19
おぼろげな感覚から、真っ暗な闇の中でもこれは夢だ。と直感的に理解した。
いつものように自室の窓からぼうっと空を眺めているうちに、眠ってしまっていたのだろう。
現実では無いけれど、どろりと渦巻く重苦しく陰気な空気は現実よりもずっと濃厚だ。
それはエドワードの肌を泡立たせた。
人の気配と小さな物音が聞こえて、エドワードは重い瞼を少しだけ持ちあげた。
「まぁ、とぼけた御顔の坊やだこと。大丈夫なの?」
密やかな、しかし艶のある女性の声だった。
彼女の台詞に答えたのは、しわがれた老人の男のような声。
「見目と中身は関係ないだろう」
「私としてはもう少し大人な色っぽい男が好みなのだけど」
「まぁそう言うなイヴァー。…しかし良い血筋だとは感じていたが、まさか王家直系の者だとは。思った以上に極上だ」
彼らの声のする方へとエドワードが顔を上げると、漆黒の長い直髪を腰まで伸ばした妖艶な女性が顔を覗き込んでいた。
胸元の開いた赤いドレスは、彼女の肢体に張り付いているかのように曲線的で、太ももから開いたスリットから白い足がのぞいている。
実の母も露出の多い服装を好むタイプだけれど、目の前に立つ女性はもっと扇情的だ。
母を凛と咲く白い百合に例えるならば、彼女は棘をもつ真っ赤な薔薇だと言えるだろう。
イヴァーと呼ばれたその女から立ち上る濃厚な花の香りが、エドワードの鼻をくすぐった。
(あれ? 夢、なのに?)
香りがここまで鮮明にわかるなんて。
いままで生きてきた中で経験が無いほどに濃厚な夢。
エドワードは変だな、と思いながらも深くは考えなかった。いや、考えられなかった。
頭が普段よりも数倍ぼうっとしていて、考えることを放棄させられているような感覚だ。
白くぼやける視界の先にある女の真っ赤な唇の両端が上がる。
彼女の細い指先がエドワードの顎先に添えられ、上向かせられた。
伸ばされた指先が皮膚に食い込んで肌に痛みが走る。
痛みを感じることにも可笑しい、と思うべきだろうけれど、それでもエドワードにはぼやけた視界と緩慢で動かない身体の感覚からこれは夢なのだと思っていた。
イヴァーの指に視線を上げさせられて、初めてエドワードはここが自分の部屋なのだと理解する。
座っているのは眠気に落ちる直前に腰かけていたソファで、視界の先には見覚えのある天井や壁、家具などが見て取れた。
----これは自分が見ている夢。
だから王子の自室に居る彼女は侵入者ではない…はずだ。
(いや……違う?)
ぼやけけた視界も、冴えない頭も、現実感をなくす浮遊感を醸し出す。
しかし、確実な違和感があった。
(そうだ。違う…これは…)
エドワードは『魔法』に敏感な体質だ。
肌を泡立たせる感覚は、室内に『魔法』が張り巡らされている証拠。
瞬時に何者かの罠に嵌まってしまったと知り、エドワードは瞬きを数回してから目だけを動かして周囲をうかがう。指先と同じように首も動かなかったから、見ることのできる範囲はひどく狭かった。
その仕草に気付いたのか、イヴァーは僅かに驚いたようなワントーン高い声を上げる。
「あら、この状況で頭を働かせられるなんて、とぼけた顔のくせにやるのねぇ」
くすくすと笑う声とその台詞にこれは現実なのだと、エドワードはやっとはっきり理解した。
しかし指先はぴくりとも動かない。口も開かない。全ての運動機能が停止させられている。
頭もあいかわらずぼうっと霞んでいて、とても抵抗出来る状態ではない。
「思った通り、強い力を持つ者のようだ」
その男の声は女の肩口から顔をのぞかせた蛇だった。
イヴァーの襟元にストールのように巻きついている、2・3メートルはありそうな赤黒い大蛇。
ぎょろりとした蛇独特の金色の縦に走った瞳孔に捉えられるとエドワードの背筋に悪寒が走った。
「ねぇ、王子様。私たちの仲間にならない?あなたには資格があるわ」
突然のイヴァーからの勧誘に、エドワードの眉間に皺が寄せられた。
目の前の女を睨むその眼差しは明らかな拒否を物語っている。
「どうやら不満らしいな」
「ま、この状況では当たり前でしょうけど」
得体のしれない魔法で自由を奪った不審な侵入者の仲間になるはずがない。
仮にもエドワードはこの国の王子だ。
沢山の人間の人生を背負っていると言う責任感は生まれたころから持っている。自分が、明らかな悪役に屈するなどありえなかった。
脳裏に、きらきらとしたルルの笑顔が浮かぶ。
彼女の生きる国を守っていく立場になることはエドワードの誇りなのだ。
そんなエドワードの考えを見越したように、大蛇は目を細める。
憐れむような、悲壮に満ちた視線だった。
「我々は可哀相な君の助けになりたいだけだ」
「そうそう、協力してあげるって言っているのよ」
彼らは何を言っているのだ。
こんな不審者に頼みたいことなんて、エドワードにありはしない。
「ルルが、欲しくない?」
(っ…)
的確だな、とエドワードは思った。
自分の弱みを的確に知られている。
一番欲しい、何を犠牲にしてもいいと思っているものをくれると言う。
エドワードの理性を奪う----甘い誘惑。
全ての国の民の命を合わせても、ルル一人の価値にはかなわない。
彼女の為なら何を犠牲にしようが、どんな悪事だろうが、躊躇いなくエドワードは実行に移せるのだ。
------けれど。
(絶対泣く)
無理やりに手にいれようとすれば。
そのためにエドワードがこのあきらかな悪人に肩入れするようなことになれば。
ルルは絶対に、泣く。
真っ直ぐな心根の少女は、自分のせいでエドワードが悪に染まったと嘆くのだろう。
甘い甘言にぐらりと傾きそうな理性を、脳裏に浮かんだルルの泣き顔で気合いをいれて引き戻す。
エドワードは腹部に力を込めて、身体をとらえている魔法に必死にあがらう。
全身に載せられた重い重石を持ち上げるような感覚に、額から玉汗が流れおちていた。
「…だ…れがっ……!」
「そう?でも、きっと直ぐに考えは変わるでしょうね。なにせ王子様の大切なルルが一番、私達と近いのだから」
「……?」
「私は『魔族』と呼ばれているわ」
エドワードの目が見開かれる。
イヴァーの首に巻きついている大蛇はどうみても魔力をもつ生き物…魔物。
それを従える彼女は自らを魔族だという。
『魔族』と言うのは魔物へ肩入れする者を示す蔑称だ。
差別の迫害の対象となっているが、能力的には普通の人間となんら変わりはない。
「私は人が嫌い、何の理由もなく魔物や魔族を排除し殺戮を行う野蛮な奴らなんて、消えてしまえばいいのよ」
蛇の背を指先で愛おしそうに撫でながら言うイヴァーの言葉にエドワードがギリッ、と奥歯を噛みしめた。
彼女のその台詞で、彼らがなそうとすることは簡単に想像が出来た。
太古の昔にあったと言う、魔族と人間の戦争----。
彼らは今度こそ、魔族優位の世界を作ろうとしているのか。
「ね?ルルが一番近いでしょう? あの子とは良いお友達になれそうだわ」
エドワードは魔物に対してどうしても悪意をもてず、悩んでいるルルを知っている。
目の前のイヴァーの言うとおり、彼女達と一番似通った思想をルルは持っている。
「ち…がう……」
動かない唇を、息絶え絶えながらも動かしてエドワードは相手を睨んだ。
「ルルは…違う…」
「は?何が、同じでしょう?あなたの次にはルルを手に入れるつもりなのよ? きっととても強い味方になってくれるわ」
「ルル…は、魔物を……悪事に、っ、利用しない……!」
何を間違っても、この者達のようなあきらかな悪人にルルが味方をするなんてありえない。
-----だから、絶対に彼らの勧誘に自分は屈するなどありえない。
そう目で語るエドワードだったが、大蛇はその身と細長い舌を伸ばしてエドワードの頬をなめ上げた。毒でもあるのではと思ってしまう、しびれるような感触だ。
「強情なことだ。まぁ、すぐに考えは改まるだろうな」
「ありえ、ない…!」
「そうか? お前自身が悩んでいたではないか。このままではルルは遠くに行ってしまう、と。私達の仲間になれば…そしてルルをも仲間にできれば、ずっと共に居られるのだぞ?」
「っ……」
駄目だ。とエドワードは自分を強く否定する。
そんな方法、ルルは絶対に喜ばない。
しかし大蛇の誘惑にぐらりと傾いている自分もいるのだ。
「また来よう。今度はいい返事を期待しているぞ」
とたんにエドワードの視界がゆらいで、前が見えなくなった。
白くかすむ視界の先。
イヴァーと大蛇の体が消えていくのを、指一本動かせないエドワードはただ見て居るしか出来なかった。
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「……エドワード、体調悪い?」
いつものように王城の図書室でエドワードに勉強を見てもらっていたルルが、目の前の席に座るエドワードの顔色をうかがうように見上げた。
白いセーラー襟の制服姿の少女の問いに、エドワードは無言のままに首を横へ振る。
にルルは『本当に?』と重ねて尋ねた。
「顔色、悪いよ?」
形の整った眉を下げて、碧色の瞳を不安げに揺らしている少女。
心配してくれることが嬉しくて、エドワードの目元が少し細められる。
「ずっと…本、読んで……。寝不足、かも」
「本?なにか面白いのあったの?」
エドワードがゆっくりと頷く。
そうやってうつむいてしまったから、ルルからエドワードの表情は見えなくなってしまった。
(本は、嘘。ごめん…)
エドワードがきゅっと唇をかみしめた。
彼が寝不足なのは本当だ。
初めにイヴァーと呼ばれる女性と大蛇の魔物が現れてもう5日がたっていた。
彼らは毎晩、エドワードが寝入った時間を見計らったかのように現れる。
魔法でエドワードの思考と体の自由を奪って語るのだ。
-----ルルが、欲しくないのかと。
「っ………」
脳裏にあの艶のある声が響いて、エドワードは堪らず眉間を指で押さえる。
「エドワード?」
「大、丈夫……」
ルルが立ち上がり、身を乗り出してくる。
心配そうに手を伸ばして、エドワードの柔らかな薄茶の髪を撫でた。
優しい感触に、目をつむって身をゆだねた。
(……完全に跳ね除けられないのは、それほどに甘い誘惑だからかな)
エドワードが心から欲しているものを、彼らは熟知していた。
だから揺れるのだ。
その甘言に、気を抜けば引きずられてしまいそうになる。
今のままでは、間違いなくルルはエドワードから離れていく。
学校の授業や友人との付き合いで、王城まで来てくれる時間はどんどん少なくなっている。
そうして成長するにつれて視野も世界も広がるのは、人間である以上当たり前だ。
けれどルルが離れていくことが、1人になることが。怖くてたまらない。耐えられない。
だってエドワードの世界にはルルしかいないのだ。
学校へ行かないことを選んだのも自分。
人付き合いを遠ざけてきたのも自分。
長く生きられないだろう人生におびえて縮こまって、周りの全てから耳と目を塞いできた。
唯一の世の中のとつながりが、母が友人にと付けてくれたルル。
母はルルを通じてエドワードが更に外へと目を向けることを期待していたのだろうけど、エドワードにはルル一人で十分だった。
視野を広げることを拒否したのは己の意志なのだから、今ルル以外に側に居る人がいないのは、当然だ。
その彼女が離れていこうとしている。
数年先にたった一人でいる自分を想像すれば、不安で不安で気が狂いそうだった。
そして彼女を引き留めるための手が、目の前にぶら下がっているこの状況。
(あぁ……だめだ……)
きっと自分は近いうちに堕ちてしまうのだと、エドワードは泣きそうな気分で確信した。
「エドワード…?」
俯いたまま顔を上げる様子のないエドワードに、ルルが心配そうに声をかける。
けれどエドワードはいつも以上に口を閉じてしまって、何も答えようとはしなかった。
彼はきらきら輝く明るい場所に立つ彼女に、こんな醜い感情を見られたくなかったのだ。