その七
(七)
しがみつくように足に抱きついた人形を、俊子は何度も振り払おうとした。
しかし人形はビクともしない。それどころか、ゆっくりとよじ登ろうとさえしていたのである。
「た、助けて……信ちゃん!」
信二はゲームのモニターを凝視したままだ。俊子の声さえ聞こえていないように。
俊子は人形を摑むと、力の限り引っ張ってみる。何度も、手の痛みさえ分からないまま引き離そうとした。
そして――足に人形の爪痕を残しながら、やっとの思いで掴み取る。あまりの不気味さに、俊子は人形を投げ飛ばしていた。
その人形が、偶然入って来たマネージャーの身体に当たって転がった。
足下に落ちた人形を見て、一瞬マネージャーは戸惑いの色を見せる。
「坊や――」
信二の背中に、マネージャーは問いかけた。しかし信二は振り向こうとしない。
やはりそうだ……。言い伝えは本当で、あの人形が不思議な現象を引き起こしているのではないだろうか。
マネージャーはおもむろに人形を拾い上げる。そしてその顔をまじまじと見つめた。
何の変哲もない、至って平凡な人形だ。黒いまっすぐな髪に、着物姿。真っ白い顔に、墨で書かれたような細い目。
――その瞬間、人形の細い目がギョッと見開いて、血走った眼が見えた。
「うわっ!」
驚きのあまり、思わず人形を放り投げるマネージャー。
その人形が、信二の背後に立っている俊子の足下に、再び転がって来た。
「た、助けてください!」
やっと人が入って来たのを見て、俊子は安堵の思いでマネージャーに駆け寄る。
そしてその腕を取ろうとして――。
「坊や、こっちを向いてくれないか」
マネージャーはその存在に気づいていないのか、俊子の目の前を素通りした。
「あの……ちょっと!」
俊子は叫んだ。やはり――やはりこの人にも私のことが見えないのかしら……。
愕然として、俊子はペタンとひざまずく。
誰も自分の存在を認めてくれない。それどころか、目の前で人が死んで行ったのだ。もしかしたらこの人も? いや、違う。恐ろしい現象に巻き込まれたのは、自分の存在に気づいた人間だけだ。ということは……。
さっき私は、信二と話しをしたわよね。それじゃ、信二には私が見えている。
えっ? まさか信二も?
マネージャーが信二の肩を叩いた。
「――邪魔するな!」
振り向きもせず、信二が叫んだ。「もうちょっと……あと少しなんだから!」
ゲーム機の後ろにある窓に、赤い光が反射している。ついにここまで火が廻って来たのだろうか。
マネージャーは信二の腕を摑むと、力任せにゲーム機から引き離した。
春美はためらっていた。
人形に問題があるとは言ったものの、もちろん確信があるわけではない。
マネージャーの総合的な話と、<菊の間>の子供の異様な雰囲気。それだけであの人形が魔物であると言えるだろうか。
春美はオカルトや超能力といった非現実的なものを信じているわけではない。むしろ現実主義者で、理想を追うこともなく、今の生活をどうするか、明日の食事は……といった平凡な女なのである。
ただそれが裏目に出て、江島という「魔物」に騙されていたのだ。社会の裏世界へと引きずり込まれ、脱出するためには身体を売らなければならない。自分だけならそこまで落ちることはなかったのだろうが、あんな男でも一時は惚れていたのだ。
鳥肌の立つような汚らしい男でも、あの人のためなら、と苦汁をなめてまで獣たちにこの肉体をさらけ出して来たのである。
やっと開放された、と思っていた。昨日までは……。
資料館に入ろうとして、春美は振り返った。江島がズボンについた泥を払いながら、不気味な笑みを浮かべている。
やっぱり逃げられないんだ……。
「おい、春美」
江島がふらついた足取りで近寄って来る。「お前も早く逃げないと焼け死ぬぞ」
資料館の裏手から火の手が見える。周りを囲む客室棟も、いつの間にかいたるところから赤い炎が見え隠れしていた。
「――あなた、結婚するのよね」
と、春美は訊いた。
「結婚? そんな話もあったっけな」
「やっぱりね。どうせいい加減なこと言って、引っ込みがつかなくなったんでしょ」
「そんなことはない。俺だって、あんな汚い世界から足を洗いたいと思っていたんだ。普通の女をもらって平凡な生活をする。そんな当たり前のことが、やっと見えたような気がしたよ。でもな――」
江島はためらいながら、「普通の女というものが、こんなに退屈なものだとは思ってもいなかった」
と言って、ため息をついた。
「じゃあ、結婚はやめるの?」
「いや、それは分からないが、たとえ結婚したとしても、そう長くは続かないさ」
「どうして?」
「しばらくすると前の旦那みたいに、俺も殺されるかもしれん」
「殺される? 誰に?」
「あの女さ。――あいつ、自分の亭主を殺したんだぜ」
江島の言葉に、春美は耳を疑った。「もちろん自分で手を下したわけじゃない。酔っ払って側溝に落ちた亭主を、そのまま見殺しにしたんだ。助けていれば死なずに済んだものを……」
「そんなこと、なぜあなたが知ってるの?」
と、春美は訊いた。
「そりゃ……俺もそこにいたからさ。亭主が出張だというんで、ちょっと遊んでいくはずだったのが、夜中にひょっこり帰って来やがったんだよ。俺も殴られるのは好きじゃないんでね、そのまま知らん顔して帰って来た、ってわけさ」
「それじゃ、あなたも同罪じゃない!」
春美は叫ぶように言った。
「おっと、俺を殺人者呼ばわりしないでくれよ。俺はあくまでも客だったんだ」
客? 一体どんな客だというの!
春美は怒りがこみ上げて来るのを感じていた。
「子供は?」
春美の声は震えている。「何の罪もない子供の将来を考えたことはないのね」
「あのガキか。子供なんてものは、放っておけば勝手に成長していくさ。あの薄気味悪い人形と一緒にな」
江島はそう言って、つばを吐き捨てた。
「人形って……あの子が持っている人形のことよね」
春美は江島の言葉に反応した。「あの人形、どうしたの? いつからもってるの?」
「あれは亭主の土産だったらしい。どこから買ってきたのか知らないが、親が親なら、子も子だぜ。側溝に落ちた父親が大事そうに抱えていた人形を、女の子みたいにいつも抱いているんだ。全く、気色悪い」
「土産……」
「母親も冷酷だが、あのガキだって冷たいものさ」
と、江島は言った。「死にかけた父親の腕から、土産だけを奪って来たんだから」
やっぱりそうだ。マネージャーが言っていた建設会社の営業マンとは、あの子の父親なのだ。
旅館の改装に向けて先代の社長と話を進めているうちに、気に入られてあの人形をもらって来たのであろう。
そして、たまたま運悪く側溝に……。
しかしあの子は、母親を愛していなかったのだろうか。土産を買ってくる父親を、慕っていなかったのだろうか。
いや、そんなはずはない。どんな人間であろうと、幼い子供にとってはかけがえのない親なのだ。恨めしく思ったり、殺意を抱いたりすることなんかあろうはずがない。
しかし、春美が現実に目撃しようとしているのは、ゲーム機を使って母親を殺そうとしている男の子の姿なのである。もっとも、人形があの子を操っているのであれば、話は別なのだが……。
「どこに行くの?」
と、春美は訊いた。
婚約者、そして自分の子供になろうとする男の子を助けに行くどころか、江島は資料館とは逆の方に歩き出そうとしていた。
「この若さで死ぬのは真っ平だ。――さあ、お前も早くついて来い」
「あなた、あの人のこと愛していないの? 私と同じような目に遭わせようとしてるの?」
この人でなし! という言葉を春美は飲み込んだ。どうせ何を言っても分からない男なのだから。
春美は背を向けた。
「待て、死にたいのか?」
「そうね……あなたといるよりは、死んだ方がましかも」
振り向きもせず、春美は資料館のドアを開けると、「この中に、お客様が残ってるわ。いち早く助け出すのが、私たち仲居の仕事なの」
そう言って、建物の中へと消えて行ったのだった。
江島はしばし呆然としていたが、思い直したように溜息をついた。そして――唇の端を歪めて、笑った。
みんな死んでしまえばいい。女なんて、いくらだっているんだから……。
江島は資料館に背を向けると、表玄関の方へ歩こうとして――客室棟の一部から吹き上がった炎が、大きな音と共に中庭へと降り注いだ。
振り向いた。――そう、江島は振り向いてしまったのである。
目前に近づいて来る物体がある。しかしその動きは早すぎて、江島の視線に入るまでに、瞬きするほどの時間を要した。
その瞼が持ち上がったとき、身体に激しい衝撃が走ったかと思うと、一瞬にして意識が遠のいていく自分の姿を、江島は見ているような気がした。
吹き上がった炎の勢いで、熱く焼けた鉄枠が吹き飛ばされていたのだ。
江島を直撃した鉄枠が、植え込みの中に転がった。そして雑草を焼き尽くすかのように、鈍い煙を噴き上げはじめていた。




