Episode>>1
200万分の1。
この数字で人々は何を思い浮かべるのだろうか。宝くじで1等の当たる確率が、おおよそ200万分の1だとされている。私がこの確率を聞いて真っ先に思い浮かべるのは、ある病名だ。
―――――「神経芽細胞種」
それは、5歳までの子供がかかるとされる癌の一種である。
―――――ばいきん大魔王は、アンパンマンがやっつけてくれるよね。
私の中で一番古い記憶、幼いころの記憶は、病院の病室にいた所から始まっている。身体の中でバイキンマンが暴れていて、私はそれをやっつけるために頑張って薬を飲んで、治療をしている。小さな子供なら、それで病気が治ると信じるはずだ。当時の私もそうだった。
3歳も終わりを迎えようとしていた1998年の年の瀬に、私は背中の痛みを訴えたそうだ。その当時通っていた保育所の先生は、クリスマスの日に保育所へ私を迎えに来た母にこう告げた。
「いつもなら残さず食べる、大好きなケーキを、今日は残しちゃったんですよ」
熱はあるようだが、様子はいつもと変わらない。大好きな三輪車に乗っていても、背中が痛いと訴える私の様子に、母は困惑していたが、特に大事に至るとは考えていなかったようだ。そんな様子を見た祖母は、母に言ったそうだ。
「小さい子で、おなかが痛いと言うことはあるけど、背中が痛いは珍しいんじゃない?病院に連れて行ってあげなさい。」
原因がよく分からない発熱もあり、そんな祖母の言葉に、母はかかりつけの市立病院へ私を連れて行った。診察の結果、炎症反応が高いこと以外に異常は見られず、なかなか結果が得られなかった。
そして迎えたのは年内診療の最終日。1998年の12月27日。外勤で大学病院から来ていた医師が、私の病気を発見した。私の病名は、唐突に告げられたのだった。
―――――神経芽細胞種です。大人の握りこぶし大の腫瘍が左副腎に見つかりました。それは、現在では病名が「神経芽腫」と統合されている癌の一種であった。
副腎とは、生命維持にきわめて重要な内分泌器官の一つで、腎臓の上にあることから、腎上体ともいわれる器官である。血圧・血糖・水分・塩分量などの体内環境を常に一定に保つためのホルモンを作っていて、左副腎は、左の腎臓の上端に接着している臓器である。
癌の進行度はグレードで表されるのだが、当時の私は、グレードが4Dだと診断された。これは、もっとも悪い悪性度で、当時の医師は両親にこう告げたという。
「治る確率は五分五分です。治ったとしても予後不良やと思います。」
母は、そこで私の棺桶姿を鮮明に思い浮かべたそうだ。治ったとしてもその後健康に生きられる確率は極めて低く、それを保証することができない。私はまさに、生と死の境をさまよっていた。私と母は、年末休業に入る市立病院で年末年始を過ごすこととなった。母は当時、年末の市立病院の病室で私としりとりをして過ごしたことを鮮明に覚えているという。
年が明け、病院が開業する1999年1月6日。私は救急車で大学病院に搬送された。救急車には父と祖母が同伴し、母が車で追いかける形で私は医大に搬送されたそうだ。当時の私の担当医は、祖母にこう言ったという。
「お父さん、お母さん、おばあちゃん、みんなで頑張りましょうね。僕も一生懸命頑張りますから。」
祖母は今でも、時折その言葉を私に話してくれることがある。当時は、誰もが不安で仕方がなかったのだ。それは私の両親や祖父母だけではなく、医師にとってもそうだったのかもしれない。いつ死んでもおかしくないからこそ、みんなで頑張ろうと言ってくれた主治医の言葉が、祖母にとっては嬉しかったのだ。
そして私は、大学病院で病気の治療を行うこととなった。しかしそれは、同時に長い闘病生活が始まったということを意味する。
とは言っても、当時4歳になるかどうかという物心もついていない頃の私に、当時のはっきりとした記憶はない。大学病院で行った精密検査の結果、その癌は骨髄に転移していたという。つまり、全身に癌が転移していた状態だったのだ。
そしてその事実が、私の人生を大きく狂わすことと同義であるということは想像に難くない。