その四
(四)
廊下を通り抜けて中庭に出ると、俊子は茂みの中に身を隠していた。
悪いことをしたわけでもなければ、誰かに追われているわけでもない。
ただ、火だるまになった人間を見て、それを放置してきたと言う慙愧に堪えられなかったのである。あの恐ろしい映像が、まだ脳裡に焼きついて離れなかった。
しかしいつまでもこうしてはいられない。
信二が心配しているだろう。早くあの部屋に帰らなくては……。
「私の部屋、どこ?」
驚いて、脅えて、散々駆け回っていたのだ。現在自分がいる場所さえ分からない。
とりあえず廊下に出てみた俊子は、見当をつけて歩き出した。
と、向こうから旅館の従業員らしい女が歩いて来る。俊子は部屋を訊いてみようと呼びかけた。
「あのう、すみません」
手を差し伸べるが、女は気がつかないのだろうか、目の前を通り過ぎようとした。
「ちょっと、聞こえないの?」
と、今度は大きな声で言ってみたが、振り向こうともせず、女はさっさと行ってしまった。
「何よ、無視して!」
一体どういう教育をしているのかしら!
憤然としていると、また人がやって来る。ここの調理師であろう、白衣を着た男だ。
「あのう――」
俊子の目の前でその男は立ち止まった。「〈菊の間〉って、どっちに行けばいいですか」
俊子はおずおずと訊いてみた。
「坂本さん、ちょっと待ってよ!」
と、俊子にではなく、今通り過ぎたばかりの女に、男は言った。
苛立つように、女が戻って来る。
「早くしなさいよ。もう救急車、行っちゃったわよ」
「ごめん、飯食ってて――。それであいつ、どうだったんだよ。まさか……」
「たぶん、だめだろう、って。上半身が黒焦げだったらしい」
と、二人で駆け出した。
その間、俊子は何度も話しかけていた。しかし一向に返事をしてくれなければ、まるで自分たち以外は誰もいない、といった様子なのである。
どうして気づいてくれないのか、さっぱり分からない。私、透明人間にでもなったのかしら。
でもあの言葉だけは、俊子にとって衝撃なものだった。
駆け出す間際、女が吐き捨てたのである。
「〈菊の間〉のおばさんが悪いのよ。旦那と子供をほったらかして、いつまでも帰って来ないから」
そして、「きっと男漁りに行ってるのよ。好きそうな顔してたもん」
と、言っていたのだった……。
とにかく、早く部屋に帰らなければ。
俊子はその建物を出て、次の棟へと飛び込んだ。似たような造りなので、元の場所に戻ったような錯覚にとらわれてしまうのだが、すれ違う人は様々だ。
もっとも誰もが、声をかけても返事をしてくれなかったのだが……。
その棟の客室には、やはり〈菊の間〉の札は見当たらなかった。
思い切って、見知らぬ部屋のドアを叩いてみるか。客であれば、自分の存在に気づいてくれるかもしれない。
いや、無駄だろう。今まで誰も返事をしてくれなかったのだから。
と、その時、隣の部屋のドアがスッと開いた。そして顔を出したのは、湯治客であろう、温和な顔をした老婆だった。
声をかけよう、と思った俊子だが、やはりそれはためらわれた。どうせまた無視されるのが落ちだ。すると、
「ああ良かった。お嬢さん、トイレはどこだったかのう」
と、訊いて来たのである。「歳を取ると忘れっぽくていかん」
私? 私に言ったのよね?
「おばあちゃん、私、見える?」
俊子はおずおずと訊いた。
「年寄りをバカにしとるのか? 頭は惚けても、この目だけはしっかりしとる」
老婆はグッと顔を近づけて、「おお、なかなかの美人じゃな」
と言ったのだった。
俊子の顔に、やっと笑顔が見えた瞬間だった。
「やっと見つけたぞ、あの化け物」
と、信二は言った。「今度こそひねり潰して、ぶっ殺してやる」
ゲームのモニターを見ていた信二は、なかなか先に進めず苛立っていた。
とにかく第二ステージは何としてでもクリアしたい。次のステージがどんな場面なのか、早く見てみたいという衝動に駆られていたのである。子供にとって、ゲームに終わりはないのだ。
信二はまたレバーに手をかけていたが、まだためらっていた。
目指す標的がシークレットになっていて、簡単にはクリアできない。やっと見つけたと思ったら、操作ミスで関係ない者が消されてしまうのである。
次もあの手でやってみるか……。
信二がレバーを動かそうとしたときだった。
「――何だよ、邪魔するなよ!」
信二の手が止まった。「え? さっき使ったから、もうだめだって?」
ゲームのルールでは、そのステージで同じ攻撃をしてはいけないらしい。
それもそうだよね。さっきは火炎放射機でゲームオーバーになったんだから、違う攻め方をしなくてはいけない。
「じゃ、、どのアイテムを使おうか」
と、信二は訊いた。
もちろん、人形に向かってである。
「――え? そんなことできるの?」
へえ、とかんしんしてた様子で、信二はレバーを動かすと、タイミングを見計らって赤いボタンを力強く押した……。
このゲームは、至って簡単な古いタイプのものだ。迷宮に逃げ込んだ殺人鬼を探して、与えられた三つのアイテムを使ってやっつけるというもの。ハンター役である信二は、前後左右に移動するレバーと、アイテムを選ぶ緑のボタン、そして攻撃する赤いボタンを駆使して、姿の見えない相手を探さなければいけない。そして攻撃する。
しかし相手が見えないだけに、特別アイテムとして透視能力がある三人のスパイを使うことができた。
殺人鬼を消してしまえば次のステージに進むことができるのだが、ゲームといえどもそこは殺人鬼。最初に送ったスパイは、火炎放射に失敗して自滅してしまったのである。
だが、裏技があるらしい。人形が、それを教えてくれるのである。
ゲームモニターの画面が色鮮やかに輝き始めると、信二は辺りに響き渡るような奇声を発していたのだった……。
事務室の机でふさぎこんでいたマネージャーは、ポンと肩を叩かれて、顔を上げた。
「君か………」
野添春美が、優しく微笑んでいた。
「落ち込まないで下さい。あれは事故なんだから」
「うん、分かってはいるんだけどね」
と言われても、自分の目の前での出来事なのだ。助けよう、火を消そう、と思っても、突然のことに動揺して身体が動かなかったのである。もがき苦しむ板前を見て、見えない何かに縛り付けられたように突っ立っていたのだった。
俺が殺したようなもんだ……。
マネージャーは大きく息をついた。
「客室の状況はどうだね」
「ええ、食事も終わって、何とか落ち着いてます」
と、春美は言った。「でも、何となく気になることがあって……」
「どうした。サイレンを聞いて、宿泊客が大騒ぎしてるんだろう」
「それなら分かるんですが……」
春美はためらうように、「いつもと同じなんです。騒いでいるのは身内だけで、お客様は部屋でくつろいでいたり、また温泉に入ったりして誰も気がつかないみたいで」
考えられません、と当惑していた。
あれだけ騒いだのに、客室は静まり返ったままなのだ。人間の心理を考えれば、数百人の内、せめて数人程度は野次馬がいてしかるべきではなかろうか。
「〈菊の間〉の客、帰って来たか?」
と、マネージャーは訊いた。
「まだです。――でも、もう出せないでしょう。厨房があんな状況じゃ」
「だからといって、このままじゃいけない。他の料理に変えていただくよう、僕が頭を下げに行って来るよ」
「でも、どこに行ったのかしら。夕方ごろは、子供さんと一緒に資料館で遊んでいるのを見かけたんだけど」
と、春美は呟くように言った。
「資料館で?」
まさか、といった様子で、マネージャーは顔を上げた。「何をしてたんだ?」
「さあ、ゲームをしてくる、って声が聞こえたような気もしましたが……」
もちろん信二の声である。この旅館に着いてから、放射状に広がる建物の中央にひっそりと佇んだ小さな建物に、何度も出入りしている姿を見かけていた。
そんなに楽しいところなのだろうか?
資料館といっても、春美はそこに何があるのか、まだ知らなかった。見た目には廃屋同然で、春美の入社以来、客も従業員もほとんど出入りがなかったのである。
「それで、子供は帰って来たのか?」
「ええ、さっきは帰ってたんだけど、お母さんが帰って来ないから、また……」
マネージャーは立ち上がった。
机の引き出しを開けると、慌てて何かを探している様子。そして取り出したのは……。
「早く行こう」
「行こう、って……。〈菊の間〉のお客さんは、まだ――」
「資料館だ。そんなバカなことがあるか」
マネージャーは怒ったように、「あそこは数年前から廃館になってるんだ。この半年、鍵を開けたことなんかなかったんだぞ」
と言って、錆のついた古いキーを振り上げたのだった……。
――事務所の裏口から中庭に出ると、少し離れたところに資料館の裏側の壁が見える。取り囲む近代的な客室棟と違って、今にも崩れ落ちそうな古い木造の壁には、長い間放置されていたのだろう、密生した植物がへばりついていた。
客室棟から無数の明かりが漏れているし、渡り廊下や中庭のいたるところに照明があって、夜の九時を過ぎても暗いということはない。
しかし資料館の付近には照明がなく、まるでブラックホールのようでもあった。
マネージャーが春美と共に、静まり返った中庭に出たときだった。
どこからともなく、女の叫び声が聞こえた。
そして待つほどもなく、マネージャーを探す若い仲居の声。
閉鎖されているのだから暗いはずなのに、資料館の中に小さな灯火が見える。それを横目に見ながら、マネージャーは声の聞こえた方へと駆け出した。
「あっ、マネージャー!」
とても平常心とは言いかねる状態で、入社したばかりの仲居が飛びついて来た。
「どうした!」
「あの……お客様が……お婆さんが!」
と言ったっきり、放心状態で言葉が出ない。ただ、今駆け出してきた客室棟を指差して、小さく震えていた。
また何かあったのか?
マネージャーはその棟に走り込んだ。
そして、立ちすくんだ。
「――来るな! 入ってはいかん!」
追って来た春美を、マネージャーは制したのである。
とても見せられない。こんな光景を見たら気を失ってしまうだろう。いや、気丈なマネージャーでさえも、自分が正気なのかさえ分からなかったのである。
「資料館に、子供がいます」
と、春美は言った。「窓のところから、こっちを見て、笑ってて……」
春美の声は震えていた。
マネージャーの目の前に広がる光景は、何となく想像できる。あの焼け爛れた板前の姿も、ちらりとではあるが見てしまったのだ。
何かが起きている。この平和な旅館の中で、信じられないような現象が起きているのだ。
春美は、資料館で笑っている少年を見て、背筋に冷たいものを感じていたのだった。
「――マネージャー。〈菊の間〉の料理、どうしましょう……」
もはや春美も、平常心ではない。
しかしその声は、マネージャーには聞こえていなかった。
廊下に横たわる老婆は、もう人間の姿をなしていない。まるでピンポン球が弾けたように、廊下のいたるところにぶつかったのだろう。
壁や天井に無数の血痕を残して、その身体はすでに潰れ果てていたのだった……。




