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早蕨

作者: はじ


 眼眩む光なく暗んだ瞳が最初の意識。続くのは、激痛に耐え兼ねて跳ね上がろうとする四肢を抑圧する拘束感。付随して嘔吐感。食道を逆流する溶岩のような吐瀉物が口腔を過ぎ、残るのは歯茎に挟まれた果粒と胃液の酸味、鼻腔を抜けていく饐えた臭い。未だ進出を阻む手足の束縛から脱する策なく、為す術なく暗所に打ち捨てられていることに私は恐怖を掻き抱く。熾烈に打ち鳴る歯列と強固なる胸骨が吐息を圧し、凝縮された呻吟の声が暗闇の中にからからと零れ落ちていった。

 見ず知らずの暗黒に幽閉され、身動きもできないことが肉体だけでなく精神の疲弊も招いている。招待状など出した覚えなどないのに我が物顔で扉を打ち叩く彼らを追い返そうと私は毅然と声を張るが、手渡した覚えのない合鍵で錠を開き、来客然とした態度で押し入ってきた彼らに抗うことは四肢の不自由な今の私には難しかった。ただ体内に蓄積していく彼らを見過ごし、リビングや寝室、浴室が占領されていく様を靴箱の下部にある陰から気狂いのように口を開けて見つめるしかない。口角から垂れ下がった唾液を拭うこともせずに、全身を隈なく鈍器で打ちのめされていくような鈍重な疲労の感慨に溺れるしかないのだ。

 頭部を除いた身体の末端部に感じていた痛覚は、もはや幻想によって生じる架空の存在となっていた。地球の裏側で勃発する名もなき紛争のように、円周を辿ってきた情勢の電波を受信したテレビに映し出される悲惨な景観や非情な仕打ちといったもう覆しようのない結果を見せ付けられている。どうしようにも、どうしようもない。私一人の力では、世界から争いを失くすことは不可能なのだ。そう思って、噛み締めた唇から滴る血液が先行していた唾液と混じりあい、峻別不可の混合液となって零れ続ける。それが現在の私が感じているものだ。遠く離れた個所で発生した痛みを、私は自分のことのように実感することができず、自傷によって繋ぎ止めてみようにも、それはもう、どうしようもなく、どうしようもない。

 私はこのまま、解剖台に乗せられた実験動物のように摩耗していくのだろうか?

 麻酔は利いているか? 大丈夫です。

 意識はあるか? あります。

 呼吸は? 正常です。

 パルスは? 弱まっています。

 私はまだ世界に連結しているか? 分かりません。

 そうか、しかし私はまだ諦めていない。

 生きることを微塵も諦めていない私は、暗澹の内で声にならない生への雄叫びを上げる。反響しろ。繋ぎ止めろ。世界は私を包含し尚且つ迎合しろ。これは命令だ。世界はまだ私を必要としろ。そして、生かせ。

 私は強気な姿勢を挫くことなく、動かない腕を世界に伸ばし、その襟元を引っ掴んで威圧的に抗議する。こうしていれば私は、まだ世界との繋がりを強引に保つことができる。そう信じて、握り締めた信念を炎のように燃え上がらせた。

 無明の暗所に灯ったその炎は、微細ではあるがそれ故に存在感を放ち、闇に希釈されて薄くなっていく私の唯一の拠り所となっていた。闇夜に浮かぶ太陽のような灯火の輪郭に広がった暈は、蜃気楼のように周辺の空間を歪ませ、そして、モルヒネのような幻惑を以ってして私を過去に回帰させる。その感覚は夢のように掴みどころがあり、現実のように秩然としていない。そんな矛盾した感覚の見解について俺たちが意見を交わすとき、兵藤は決まって辟易するような主張を平然と口にした。


「世界基準の中で圧倒的な地位に立っている者たちは、誰よりも正直で誠実で、実直でなきゃいけない。例え研ぎ澄まされた悪意の刃を首筋に突き付けられたとしても、そいつたちはもぎ立ての林檎のような純然な好意で要求に応じるべきなんだ」

「そんなんじゃ、良いように使われて搾取されるだけだ。お前の言いたいことも、まぁ分かるけどよ。へいこらと低頭して要求に応えているだけっつう状態ってのは、お互いにとって建設的とは言えないだろうよ。時には刃を突き付けられるその前に、相手の額に銃口を向けて力の差を見せ付けるのも重要だぜ?」

「君は本当に物騒だな」

「お前が献身的すぎんだよ」

「そうか? 俺は人として当たり前のことを述べているだけだ」

「相変わらずお前の善意塗れの思考は気持ち悪ぃな」

「そんなに気持ち悪いのなら、善意に効く酔い止めを飲めばいい」

「んなもんあるか」


 吐き捨てるようにそう言った俺は、俺たち以外の乗客がいない薄暗いバスの車内をざっと見回し、窓外を過ぎていく農耕地に目を移す。

 春を迎えた田畑は薄っすらと緑色に色付き、互いを牽制し合うようにして芽吹き始めている。いち早く土壌から抜け出してきた品種だけがより多くの日光を独占することができ、出遅れたものの上に濃い影を作って伸び伸びと生長する権利を得る。視界に映る広大な田畑では、そんな私欲に塗れた争いがそこかしこで起きているはずだが、流れていく景色は苛烈な闘争の陰影を見せることなく均一で平穏な薄緑で形成されていた。

 見掛けの安寧から視線を車内に戻した俺は、睦まじい家族のように揺れている吊り革や、それを沈黙して見つめる危うい下車ブザーたちを何気なく眺めてから口を開いた。


「そんな甘いこと言ってっとなぁ、いつか悪意を持った弱者に足元を掬われるぜ? 別に低い立場の奴らを蔑ろにしろって訳じゃねーけどよ、助けようとして自分がやられちまったら元も子もねぇだろ」

「それでも底抜けの善意を与え続けることによって、岩盤のように固い悪意もいつの日かバラバラに解体され、最終的に改心の芯を引き出してしてくれると俺は信じている」

「ゲロ吐きたいくらい甘いよ」

「吐いていいぞ」

「誰が吐くか」


 窓から射し込んだ日差しが銀色の手摺りで反射し、流れ星のような光が目を掠めていく。俺は片目を眇め、一つの欠伸を噛み殺して五人掛けの後部座席に深く腰を掛け直した。

 砂利を巻き込む無味乾燥な走行音。バスが進む道には対向車もない。長閑という言葉を口にすることすら億劫になってしまうほど緩慢で無気力な場所と時間で、片田舎の味気のない道を走るバスの中で、俺たちは社会的上位に立つ者たちの在り方を不真面目に語っていた。死角を衝くようにして世界のどこかで生じている軋轢に気付くこともなく、もくもくと、濛々と、排気ガスを垂れ流すバスのように私は口から吐血した。

 内臓が傷付いたのか気道に裂傷ができたのか、果たしてどちらだろう。そのようなことを考えることで離れていく意識を絆す。大丈夫、大丈夫だから。そうやって自身を鼓吹し、皮膚を伝う冷気から転じた恐怖の煽り風によって風前の灯火となった炎に酸素を吹き送る。大丈夫、まだ燃える。まだ燃やせる。閉幕しようとしていた瞼を掻き上げ、私は座席にいるお客さんに息絶え絶えとなって告げる。

 大丈夫です! まだ、大丈夫です!

 叱責の声も野次も飛んで来ることはなかった。それはそうだ。客席には人っ子一人いないのだから。私は一人だ。手足を押し潰され、暗闇に一人取り残されているのだ。

 ようやく状況を認識することができたような気がした。私は暗闇で動けずにいる。そして事態は安閑としていられるものではない。暗闇は末端から着実に私を蝕んでいる。その侵攻は、遠方の戦火が瞬く間に近辺の火種となるように、察知したときにはもう尽くす手は一つしか残されていない部類のものだ。

 私は、残された可能性に手を染めるため、意を決する必要に迫られている。それは言葉通り、身を切る覚悟である。大丈夫、大丈夫、大丈夫なのか? この手段は本当に最良か? これよりも最適な方法があるのではないのか? 実行したとして後悔はないか? そんなことより、私は裁断による流血と衝撃で塩ラーメンのようにあっさりと死んでしまうのではないのか?

 幾種もの不安の種子が舞い散る中、ラーメンは断じて味噌を推す私としては、ここで死ぬ訳にはいかないと固く心に覚悟を定める。そうだ、学校の帰りにラーメンを喰おう。出し抜けに浮かんだ思いを俺はそのまま横にいる兵藤に告げた。


「お、ラーメンか。いいな、是非行こう」

「駅前の屋台でいいよな?」

「ああ、いいぞ。あそこの塩ラーメンは絶品だからな」

「はッ、馬鹿か。あそこは醤油が最高なんだよ。通は真っ先に醤油を選ぶんだよ」

「馬鹿は君だよ。真の通は塩味を好むと相場で決まっているのだ」

「相場ってなんのだよ?」

「ラーメン界隈のに決まっているだろう」

「あぁー、面倒くせ。なんでもいいよ。俺は俺が好きなもんを喰うぜ」

「いや、待て。塩にしろ。食べればきっと解るはずだ。身体中の細胞に染みわたるようにして親和していく塩の旨味が、舌の腐った君にも解るはずだ」

「腐った舌で何を言われても俺の心にはちっとも響かんな」

「おのれ、今に見てろよ……」


 そう言ってむっつりと黙り込んだ兵藤は、塩の霊魂に憑かれたかのように何事かをぶつぶつと呟き始めた。傷口に塩を擦り付けてやる、塩樽に突き落して脱水させてやる。隣から微かに聞こえてくる囁きを無視し、本日二度目の欠伸をしている間に窓の景色は田畑から広葉樹林へと変わっていた。

 密生する樫の林木はご機嫌な巨人のように林道を行くバスを出迎え、頭部に茂った濃緑の頭髪を振り乱して豪快に見送る。枝葉が鳴らす歓送の言葉を直に耳にしようと俺は、座席を滑るように動いて窓側まで移り、転落を防ぐため半開で止まるようになっている窓を目一杯に開けて、初春の風と木々の声を迎え入れる。薄暗かった車内がぼんやりと春の色を宿す。流入する外気は心地良い冷たさで、これから本格的な春を迎えることや、その後に続く夏のこと、秋と冬の二人がまだ待っていることを、俺の肌に教えてくれる。


「今年の夏休み、どうすっかなぁ」


 期せずして口から溢れた悔やみ言は、私の炎の火勢をさらに上げる燃料となった。燃え盛る炎は業火となり、唸り、私の覚悟を促す最後の一押しとなる。私は胃液に溶かされ粗面となった歯で、吐瀉物と唾液と血液に塗れた口内の肉を噛み締める。濃厚な肉汁のような血液がドロっと溢れたがそのようなことは意に介さず、体躯を蛇腹のように波打たせ、地にへばった顎を前方に突き出してその先の地面を捕らえる。四肢の関節に久しく感じていなかった激烈な痛みが現出し、君々、それ位にしておき給え、と偉そうに振る舞いながら脳髄に寄って来る。知るものか。構うものか。私の覚悟は確固としている。この暗闇で一人虚しく野垂れ死んでしまうくらいなら、中核からひょろひょろと伸びた部位に決別を告げてやる。もう何も掴めなくてもいい。もうどこも行けなくていい。誰も抱き締められなくていいし、誰とも歩めなくていい。だから。だから、私をまだ生かしてくれ。


「やっぱ行くとしたら海だよなぁ」

「うみ、海か……。海といえば潮、潮といえば塩、塩といえば塩ラーメン」

「くだらねぇ連想ゲームしてないでよ、誰を誘うか考えろって。さすがに男だけじゃ色気ないからな、やっぱ一緒に行くなら女子だよ、女子。今年こそはこの下腹部を覆う忌々しい無辜の蛹から脱してやるぜっ!」

「ふん、性欲に爛れているな。そんな色欲まみれで不健全だと思わないのか? 母なる海に申し訳ないと思わないのか?」

「高校生が性に無関心な方が不健全だろ。俺たちの年頃なんてな、寝ても覚めても性にまつわるすったもんだのことを考えるのが普通だぜ? 考えていないヤツの方が異常だ。異常禁欲者だ」

「好きに言えばいいさ。俺には関係ないことだ」

「あっそ。じゃあ、いいぜ。違う奴を誘うから。お前が夏休みのクッソ暑いなか塩ラーメンを豚みたいに食い漁っているときに、俺は恥じらいの薄布で秘部を覆った女の子たちと砂浜でプロレスリングしてるから」

「ま、待て。行かないとは言っていないだろ!」

「へっ、ついに本性を出し始めたか、このムッツリ助平め」

「ち、違うぞ! 断じて俺はふしだらな理由で海に行きたい訳ではない!」

「じゃあ、どんな崇高な理由で行きたいんだよ?」

「そ、そうだな……。プ――プロレスリングをするには、あれだ、レフリーが必要になるだろう? そう、そうだッ! 俺はお前たちが公正なスポーツマンシップに則ってプロレスリングを行うか、この心眼で審判してやるために行くのだッ!」

「なるほど。なら、俺の逆水平チョップのような愛撫でメロメロに打ちのめされ、フロントスープレックスによって豪快に砂浜に放り出された女の子を三角締めのような抱擁でギブアップという名の愛の言葉を囁かせるまでの一連の流れを、お前はしかと見届けてくれるというのか?」

「ああ、任せておけ」

「さんきゅー」


 馬鹿げたやり取りを終えると、ぷっ、と兵藤が息を噴き出し、つられて俺もバスに揺られながら笑い出す。まるで俺たちの笑い声でバスが振動しているかと勘違いしてしまうほど、俺たちは笑うことに夢中になっていた。だから、回転するタイヤの下敷きになった樹枝の音を聞き逃した。そこに痛みの襲来はなく、関節の繊維がぶちぶちと千切れていく生々しい感触、骨格が崩れていく振動だけだった。しかし、身体は尾部を失したトカゲのように軽くなり、私は再び胴体を波立たせて軽快に前進を始める。手足の戒めを解かれた私を阻むものはもう暗闇しかない。そしてその暗闇も、猛然と燃焼する灯火で照らせば実体のない虚妄であると分かる。顎先で地面を掴み、腰を折る。バネのように折り畳まれた腰部に力を存分に充填させ、前方の形なき暗闇に向けて解き放つ。蛇のピット器官のように動物の体温を察知することはできないが、私が向かう先には煌々と光を湛えている大地があるという確信があった。

 私が進む。バスが進む。前進のみが許されている。停滞は死滅への直結を意味している。樫の林木は次第に疎らになっていき、バスのフロントガラスから古ぼけた木造の終着駅がのっそりと身を現した。


「学校だりぃな」


 砂利敷きのロータリー、手入れがいい加減な植え込み、駅舎の隣に設置されているラーメン屋の屋台と、象徴のように樹立している大木を眺めながらそう呟く。


「そうだな」


 俺と兵藤は示し合せたかのように肩を落としてため息を吐く。その間にもバスは駅へと接近する速度を緩めることなく、むしろ加速し始めていることに気付いたことで、ようやく俺たちは自分たちに襲いかかろうとしている宿命の暗色を識別することができた。


「お、おい。ヤバくねぇか?」


 迫りくる駅舎から目を逸らさず俺は兵藤に投げかける。


「運転手は?」


 思ったよりも兵藤の声が冷静であることで動揺は少し治まったが、俺は兵藤の顔を見ることがどうしてもできなかった。ハンドルを握っているはずの運転手の様子をうかがうため、手摺りに掴まりながら不安定な車内の前方へと向かう。目映い光が一斉に溢れ出し、私の全身を柔らかに包み込んだ。車輪のように大きなハンドルにもたれかかった運転手の姿が目に入った瞬間、フロントガラスの割れる音が響き渡り、激しい上下の振動に襲われ、とっさに手近の乗車席を掴んだがさらに襲来してきた衝撃によって指は容易に引っぺがされた。眩しい、何時ぶりの光だろう。勢いをいなすことのできず、横のガラスに頭から突っ込んで一時的に意識を失う。瓦礫から這い出し、一本の大樹の横まで這いずり寄った私は、身体を樹皮に擦り付けるようにして感覚のない身を起こしていく。車外へと放り出された俺は、ごつごつとした砂利の上を数回跳ねた末に三メートルぐらい転がって、植え込みの手前でやっと停止した。陽光によって照らし上げられた駅舎の瓦礫は、荘厳な神殿の跡地のようだった。身を横たえた瞳に、大樹の脇で芽を出している小さな植物が映る。生きてやる。生きてやるぞ。大樹に寄り掛かりながら俯けていた顔を上げる。最期になって、いつもは見もしないその小さな植物の存在がどうして目に付いたんだろ。そっか、これから死ぬのに、大地から芽を出したばかりのその植物が、この後も生き続けられることが死ぬほど羨ましいんだ。陽光を貪る大樹よりも高く、その先へと、その先の空へと、手足がなくとも、生きてやる。ああ。ああ、悔しいな。ちくしょう、死にたくねぇな。湿った土から力強い芽を突き出したその植物を。絶対に生きてやる。隣で大挙する大樹をいつか越えてやろうと意気込んでいるその小さな植物を。涙を流しながら見つめ。ため息を吐いて。ゆっくり瞳から光を消した。




 連載している長編の続きを書く気にならないので、やる気を出すために短編を2,3本投稿してから取り掛かるつもりです。


 感想、意見、アドバイス等ありましたら是非お願いします。

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