その三
(三)
散々探し回ったが、俊子の行方は分からない。入れ違いに信二は帰って来たものの、今度は俊子が迷子になったのだろうか。
旅館の中を二周――いや、三周はしたかもしれない。しかしどこにも、我が子の安否を心配する母親の姿は見られなかった。
「俺の部屋、どこだっけ……」
どこに行っても同じような造りにしか見えないその棟に入って、江島はため息をついた。
盆を手に持った仲居が、その並びの真ん中辺りの部屋から出て来た。そして後を追うように、
「おねえちゃん、また来てね」
と、屈託のない笑みを浮かべ、信二が顔を出した。
やはりこの棟でよかったんだ、と安心すると、江島は急ぎ足に駆け寄った。
「信二君、お母さん、帰って来た?」
と言いながら、その視線は部屋の中に飛んでいる。
「ううん、まだだよ」
「そうか……。ずっと待ってたのかい?」
「うん、そうだよ」
「退屈だっただろう。ごめんな」
「大丈夫だよ。僕は一人じゃないから」
と、信二は言った。「いつもあいつが、そばにいてくれるからね」
一人じゃない、って、誰かいるのだろうか。たまたま偶然、友達でも……。
「あのおねえちゃんがね、僕と遊んでくれたんだよ」
行きかけた仲居を、信二は指さした。
仲居は振り向くと、
「申し訳ありません。揃われてから、とは思ったんですが、先に料理を運ばせていただきました」
と言って、深々と頭を下げた。
「こちらこそ申し訳ない悪いのは俺たちなんだから――」
江島の言葉が止まった。
仲居が顔を上げて、その目が合ったのである。
「――春美、か?」
と、江島は言った。
仲居は――いや、野添春美は、江島の顔を見てためらいの表情を浮かべた。
「お前、こんなところにいたのか……」
和服姿の春美は、突然その姿を見せなくなったときとはまるで別人のような容姿だった。自慢していた長い黒髪は、頭の上でひとつにまとめてあるし、輪郭を浮き出させていた派手な化粧のかけらもうかがえない、地味な素顔をさらけ出している。
あれから五年しか経っていないというのに、すでに中年おばさんの気配すら感じられた。
江島と同棲していたのが二十一歳だったから、まだ二十六になったばかりの女盛りのはずなのに……。
「探したんだぞ。俺に黙って――」
「どうしてここにいるの? また私を連れ戻しに来たの?」
と、春美の声が小さく震えた。
「そうじゃない、偶然なんだ」
江島は真顔になって、「俺、結婚することになった」
と、言った。
「まだそんなこと言ってるの? あなたは――」
と言いかけたが、そのやり取りを信二が聞いている。
「ちょっと待っててくれ。後で話をしよう」
とりあえず信二を部屋に連れて行くと、江島はまた出て来て、ドアをきっちりと閉めた。
どんな話になるか分からない。もし春美が騒ぎ出したりしたら、今の江島では、なだめることすらできないだろう。
信二には聞かせたくない。いや、聞かれてはいけない話なのである。
「元気にしてたのか」
と、江島は言った。しかし春美はうつむいたままだ。
「まだ恨んでるのか、俺のこと」
「さあ……どうかしら。恨んでない、と言えば嘘になるわね」
「悪かったと思ってるよ。いや、あのままいてくれたら、きっと君を幸せにすることが出来たはずなんだ」
「私が稼いだお金で?」
春美は顔を上げて、「人には言えないような飲み屋で働かせられて、あげくの果ては身体を売る商売。そしてその収入は、すべてあなたの懐に入るんですものね。そんなお金で、私を幸せにできた?」
と、一気にまくし立てるように言った。
「だからそれは――」
「何度も逃げたわ、私。でもあなたは地の果てまでも追いかけてきた。そして連れ戻される。待っているのはあなたじゃなくて、女に飢えたバカな男ども。弄ばれて、傷つけられた私は、あなたに甘えるしか休まるところがなかったわ」
そして春美は、苦笑した。「お金を払って、あなたに慰めてもらってたんですものね。逃げない方がどうかしてるわ」
過去の暗い思い出がよみがえったのか、かさついた頬に涙がこぼれ落ちた。
江島は言い訳をしようと思っていた。今だけではない。いつか会うことがあったら、今度は俺が面倒を見てやる、と言いたかったのだ。ちゃんと仕事をして、と……。
しかし場所が悪い。結婚の話を信二に納得してもらうべく、この旅館に来ているのだ。過去のことは一切忘れ、新たな生活を送るスタートの旅行なのである。
そして今大事なことは、俊子がいなくなった、ということだった。
「ごめんなさい……。私、料理を運んで来ます。次が最後だから」
と、春美が向きを変えたときだった。
ギギッ、と音がして、部屋のドアが少しだけ開いた。
信二が退屈しているのだろう。もちろん母親を心配しているのだろうが、子供としてはどうすることもできない。
「信二君、ごめんな。ちょっと――」
と言って、江島はドアを開けた。
しかし、そこにいるのは信二ではなかった。自宅に置いて来たはずのあの人形が、ドアの下で江島を見上げていたのである。
しばらくして、信二がやっと顔を出した。
「あれ? お話は終わったの?」
そう言いながら、信二はスリッパを履いている。
「お母さんを探しに行くの?」
と、春美が訊いた。
「ううん、退屈だから、ゲームしてくる。いいでしょ?」
「ああ……いいよ。でも、お金は持ってるのかい? お昼、たくさん使っただろう」
「大丈夫だよ」
と、信二は言った。「だってお金いらないんだもん、あのゲーム」
人形を抱き上げた信二は、静かな廊下をさっさと歩いて行った。
江島はしばらく黙ったまま、その後姿を見つめていた。
――話しをしている。返事をするように肯きながら、信二は語りかけているのだ。
あの人形に……。
「あの子、子供じゃないみたい」
と、春美が言った。「話しているときはもちろん子供そのものなんだけど、時々、大人の眼になるのよね。何だか怖いわ」
信二の後ろ姿を、江島と春美は見つめていたのだった。
角を曲がって、信二の姿が見えなくなった。
「とにかく、料理を運んで来ます。早く探して下さいね」
と、春美は言った。「あなたの大事な、奥様を」
いやみなのか、罵声を浴びなかっただけでもありがたかった江島は、歪んだ口の端をあわてて隠した。もちろん、腹の底から湧き出そうになった笑みである。
と、その時、ざわめく人の声が聞こえて来た。あちこちから人が出て来て、調理場のある建物へと吸い込まれて行く。
そして、サイレンの音が遠くから聞こえて来た。
何事だ? と一応は考えたが、自分には関係ない。他人がどうなろうと、俺の、これからのことが大事なのだ。
慌てる同僚を引き止めた春美は、話を聞いて駆け出していた。
「――あの野郎、どこに行きやがったんだ!」
江島は毒づいた。「いなくなるなら、あのガキ、連れて行けってんだ」
一人になった江島は部屋に入って、自分で持ってきたウイスキーを、そのまま口に押し込んでいた。
ざわついた調理場に入って行った春美は、マネージャーの姿を見つけて駆け寄った。
といっても、対応に追われて気づいてくれない。却って邪魔者扱いされてしまうほどのパニック状態に陥っていたのである。
「マネージャー!」
春美は思わず、その胸倉を摑んでいた。
「おおっ、春美君か!」
やっと気づいたマネージャーは、「どうした。何かあったのか?」
と、あべこべなことを言っている。
「それはこっちの台詞じゃないですか。一体何があったんですか?」
「うん……板前が火に包まれて……」
「包まれて、って、火傷したんですか?」
「うん。もう、助からないかもしれん……」
「ちょっと待ってください。何がどうなったのか、さっぱり――」
「俺にも分からんのだよ」
マネージャーは頭をかきむしって、「炭鉢から突然、火が吹き上がったんだ。そしてあいつは火まみれになった」
と、自分が見たことを詳細に語り始めた。
春美はマネージャーが信頼している部下の一人だ。仕事はてきぱきとこなし、辛いことがあっても笑顔を絶やさない、強靭な精神力の持ち主である。まだ若い仲居だが、仲間たちの信望も厚く、いわばリーダー的存在と言っても過言ではない。
そんな春美を、マネージャーは個人的にも可愛がっていたのだった。
「そんなことって、あると思うかい? 消えかかった炭鉢が、まるで爆発したように炎が吹き上がったんだ」
信じられない、といった様子で、マネージャーは溜息をついた。
「それって、〈菊の間〉の炭鉢ですか?」
「そうなんだよ。あの女――いや、いかんな、こういうことを言っちゃ――早く帰って来れば、こんなことにはならなかったのに」
「他には、誰もいなかったんですか?」
「ああ、彼が一人で残ってたんだ」
と、マネージャーは言った。「炭を入れ替えるとき、何か独り言を呟いていたよ。客が遅いからイライラしていたんだろう。ゲームが何とやら、とね」
そこまで言ってから、考えるように首をかしげたマネージャーは、
「――ゲーム? 何の関係があるんだろう……」
と、今度は自分が呟いていた。
炎が吹き上がったとき、俊子は板前の横にいたはずだ。しかしマネージャーは、その姿に気づいていなかったのである。
いや、見えないことはないはずなのだが……。
調理場の奥から、救急隊によって担架が運ばれて来た。もちろん毛布が掛けられていて、惨たらしい姿を見ることはできない。
春美は黙祷すると、
「〈菊の間〉の料理、どうしましょうか」
と、マネージャーに向かって言ったのだった……。
全く、とんでもない所へ来てしまった。
こんなことなら温泉ではなく、遊園地に行っていた方がよかったかもしれない。
もっとも、迷子になればどっちだって同じではあるが……。
江島は早くから出されていた刺身をつまみながら、一人でぼやいていた。
「――あの女、もう一度食ってやるかな」
まさかこんなところで春美に出会うとは思わなかった。逃げられたときは惜しい気もしたが、散々稼がせてもらったんだから、感謝こそすれ、恨んでは酷というものである。
それにあの業界からは足を洗ったはずだ。いつまでも「ヒモ」の生活を送っているわけにはいかない。
だからこそ、平凡ではあるが、たまたま知り合った俊子と結婚することにしたんだ。子供はいるが、飽きの来ない女である。ちょっと金遣いは荒いが、何といっても三十を過ぎてなお、あの吸い付くような妖艶な身体をしている。
もし生活が苦しくなったら、また売ればいい……。
江島は部屋を出た。いつまでたっても二人とも帰って来ないので、落ち着いていられなかったのである。しかも最後の料理だって運んでこない。
「おーい、伊勢エビちゃん」
江島は鼻歌などを歌いながら、「僕ちゃん、腹がへったよお」
と、とりあえずゲームがある建物へと歩き出したのだった。
――扉を開けると、信二の後姿が見えた。テーブル式のゲームモニターを凝視しながら、手元のレバーをカチャカチャと動かしている。
そっと近寄って脅かしてやろう、と江島は思って、足音を立てないように進み出ると……。
「失敗しちゃったじゃないか。余計なこと言うなよ」
と、何やら呟いている。
そして、またゲームに熱中しだしたと思ったら、
「あーあ、関係ない奴が消えちゃった。どうするんだよ。男の方からやる? 汚い奴だから、ぐちゃぐちゃにして、最後に潰そうかと思ってたのに……」
信二は顔を上げると、「お前がはっきりしないからいけないんだぞ!」
と言って、横に置いてある人形の背中を、思いっきり張り飛ばしたのだった。
床に転がった人形は、壁に当たって動きを止めた。そして――うつぶせになった人形の目が、江島をじっと睨んだのである。
人形を拾おうとした信二は、ハッとして振り返った。まるで誰かの声を聞いたように。
「――何してるの?」
信二の冷たい声が言った。
「まだ、ゲーム――終わらないんだよね」
江島はためらいながら声をかけた。
「途中で失敗したから、また最初からやり直しなんだ」
「そうか。そろそろお腹がすいたんじゃないのかい?」
「ううん、全然。それより、お母さんは帰って来たの?」
「いや、それが……」
はっきり「帰っていない」と言えばいいものだが、それをためらわせる異様な雰囲気があったのである。
人形を横に座らせた信二は、再びモニターに向かっていた。
「ねえ、第一ステージだけクリアしたいから、それまでいいでしょ?」
そして、お母さんが帰って来たら呼びに来てね、と言って、ちょっとだけ振り返った。
その目を見たとき、江島は一瞬、誰かの声を聞いたような気がしたのだった。
相変わらずゲームに熱中している信二。時折その手が、人形を叩いている。その姿は、いかにもじゃれあっている友達同士のようにも映っていたのである……。
〈菊の間〉に戻って来た江島は、廊下の窓から見える救急車の赤いランプを見ていた。
「――何事だ?」
調理場での出来事を、この時の江島はまだ知らなかったのである。




