤1~3、水色1~3、黒1~3と、
上がっていくにつれて難易度が高くなる。
私は当時、赤3から青1になるために、平泳ぎやクロールの25mタイムをクリアし、
背面クロール14mもクリアしたところだった。
残すは50mの自由形。平泳ぎは得意ではなかったので、
クロールで50mを泳ごうとしていたのだが、どうしても途中で足がついてしまう。
耳に水が入ったり、息が続かなかったりで、全然クリアできなかったのだ。
夏休みの最終日。プールも今日で終わるという日に、私は50mに挑んだ。
25mでターンをした時、「もしかしたら泳げるかもしれない」と思った。
苦しい中で、がむしゃらに泳ぎ、私は50m泳ぐことができたのだ。
泳ぎ切った瞬間、その場にいた全ての先生が喜んでくれた。
プールの中にいたその日の私の担当だった女性の先生が私を抱え上げ、
プールサイドに上げながら言った。
「おめでとう!青線、もらっておいで!」
何回も挑戦して成し遂げた50mと、
その時にもらった水色のマジックテープは私にとって大きな思い出となった。
そんな夏が過ぎ、小学4年生で2分の1成人式を終えた私は、転校することになった。