Episode>>2
当時、母は地元の小学校の教師をしていて、父は中学校の教師だった。
私の病気が突然発覚し、母は仕事をやめた。
1人ではまだ何もできない私のために、付き添いで入院してくれることになったのだ。
そこで平日は母が一緒に入院し、土日は父が交代で入院してくれた。
病室のテレビでは「アルプスの少女ハイジ」が放送されていた。
私はハイジを見るのが大好きで、病気と闘うクララやハイジに自分を重ね、見入っていた。
ビデオに録画したアンパンマンと一緒に、何度も何度も見ていたそうだ。
それから、ハイジとアンパンマンには、入院生活の間、何度も何度も助けられることになる。
主に治療法は、抗がん剤投与と放射線治療だった。
その中でも、私にとって最も記憶に残っているのはやはり抗がん剤投与治療である。
当時、副作用が薬で抑えきれないくらい多くの抗がん剤が投与されていた。
抗がん薬は、主に鎖骨の下にある大きな静脈から皮下トンネル(ルート)を通し、
点滴をルートにつないで鎖骨下静脈へ直接投与していた。
また、抗がん薬とは別に肺炎予防の薬や吐き気止めの苦い薬など、
副作用を抑えるための薬もたくさん服用していた。
しかし、大人でも耐え難いほど苦いそれらの薬を飲むのは、幼い私にとっては苦痛でしかなかった。
牛乳やジュースに混ぜて飲んでみたり、鼻をつまんで飲んでみたりと、
様々な方法で飲んだことを今でも覚えている。
中でも、市販の甘いミルクティーに混ぜて飲んだ際は、
ミルクティーの味よりも薬が苦すぎて吐き出してしまった。
その時から私は、ミルクティーが苦いものだと思い込んでしまい、
ミルクティーそのものが飲めなくなってしまった。
そんな時、当時のテレビ番組で日々の生活の中で使える裏技を紹介する番組があり、
そこで『水をはった皿にオブラートを浮かべ、粉末薬を入れて爪楊枝で包んで飲む』
という方法が紹介された。
そこで父が病院の売店に走り、オブラートを購入し、さっそく試してみると、
今までの苦労が嘘のように苦い粉末薬がすんなり飲めるようになった。
しかし、副作用を抑える薬を飲んでいても、副作用を完全に抑えることはできなかった。
最も私を苦しめたのが、吐き気だった。
抗がん剤の副作用で、吐き気をもよおし、ほとんど物を食べることができなった。
それだけではない。飲み物でさえも、口にすると吐いてしまうのだ。
食後の薬だけでも、と、飲んだ薬まで吐いてしまう。
しかも薬の場合、飲んでから30分以内に吐いた場合、もう一度飲みなおさなければならなかった。
母は、そんな私に薬を飲ませるのがとても辛かったと語った。
また、抗がん剤の副作用で白血球が下がってくると、口の中にカビが生えることもあったそうだ。
ビニールのカーテンで覆われたベッドの中。
空気を清潔に保つ換気扇のようなものもあったという個室、いわゆる滅菌室に、
まるで感染性の強いウイルスでも扱う人のように
防護服を身にまとった父や母が病室に付き添い、私は治療を受けていた。
細菌・ウイルスと闘う白血球中の成分である好中球や、白血球そのものの数がゼロに近くなると、
あらゆる病気の感染予防のために隔離された。
トイレをするのに外に出ることもできないので、し尿ビンでトイレを済ませ、
それを処分するために父や母は病室から出なければならなかった。
再度病室に入る際には、その都度、手をアルコールで消毒しないといけないので、
父や母の手はいつもアルコールでガサガサだったそうだ。
ある日の夜だった。料理人が作る料理を競わせるテレビ番組があった。
その番組を見終わった時、私は苺牛乳が飲みたくなった。
「今日は、いけそうか。」
そう言った父は売店で苺牛乳を買ってきてくれた。
それまで、プラスチックでできたピンクのカップにだらだらと唾液を吐き続け、
吐き気で物を食べることも飲むこともできなかったが、
その日の私は何日かぶりに苺牛乳を全部飲むことができた。
その時の感動は、今でも忘れることができない。
そして、私には担当の看護婦さんがいた
。幼い頃のわずかな記憶ではあるが、治療や業務の合間に病室に訪れ、
水塗り絵を一緒にしてもらったり、トランプで一緒に遊んでもらったりした記憶がある。
担当が変わっても病室におもちゃを持ってきてくれたこともある。
退院期間中に家に遊びに来て、一緒にパフェを作った記憶もある。
私はその看護婦さんが大好きだった。
また、元気な時、白血球が安定しているときは、病室も個室から大部屋へ移った。
同じ病室で一緒に治療している子たちと折り紙をしたり、
お絵かきをしたりして一緒に遊ぶこともあった。
帽子とマスクをつけて点滴台を押して歩き、近くの”プレイルーム”へ遊びに行ったこともある。
プレイルームにはたくさんの本や積み木などのおもちゃがあって、
自分と同じように抗がん剤の副作用で髪の毛が無くなっている子もたくさんいた。
私は、プレイルームの本を読むのが大好きだった。
中でも、泥棒たちが民家に忍び込み、悪事を働こうとしているのがバレて、
家や店の手伝いをすることになり、お菓子を作るというストーリーのシリーズ本や、
「ぞくぞく村のおばけ」シリーズが好きだった記憶がある。
他にも、母が「かいぞくポケット」や「わかったさんのおかしシリーズ」を買ってくれて、
それを読んで母とおしゃべりをするのが好きだった。
暇さえあれば、点滴台を連れてプレイルームに行き、1人で本を読んでいたのだ。
それからこれは、あとから聞いた話だが、
当時全国で私と同じ病気にかかった子どもたちの中で、完全に病気が治った例は無かったという。
まだ当時の日本では、治療法が確立されておらず、
当時日本中で闘っていた子どもたちの中で助かったのは、
私と1人の男の子だけだったのだと両親に教わった。
あの頃一緒に遊んでいた子たちや、
同じ部屋で一緒に頑張って病気と闘った友達もみんな亡くなったのだと知った時、
私はその子たちの分まで一生懸命生きなければならないと思ったのだ。
今思い返せば、点滴漬けの毎日だった。
当時、点滴は右胸あたりから皮膚の下へ管を通して胸の間から管を出し、鎖骨の下にある太い静脈へ直接薬液を投入する形となっていた。
とはいえ、それでも薬が足りない場合には腕や手の甲に針を刺し、さらに点滴をつないでいた。
手を動かして点滴の針がずれると痛むので、幼い私は手を自由に動かすこともできなかった。
週末のある日、両手の甲に繋がれていた点滴が外れ、久々に両手が自由に動くようになった。
それまで点滴が外れないようにとテープや包帯で指まで固定されていた手で、
できるだけ動かさないようにしてご飯を食べたり遊んだりしていた私は、
もどかしいのをひたすら我慢していた記憶がある。
点滴が外れたその日の深夜、消灯時間も過ぎ、
父が持ってきたパイプベッドの上で寝ている傍で、
私は病院のベッドの上に横になって両手を天井に向けて掲げていた。
しばらくぶりに自由に指が動かせるという感動で、
何度もグーチョキパーを繰り返し、手を結んだり開いたりすることに夢中で、
なかなか眠ることができなかった。
そのくらい、嬉しかった。
隣の父を起こさないように、小さな声で
「グーチョキパーで、グーチョキパーで、何作ろう?何作ろう?」
と口ずさみ、指を動かしたあの夜のことは、今でも忘れられない。
父や母の教え子から、千羽鶴や大好きなキティちゃんのぬいぐるみなど、
たくさんのお見舞いをもらったことも記憶に残っている。
親戚や名前も知らない小中学生のお兄さんやお姉さんたちからもらったお見舞いの手紙やプレゼントは、
今も大切に保管されている。
祖母は、お見舞いに私の好きなたらこを持ってきてくれた時のことをよく話してくれる。
しかし、当時の私はそれを見てこう言ったのだそうだ。
「ありがとう。元気になったら食べるから、ここに置いとくね。」
抗がん剤の副作用で白血球の数が少なかった私は、当時、生ものを食べることができなかった。
大好きなたらこも、当時は食べることができなかったのだ。
祖母はその時、何も言えなかったと話していた。
また、放射線治療では、心臓を保護し、
それ以外の部分全身に放射線を照射したそうだ。父と母は、医師に次のような選択を迫られたという。
「放射線を全身照射すると、内分泌系やその他の部分に障害が残ることがあり、将来子どもを産むことができなくなるかもしれない。それでも、治療を行いますか。」
両親はそれでも、命が助かるならと、放射線治療に踏み切ったのだ。
ところで、平日は母が、土日などの休日は父が泊まり込んで一緒に付き添ってくれていたのは
前述のとおりであるが、私には1歳半年下の弟がいた。
弟はまだ2歳半で、保育所に通っていた。
ようやく自分の意思が伝えられるようになった頃で、わがまま期でもあった。
母は私と一緒に病院にいるので、弟は普段、父と生活していたことになる。
土日が休みである父と週末に会えるのは、私にとって嬉しいことであったが、
弟にとっては週末に母と会える瞬間が特別嬉しかったに違いない。
父は、弟と一緒に生活していた頃の苦労をよく語ってくれる。
「朝、俺が仕事に行くのに鞄を肩にかけ、両手にはゴミに出す袋。出かける直前になって弟が駄々をこね始めて『やだ~!だっこ~!』。かんべんしてくれよ、って思いながらもゴミ袋を片手で持って、仕事鞄と一緒に弟の保育所鞄を肩にかけ、片手で抱っこ。あの頃は大変だったわ。」
その分、ステーキやチャーハンなど、毎日ごちそうを食べさせていたと父は話す。
また、その頃の話を、祖母からも聞いたことがある。
「お父さん、倹約家だからね、料理をしているときはそこの電気だけつけて、弟君はくら~い部屋にテレビだけついててね、その背中見た時どこか寂しそうで。」
当時は弟も、父と一緒に神様にお願いしていたという話を、後から聞いた。
「お姉ちゃんが、早く良くなって、おうちに帰ってきますように。」
さて、そろそろ私が、病気を克服した2つの大きな出来事について触れるべきだろう。
悪性腫瘍は一般的に、摘出しないと転移するリスクが高く、危険である。
私の場合は、病気の原因となっている左副腎の摘出手術が必要となるのである。
しかし、当初の予定では左副腎にできた腫瘍のみを取り除くはずであったが、
腫瘍が大きく、癌は左腎臓の内部にまでわたろうとしていたのである。
私は、その結果、左副腎と左腎臓の全摘出手術を行うこととなった。
左副腎はホルモン分泌を司る臓器であり、腎臓は老廃物を分別し、尿を作る臓器である。
摘出手術そのものは、全身麻酔で行われるため、
その時のことはよく覚えていない。
手術の数日前、抗がん剤治療も休止して血球濃度が落ち着いていた私は、病院の中庭に出た。
散歩をしながら、私は母と話をした。
「もうすぐ手術なんだよ」とか「手術って、何をするの?」とかそんな会話だったような気がする。
手術の前には先生か、父かは定かではないが、抱っこしてもらいながら移動し、
その肩にしがみついて離れ行く病室を見ていたような記憶と、
手術後の酸素マスクが苦しくてもがいた記憶がある。
もがいている私に気付いた手術室の看護師が、
「どうしたの?苦しい?」
と声をかけてくれて、問いかけに必死に頷いた。
そこで酸素マスクを外してもらったような覚えがある。
その経験は今になっても夢に出てくるほど深く記憶に残っている。
そしてこれは、後から父に聞いた話ではあるが、
手術後に病室に戻った私は長いこと目を覚まさなかったそうだ。
手術の時間は約8時間。病室に戻ってからも、およそ8時間の間、ずっと眠り続けていたのだという。
そんな私の目が覚めた時、窓の外が夕暮れ色に染まっていた。ベッドの上で目を覚ました私は、
「手術、終わったの?」
と問いかけた気がする。そして父がこう答えたのだ。
「よう頑張ったな。」と。
そこで、私は「ああ、終わったんだな」と幼心にして思ったのだ。
窓の外には夕日が燃えるように輝いていた。
癌の大元は取り除いたが、まだ問題は残っていた。癌が骨髄に転移していたということは、
癌を取り除いただけでは完治していないということになる。
しかし手術を無事に終えたということは、私や家族にとって、
大きな壁を乗り越えたということでもあった。
当時、私が5歳になって初めて迎えた春のことである。
そんなある日、母が妊娠していることが分かった。私にとって初めての妹だった。
母は、胎内に新しい命が宿ったのだと知った時、悲しんだのだという。
「どうしてこんなタイミングで。こんな大変な時に子供を授かっても世話ができない。娘の看病もしなければならない。」
そんなふうに思ったのかもしれない。その時の母の葛藤は計り知れない。
しかし、母の妊娠を知った小児病棟の看護婦さんは明るい声で母にこう言ったそうだ。
「おめでとうございます!お子さん、助かるかもしれませんよ!」
母はそこで、臍帯血移植という治療法を知ることになる。
そう、私は、臍帯血移植を行うことになったのだ。