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異世界 イルフェスト

神の声は聞こえますが、祈る気はありません ――人の過去を売る悪徳令嬢をわからせたら、ご主人様と呼ばれました

作者: tomato.nit
掲載日:2026/06/25

神の声は聞こえますが、祈る気はありません ――神敵認定されたので、どちらが神敵か本人に聞いてみました

前日譚

https://ncode.syosetu.com/n5081mj


主はお赦しになりますが、私は赦しません ――祈るだけでよいと言われた聖女は、弱き者を食い物にした悪徳司祭の懺悔を聞きに行く

後日譚

https://ncode.syosetu.com/n3120mh


「二度と喋りません! 本当に! 神に誓って!」


 夜明け前の路地裏に、情けない声が転がった。


 濡れた石畳。割れた瓶。酒場の裏口から漏れる灯り。


 男は鼻血を垂らして膝をついていた。


 その前に、イレイナ・ハングレイスが立っている。


 黒い上着。傷だらけの革靴。腰には短い鉄棒。


 少し前から、腰にはもうひとつ増えていた。


 煤けた白布。


「ったく。いくら潰してもキリがねぇな。人気者はつれぇな」


『お前が喧嘩を売りまくったのが原因では?』


「うるせえよ。半分はてめえのせいだっての」


『私のせい?』


「神の声なんざ聞こえなきゃ、こんな面倒なことになってねぇ」


『聞こえるものは仕方ない』


「だから仕方なく片づけてんだろうが」


 男が恐る恐る顔を上げた。


「あ、あの……誰と話して」


「てめぇは聞かれたことにだけ答えろ」


 イレイナは鉄棒の先で、男の顎を持ち上げた。


「あたしの情報、誰に売った」


「う、売ったなんて」


『嘘だ』


「だそうだ」


「何が!?」


「神が嘘だって言ってんだよ。ありがたく思え。今なら神罰より先にあたしで済む」


「それは、それで、だいぶ嫌なんですが!」


「正直でよろしい」


 男は泣きそうな顔で、ようやく口を割った。


「黒百合会です」


「あ?」


「黒百合会に売りました! あなたの昔の名前も、喧嘩のことも、神の声の噂も!」


『聞いたことがある』


「なんだ。神様の知り合いか」


『違う。人の過去を集めて売る者たちだ』


「へぇ」


 イレイナは鉄棒を下ろした。


「じゃあ、次はそこだな」


『やめておけ。お前の過去だけでは済まない』


「だったら、なおさら行くしかねぇだろ」


『なぜそうなる』


「聖女になるって決めたんだ」


 男の胸ぐらから手を離す。


 男は、その場でへたり込んだ。


「足元に腐った根っこがあるなら、先に引っこ抜く」


『お前は、もう少し言葉を選んだ方がいい』


「神に言われたくねぇよ」


 イレイナは男を見下ろした。


「黒百合会の場所」


「ひっ」


「神に誓って、次は黙ってるか?」


「言います! 全部言います!」


『これは届いた』


「よし。神も聞いた。吐け」


 男は震える指で、貴族街の方を指した。


 黒百合会。


 白い壁に囲まれた、小さな館だった。


 門の内側には、季節外れの黒い百合が咲いている。


 朝の光を受けても、その花だけはやけに暗い。


「趣味わりぃな」


『花に罪はない』


「植えた奴の趣味の話だよ」


 門番がイレイナを見て眉をひそめた。


「ここは紹介のない方は」


 言葉は最後まで続かなかった。


 門番の足元に、折れた木札が落ちる。


 夜明け前に締め上げた男から取り上げた、黒百合会の紹介札だった。


「紹介ならある」


「こ、これは」


「案内しろ」


「し、しかし、お嬢様は」


「お嬢様に会いに来たんだよ」


 イレイナは門番の肩を軽く叩いた。


「大事な客だ。丁重に扱え」


 門番は青ざめた顔で道を開けた。


 サロンの中は、甘い匂いがした。


 紅茶。焼き菓子。香油。


 磨かれた床の上に、黒い靴跡がつく。


 奥の部屋で、少女が待っていた。


 柔らかく巻いた銀灰色の髪。黒百合の髪飾り。深い紫のドレス。白い手袋。


 愛らしい顔立ちをしていた。


 ただ、扇の奥の目は少しも和らがない。


「ようこそ、聖女様」


 少女は扇で口元を隠し、くすりと笑った。


「いえ。まだ聖女ではありませんでしたわね。聖女志望様、とお呼びすべきかしら」


 イレイナは足を止めた。


「その舌、抜かれたいのか」


「まあ、怖い」


 ラヴィニアは扇の陰でくすりと笑った。


「でも、そのお顔、神殿では隠した方がよろしくてよ。せっかく煤けた布まで被って、聖女ごっこを始めたのでしょう?」


 部屋の隅で、給仕の女が息を呑む。


「名乗れよ」


「ラヴィニア・クロウレイス。黒百合会の主宰ですわ」


「そうかい」


「あなたのことは存じておりますの。イレイナ・ハングレイス。昔は別の名で呼ばれていたとか。喧嘩っ早くて、口が悪くて、神の声が聞こえるなどという妙な噂まである」


 ラヴィニアは、机の上に置かれた黒百合の封筒を指でなぞった。


「そして先日、偽りの神託をひとつ潰した。煤けた祭壇布を被って、領民に聖女様と呼ばれた」


「よく調べたな」


「褒めてくださるの?」


「舌を抜く前に、一応な」


 ラヴィニアは、楽しそうに目を細めた。


「聖女様。神様。無償の愛。どれも響きは美しゅうございますわね」


「あ?」


「けれど、そんなものは飾りですわ」


 扇の奥で、ラヴィニアが笑う。


「人を動かすのは、祈りではありません。金です」


 イレイナの目が細くなる。


「言い切るな」


「あら、違います?」


 ラヴィニアは首を傾けた。


「神に誓う者も、銀貨を積めば誓いを曲げます。愛を語る者も、持参金が尽きれば相手を捨てます。聖女になりたい方ですら、過去を握られれば黙って支払う」


 ラヴィニアは棚の方へ視線を向けた。


「この世で一番正直なのは金ですわ。金だけは、祈りより早く届き、愛より長く残り、神託より確実に人を跪かせますもの」


『イレイナ』


「黙ってろ」


『まだ何も言っていない』


「止める声の気配がした」


 イレイナは、ラヴィニアから目を離さなかった。


「無償の愛など、まやかしですわ。代価のない献身など、誰かが値札を隠しているだけ。だから私が、正しく値をつけて差し上げているのです」


「人の傷にか」


「価値に、ですわ」


 ラヴィニアは、にこりと笑った。


「あなたにも、よい値がつきますわよ」


「てめぇ」


「怒ることはありませんわ。価値があるということですもの」


 ラヴィニアは甘く囁いた。


「誇ってよろしいのよ?」


 イレイナは、腰の白布に一瞬だけ触れた。


 煤けた布の端が、指先に引っかかる。


「いらねぇよ」


「あら」


「あたしの値段なんざ、てめぇに決められてたまるか」


 ラヴィニアは笑った。


 高く、細く、鈴のように。


「うふふ。あは、あはははは」


 扇が開く。


「たかだかチンピラ風情が、私に楯突くなんて」


 ラヴィニアは首を傾けた。


「おこがましいのですわ」


 その一言で、イレイナの目が少しだけ細くなった。


「あなた一人の過去だと思っていらっしゃるの? 私どもの棚には、もっと美しいものがたくさんありますわ」


 彼女が指を鳴らす。


 壁の棚が、音もなく開いた。


 封筒。


 帳簿。


 証文。


 似顔絵。


 血判の押された紙。


 ひとつひとつに名札がついている。


 神官見習い。侍女。商家の娘。没落令嬢。聖女候補。


 イレイナは、棚の前まで歩いた。


「これ、全部売り物か」


「ええ。やり直したい方ほど、高く売れますわ」


 ラヴィニアの声は甘かった。


「失いたくない未来がある方ほど、よく払いますの」


「……人の傷に値札貼って、茶でも飲んでたわけか」


「傷だなんて。価値ですわ」


 イレイナは、黒百合の封筒を一つ手に取った。


 震える筆跡。


 拙い字。


 封の端には、何度も開け閉めされた跡がある。


「聖女候補まであるのか」


「清ければ清いほど、染みは目立ちますもの」


 ラヴィニアは愉快そうに言った。


「神殿も、存外こういうものをお求めになりますのよ」


 イレイナは、封筒を棚に戻した。


「神」


『その棚は、壊していい』


「だとよ」


 ラヴィニアの笑みが、ほんの少し止まる。


「……何をなさるおつもり?」


「黒百合ってのは、根っこから抜かねぇとまた生えるんだろ」


 イレイナは鉄棒を肩から下ろした。


「なら、土ごとひっくり返す」


「あなたにできると?」


「ああ」


「無理ですわ」


 ラヴィニアは扇を閉じた。


 ぱちん、と乾いた音が響く。


「この館の外には、私の者がいる。あなたの過去はすでに写しが取られている。神殿へ送る封書も、今頃は馬車の中。貴族街の衛兵にも話は通してありますわ」


 笑みが戻る。


「お帰りなさいませ、イレイナさん。今なら、まだ商品として扱って差し上げます」


 イレイナは、窓の外を見た。


 庭の黒百合が、朝風に揺れている。


「そうか」


 短く言って、背を向けた。


「帰る」


 ラヴィニアは目を丸くした。


「逃げますの?」


「ああ」


「まあ。賢明ですわね」


「勘違いすんなよ」


 扉の前で、イレイナは振り返った。


「逃げ道を見てくるだけだ」


 その日、黒百合会の花は、夕方までに半分折れた。


 最初に吐いたのは、配達人だった。


 二度目に殴られる前に、神殿へ向かう封書の行き先を吐いた。


 次に帳簿係が吐いた。


 金庫の鍵より先に、自分が隠していた銀貨の場所まで差し出した。


 貴族街の衛兵は、黒百合会から受け取った金の記録を見せられ、槍を下ろした。


 神殿へ向かっていた封書は、中身だけ差し替えられた。


 ある封筒には、横領神官の隠し帳簿の写し。


 ある封筒には、黒百合会が売り買いした証文の一覧。


 ある封筒には、ラヴィニア・クロウレイス本人の名が入っていた。


『やりすぎでは?』


「まだ半分だろ」


『お前の半分は、他人の全部より多い』


「細けぇな」


『それで聖女になるつもりか』


「なるさ」


 イレイナは、倉庫の扉を蹴り開けた。


 中にいた男たちが、一斉に振り返る。


「聖女ってのは、たぶんあれだ」


『どれだ』


「神の名前で人を殴る奴がいるなら、そいつを横から殴れる立場だ」


『定義がおかしい』


「てめぇが先に殴らねぇからだろ」


 神は、少し黙った。


 その間に、倉庫の中で三人倒れた。


 夕暮れ。


 黒百合会の奥部屋で、ラヴィニア・クロウレイスは紅茶を飲んでいた。


 机の上には、封蝋の押された告発状。


 神殿へ送ったものと同じ写し。


 窓の外には、買収済みの衛兵がいる。


 扉の向こうには、戻ってくる部下たちがいる。


 金庫には、保険の証拠がある。


「あははははは」


 高笑いが、部屋に響いた。


「たかだかチンピラ風情が、私に楯突くなんて、おこがましいのですわ!」


 扇が揺れる。


 黒百合の香が、部屋に満ちている。


「少し鼻を明かされたくらいで、私の黒百合会が崩れるとでも? あの方には、身の程というものを教えて差し上げませんと」


 その背後から、声がした。


「おい。御託はしまいか、お嬢様よぉ」


「ほへ?」


 ラヴィニアは振り返った。


 扉の前に、イレイナが立っていた。


 上着は裂け、頬には血がついている。


 傷だらけの革靴が、磨かれた床を汚していた。


 その汚れが、まっすぐこちらへ続いている。


「勝手に人のこと終わらせてんじゃねぇぞ、クソが」


「そ、そんな」


 ラヴィニアの手から扇が落ちた。


 からん、と乾いた音がする。


「どうして、ここに」


「あんなもんであたしが止められると思ってたのか。随分めでてぇ頭してやがるな」


「でも、衛兵が」


「寝返った」


「部下は」


「吐いた」


「封書は」


「差し替えた」


「金庫」


「空だ」


 ラヴィニアの唇が、薄く開いた。


 言葉が出てこない。


 イレイナは、机の上の告発状を指で弾いた。


「神殿に送った分は、お前の告発状じゃねぇ。黒百合会が売り買いした証文の一覧と、横領神官の帳簿だ」


「そんな」


「買収済みの衛兵は、今ごろ自分の受け取った金を並べて、どう言い訳するか考えてる」


「そんなはず」


「保険にしてた貴族連中は、お前より先にあたしへ泣きついてきたぞ」


「ありえませんわ」


 ラヴィニアは笑おうとした。


 頬が引きつる。


 笑みの形にならない。


「私の黒百合会ですわ。私が作った。私が集めた。私が、全部」


「そうだな」


 イレイナは一歩近づいた。


 革靴の底で、床に落ちた扇の骨が折れる。


「お前が築いたもんは、全部ここにある」


 床に、封筒が投げ落とされた。


 帳簿が落ちる。


 鍵束が落ちる。


 黒百合の封蝋が押された紙束が、机の上に広がった。


 ひとつ。


 またひとつ。


 ラヴィニアの呼吸が浅くなる。


「やめて」


「あ?」


「触らないで」


 ラヴィニアは、机の上へ手を伸ばした。


 だが、その指は紙束に届かなかった。


 イレイナの靴が、帳簿の端を踏む。


「もうお前のもんじゃねぇよ」


 ラヴィニアの瞳が揺れた。


 部屋の隅。


 黒百合の花瓶が倒れている。


 紅茶は冷めている。


 扇は折れている。


 戻ってくるはずの足音は、どこにもない。


「うそ」


 小さな声だった。


「嘘ですわ。だって、私は」


「黒百合会の主宰か」


 イレイナは笑った。


「だったら、最後まで気張れよ」


 イレイナの手が、ラヴィニアの髪を掴んだ。


 丁寧に巻かれていた銀灰色の髪が、乱れる。


「ひっ」


 高い声が漏れた。


 ラヴィニアは両手でイレイナの手首を掴んだ。


 白い手袋がずれる。


「や、やめ」


「散々、人の過去を掴んで売ってきたんだろ」


 イレイナの声は低かった。


「自分の番になったら、随分かわいい声出すじゃねぇか」


「やめて。お願い、やめてくださいまし」


「頼み方が違うだろ」


 ラヴィニアの膝が震えた。


 靴の踵が床を打つ。


 かつ、かつ、と細い音がする。


「私は、私は、ただ」


「ただ?」


「価値を、見つけていただけですわ。皆さま、隠していらっしゃるから。だから、私は」


「人の傷に値札貼ってただけだろ」


 ラヴィニアの喉が鳴った。


「違う」


「違わねぇよ」


「違いますわ」


「じゃあ、神に誓え」


 ラヴィニアの動きが止まった。


「お前の黒百合会は、誰も傷つけてねぇ。そう誓え」


「そ、それは」


「誓えよ」


 声が、さらに低くなる。


「お前、散々人に誓わせてきたんだろ。署名させて、血判押させて、未来を縛ってきたんだろ」


 イレイナは、ラヴィニアの顔を引き上げた。


「今度はお前の番だ」


 ラヴィニアの唇が震える。


「神に、誓って」


『届いていない』


 イレイナは笑った。


「だとよ」


「まだ、最後まで」


「もう届いてねぇんだよ」


 ラヴィニアの目が見開かれた。


 その瞬間、ラヴィニアの肩から力が抜けた。


 膝が崩れる。


 イレイナの手から髪がこぼれ、ラヴィニアは床に落ちるように座り込んだ。


 黒百合の髪飾りが外れた。


 床を滑って、帳簿の上で止まる。


「てめぇはもう終いだ」


 イレイナは、ラヴィニアの目の前に革靴のつま先を置いた。


「大人しくあたしの靴でも舐めりゃ、赦してやらなくもねぇぞ」


『イレイナ』


「うるせぇ。煽ってんだよ」


 イレイナは鼻で笑った。


「まあ、無理だろうな。プライドの塊みてぇなお前が、そんなことできるはずねぇもんなぁ?」


 ラヴィニアは、靴を見ていた。


 泥。


 血。


 割れた床材の粉。


 その先に、イレイナの影が落ちている。


「……なめる」


「あ?」


 声は、小さすぎた。


 震える指が、床を掻く。


「いま、なんて」


「声が小せぇ」


 ラヴィニアは顔を上げた。


 目はまだ怯えている。


 唇も震えている。


 けれど、そこに妙な熱が混じっていた。


「舐めれば」


「は?」


「舐めれば、赦してくださるのですか」


 イレイナの眉が寄る。


「いや、だから、今のは」


「私が」


 ラヴィニアは、自分の胸元を押さえた。


 呼吸が荒い。


「私が、私のままでなくなれば。あなたは、私をまだ使ってくださるのですか」


 イレイナの頭が、一瞬だけ止まった。


「……何言ってんだ、お前」


「だって」


 ラヴィニアの声がかすれる。


「私の黒百合会を奪った。私の逃げ道も奪った。私の名前も、私の価値も、私の誇りも、全部、あなたが」


 頬に涙が伝う。


 だが、表情は泣いているだけではなかった。


「それでも、まだ命令をくださった」


「命令してねぇ」


「いいえ」


 ラヴィニアは、床に両手をついた。


 震えが、急に止まる。


「舐めさせていただきますわ!」


「は?」


 次の動きは、やけに速かった。


 さっきまで床に崩れていた令嬢が、迷いなく身を乗り出した。


 白い手袋の指が床をつかむ。


 乱れた髪が肩から落ちる。


「ちょ、おまっ」


 イレイナは反応が遅れた。


 革靴に、ラヴィニアの唇が触れる。


 イレイナの思考が止まった。


 神の声も止まった。


 部屋の時計の音だけが、やけに大きく聞こえた。


「――っ」


 イレイナは、全力で足を引いた。


「マジで舐めるな! 気色わりぃ!」


 ラヴィニアは顔を上げた。


 頬は涙で濡れていた。


 髪は乱れ、白い手袋は汚れ、黒百合の髪飾りは床に落ちている。


 さっきまで壊れていた顔のまま、


 目だけが妙に明るかった。


「赦されましたわ」


「あ?」


「いいえ、違いますわ。赦しではなく、所有。そう。私、今、あなた様に奪われましたのね」


「違ぇよ」


「私の黒百合会も、帳簿も、金庫も、人脈も、逃げ道も、名前も、誇りも、全部」


 ラヴィニアは胸元を押さえた。


 震えていた指先が、ぴたりと止まる。


「全部、あなた様のもの」


「待て。勝手にまとめるな」


「好きです」


「あ?」


「好きです。

 好きです! 好きです! 好きです!! 愛していますわ!!!」


「……は?」


「なんてことでしょう。私、今まで何をしていたのかしら。人の過去を握る? 弱みを売る? くだらない」


「急に反省すんな。怖ぇ」


「反省ではありませんわ。理解です」


 ラヴィニアは、床に散らばった帳簿へ視線を走らせた。


 一瞬だった。


 本当に、一瞬だけ。


 それだけで、彼女の瞳の奥に計算が走る。


「残党は三日。いいえ、二日でまとめます。帳簿は焼くもの、返すもの、脅すものに分けます。神殿に流す書類は、あなた様のお名前が出ないよう整えます。あなた様に不愉快な思いをさせた者から順に逃げ道を塞ぎます」


「おい」


「だって、私、捨てられたくありませんもの」


「重い」


「金庫の中身も、帳簿も、人脈も、全部お前から取り上げる」


「はい」


「はい、じゃねぇよ。分かってんのか。お前の黒百合会は終わりだ」


 びくん。


 ラヴィニアの肩が跳ねた。


「は、はひぃ」


 妙に湿ったその響きに、イレイナの顔が引きつる。


「……おい」


「ご安心くださいませ。私は必ず、お役に立ちます」


 言葉だけは、まともだった。


 言葉だけは。


「あなた様に捨てられないように、誰よりも便利な女になりますわ」


 ラヴィニアは、うっとりと息を吐いた。


「無償の愛などまやかしだと思っておりました」


「その話、前にも聞いたな」


「けれど、今なら分かりますわ。これは無償ではありません」


「なら、まだ正気か」


「代価は、私のすべてです」


「正気じゃなかった」


「金も、名前も、組織も、誇りも、全部あなた様に差し上げます。ですから、どうか私をお使いくださいませ」


「重い! 金より重い!」


「……うれしゅうございますわ」


「褒めてねぇ!」


『……イレイナ』


 神の声が、ようやく戻った。


「なんだよ」


『これは、お前が悪い』


「全部じゃねぇだろ!」


『大部分はお前だ』


「割合を増やすな!」


 ラヴィニアは、嬉しそうに背筋を伸ばした。


「ご安心くださいませ。私は必ず、お役に立ちます」


 言葉だけは、まともだった。


 言葉だけは。


「あなた様に捨てられないように、誰よりも便利な女になりますわ」


 イレイナは、ぞっとした。


「神」


『何だ』


「あたし、何拾った?」


『捨てにくいものだ』


「最悪じゃねぇか」


 ラヴィニアは満面の笑みで頷いた。


「……はい」


「誇るな!」


 数日後。


 神殿の一室で、イレイナは白いヴェールを膝に置いたまま、届いた封書を開いた。


 差出人の名はない。


 だが、封蝋に押された黒百合の印で、誰からかは分かった。


「……もう来やがった」


 中身は報告書だった。


 旧黒百合会残党整理、七割完了。


 脅迫帳簿の分類、完了。


 被害者へ返還すべき書類、順次処理中。


 神殿へ流すべき横領記録、三件確保。


 なお、あなた様の過去に関する記録は、ご命令通り焼却済み。


 イレイナは眉をひそめた。


「……仕事はええな、あいつ」


 そこまではよかった。


 問題は、その下だった。


 追伸。


 そこから先は、報告書の半分以上を占めていた。


 あの日、あなた様に見下ろされた瞬間、私は生まれて初めて世界の形を知りました。


 金では買えず、脅しでは得られず、祈りなどでは到底届かないものが、この世にあるのだと知りました。


 私の黒百合会を終わらせてくださったあなた様。


 私の誇りを砕き、過去を奪い、なお使い道を残してくださったあなた様。


 あの靴先。


 あの冷たい声。


 あの、終わりだと告げる瞳。


 ――もう一度、終わりだと仰ってくださいませ。


 その一文だけ、なぜかインクが滲んでいた。


 イレイナは、無言で紙を閉じた。


 開いた。


 もう一度閉じた。


「こえええええええええええ!」


『いいじゃん。仕事はできるみたいだし』


 頭の奥で、神の声がのんきに響いた。


「よくねえよ! てめえに害がねぇからって面白がってんじゃねぇ!」


『でも、助かる人は増える』


「そこだけ正論で刺してくんな!」


 イレイナは、報告書を握り潰しかけた。


 だが、できなかった。


 そこには横領神官の名と、隠し帳簿の保管場所と、次に潰すべき悪党の逃げ道が書かれている。


 捨てたい。


 とても捨てたい。


 気持ち悪い部分だけ破り捨てたい。


 だが、追伸の裏にまで、びっしりと有用な注釈が書き込まれていた。


「……くそ」


 イレイナは、しわだらけになった報告書を広げ直した。


「便利なのが、一番腹立つんだよ」



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