その一
(一)
テーブルの上に置いてある結婚式場のパンフレットを見て、田川俊子は溜息をついた。
時代が変わった、と言えばそれまでだが、最近の披露宴は派手になり過ぎて、まるで芸能人のディナーショーを模したかのような形式が多くなっているようだ。
そびえ立つウエディングケーキは言うまでもなく、ゴンドラに乗って登場したり、ドライアイスの白煙の中、マジックショーでも見ているかのように、突然あられもない場所から現われたり……。
派手婚、地味婚――などと世間では区別をつけているようだが、要するにどれだけ本人たちが納得するか、満足するか、ということではなかろうか。
いくらお金をかけて豪勢な披露宴を執り行ったとしても、招待された客は――親友や両親などの一部を除いて――祝儀袋に吸い込まれて行く高額な紙幣との決別を惜しむように、忘年会さながらの宴を、バカ騒ぎして楽しむしかないのだから。
「今さら派手婚はないわよね……」
俊子はパンフレットを閉じて、散らかっている部屋を片付け始めた。
地味だろうが派手だろうが、俊子にとってはどっちだっていい。披露宴の予行演習でもやったかのようなこの部屋を、まずはきれいにすることが先決だ。
今日は友人たちが久しぶりに集まって、俊子の結婚話に花を咲かせていた。
「結婚しちゃいなさいよ」
「みんな祝福するからさ!」
「もういいんじゃないの? 三年も経ったんだから」
と、それぞれが口を揃える。女が三人よって「姦しい」とはよく言ったもんだ。
他人事とはいえ、祝儀のことは忘れて、好き勝手にシンデレラを作り上げて楽しんでいるのかもしれない。
「でも、あの子がねえ……」
俊子はやはり踏ん切りがつかない。
というのも、俊子にとって、これが初めての結婚ではないからだった。
前夫の田川和雄が事故死して丸三年。土地も財産も、何一つ残してくれなかった。いや、もちろんそんなものを期待していたわけではない。ただ、主婦としての生活をもっと楽しませて欲しかっただけなのである。
結婚したのは十一年前。俊子は二十二歳になったばかりで、二十四歳の彼とは本気で付き合っていたはずではなかった。でも、「出来ちゃった」子供は産みたいし、彼のことも人間的に好きになっていた。連れ合いとして、「間違いない人」だな、と……。
出来ちゃった結婚ではあったが、きっかけがどうあれ、お互いに納得して結婚したのだから、それはそれで楽しんでいたはずだった。
しかし三年前、彼は死んでしまった。かっこよく逝ってくれれば良かったのに、酔っ払って側溝にずっこけて死んじゃったんだから、なんとも情けない。というか、泣いていいのか、笑っていいのか……。
全く、三十歳で未亡人になった私の気持ち、誰も分かってくれないだろうな。
おっと、前夫のために弁護しなくてはならない。何も残さなかったと先ほど述べたが、唯一残してくれた宝物がある。
それが今、最大の難関になっている、俊子にとっての一人息子だった。
「信二? ――信ちゃん?」
階段の下から、俊子は声をかけた。
二階の部屋に閉じこもっているのか、夕飯を食べてから顔を見ていない。
しかし階段を駆け上がる音を聞いたのだから、間違いなくいるだろう。外へ出るには、俊子たちがいた居間を通らなければならないのだから。
ゆっくりと二階へ上がって行った俊子は、ドアをノックしようとして……。
「――キャッ!」
突然ドアが開いて、白い顔の人形が目の前に現われたのだ。
驚いた拍子に足を滑らせ、階段から落ちそうになった俊子の腕を、信二はとっさに摑んでいた。
「お母さん、大丈夫?」
人形を抱いた信二が、心配そうに訊いた。
「あんた……何やってるの! びっくりするじゃない!」
「びっくりするのはこっちだよ。そこにいるの、知らなかったんだから」
と、信二が困惑している。
ま、それはそうかもしれないが、あの人形を間近に見ると、古風な幽霊が出現したようにしか見えないのだ。
――いつだったろうか。数年前、その人形は信二がどこからか拾って来た物だった。
着物を着た日本人形のようでもあるが、黒い髪は肩まで伸びて、眉の上はまっすぐ切り揃えてある。白地に赤い花柄の着物は、泥まみれになっていたのか、ひどく汚れていた。
白かったであろう顔もすすけて、細く墨で書かれた目がかすむほどであった。
「そんな物、捨ててきなさい。気持ち悪い……」
最初に見つけたとき、俊子はそう言って信二を叱った。
「いいじゃないか。僕の大事な友達なんだから」
信二はそう言い返していた。
それ以来、信二はいつもその人形を放さなかったのである。
その人形を手に持ってたとはいえ、ちょうど俊子の目線だったから、いかにも浮かんでいるように見えたのだ。
――部屋に入って、やっと落ち着いた俊子は、
「ねえ……相談があるんだけど」
と、ベッドに腰掛けて、信二の顔色をうかがうようにそっと言った。
「なあに?」
と、信二はそっけない。「お金はないよ。ゲーム買ったから。それにこの前貸したばっかりじゃん」
「ごめん……。お給料が入ったら、すぐ返すから」
しまった! そういえば、先週借金したばかりだ。忘れていたわけではないが、まだ返す余裕はない。
たかが一万円ではあるが、信二にとっては大金だ。毎月こつこつと貯めているお小遣いがどれだけあるのか知らないが、ちゃっかり者で、しっかりと貯め込んでいるらしい。
申し訳ない、と思いながらも、今まで育てて来たんだから、それくらいの金額、「相殺」してくれたっていいじゃない! なんて親らしからぬことを考えていると……。
「――おめでとう」
突然、信二がボソッと言った。
「――え?」
「結婚するんだろ」
「うん……まあ……」
「あのお金、返さなくていいよ」
「だって……」
「僕からのお祝い金さ。ちょっと少ないけど、子供だから勘弁してくれるよね」
そう言いながら、信二はすました顔で、人形の髪を指で梳いている。
俊子は驚いた。いや、意外だったと言うべきかも知れない。
今までのことを考えると、どうしても信二の言葉は信じられない。あれだけ反対していたのに、何が信二を変えさせたのだろう。
「ちょっと待って」
と、俊子はためらいながら、「それって、結婚してもいい……ってこと?」
「そうだよ。ダメだなんて、最初っから言ってないじゃないか」
「だって……」
だって、あの「嫌いなおじさん」が、あなたのお父さんになるのよ。
と俊子は言いかけたが、口から言葉が出てこない。
人形の髪を整えた信二が、その頬をなでながら薄く笑っていたのである。
「――いつ?」
と、信二が訊いた。「夏休み中はやだよ。新婚旅行について行く気はないからね」
「うん。だからその前に――七月の最初の日曜日が大安なんだ」
「大安吉日? そう。そりゃめでたいね」
「だからさ、明日からゴールデンウィークじゃない」
と言って、俊子は信二の手から人形を取り上げた。「ね、どこか旅行でもしようか。あの人と三人で」
その瞬間、信二の顔から笑みが消えた。
俊子は気づいていただろうか。笑みが消えたのがその言葉が発せられた時ではなく、人形を奪い取った時からだったということを……。
「あのおじさんと?」
「いいじゃない。信ちゃんのお父さんになるんだから、よく話をしとかないと――」
と言い終らない内に、信二は人形を奪い返していた。
そして、乱れた人形の髪を整えながら、
「旅行か……。いいよ、僕もゆっくり考えたかったから」
と言った。そして、「いいチャンスかもしれないしね」
再び笑みをたたえて、信二は言った。
俊子はためらった。信二の最後の言葉が、自分に対してではないと分かったからだ。
信二は人形と話しをしている。
誰も喋ってはいないのに、信二が肯くように首を振っている姿を見て、俊子は背中に走る冷たいものを感じていたのだった……。




