番外編④ 闘神と人間の妻 〜六年目の冬〜
冬の昼だった。
城の外では、静かに雪が降っている。
空は低く、白く曇っている。
陽はどこかにあるはずなのに、その光は厚い雲の向こうへ吸い込まれ、世界はやわらかな灰色に包まれていた。
雪は激しく吹きつけるのではなく、ひとひらずつ、音もなく落ちてくる。
その白さは、まるでこの世界の余計な輪郭をひとつずつ消していくようだった。
音を吸い込むような白さが、世界を包んでいた。
戦の音も。
兵の足音も。
遠くの町のざわめきも。
雪が降る日は、すべてが少しだけ遠くなる。
城の高い窓から見下ろす景色も、今日はいつもと違って見えた。
庭の木々は白く覆われ、石畳の輪郭はやわらぎ、遠くの森も薄い霞の向こうに沈んでいる。
冷たく厳しい冬の景色でありながら、不思議な静けさがあった。
妻は窓辺に立ち、その雪を見つめていた。
黒髪は背へ静かに流れ、薄い冬の光を受けてかすかに艶を帯びている。
窓の外に向けられた横顔は、どこか遠くを思っているようにも見えた。
言葉はない。
ただ、どこか穏やかな表情で。
寂しそうではない。
だが、ただ楽しいだけとも違う。
冬になると、どうしても思い出してしまうものがあるのかもしれなかった。
雪の夜に生まれ、雪の夜に離れた小さな命。
その記憶を、彼女が完全に忘れたことなど一度もないのだと、今の闘神はもう知っている。
その様子を、闘神は少し離れた場所から見ていた。
彼は窓辺には立たない。
いつものように部屋の奥にいた。
けれど視線は自然と妻へ向いていた。
この六年のあいだに、彼はそうなった。
戦況や神々の動きを見るよりも先に、妻がどんな顔をしているかへ目がいくようになった。
しばらくして、口を開く。
「……外に出るか」
短い言葉だった。
だがその一言は、静かな部屋の中に確かな温度を持って落ちた。
妻が振り返る。
少し驚いたように、そしてすぐに柔らかく微笑む。
「よろしいのですか?」
その問いには遠慮もあるが、それ以上に、誘われたことへの小さな喜びがにじんでいた。
「ああ」
短い返事。
闘神は続ける。
「……暖かい服にしろ」
ぶっきらぼうな声だった。
命令のようでいて、実際には不器用な気遣いそのものだった。
雪の冷たさを自分より先に彼女へ思い出すようになったことを、闘神自身はわざわざ意識していないだろう。
だがその変化は、確かにそこにあった。
妻はそれに小さく頷く。
「はい」
その声は、どこか嬉しそうだった。
⸻
しばらくして。
二人は城の外気へ開かれた高いバルコニーへ出た。
本当は昼のはずだったが、雪雲に覆われた空は薄暗く、夕方の手前のようにも見える。
白い光に満ちたその空間は、昼と夜のあいだが曖昧になったような静けさを持っていた。
城のバルコニーは高く、そこからは遠くまで雪景色が見えた。
白く煙る城下町。
雪をかぶった森。
そのさらに向こうの丘陵まで、今日はすべてがやわらかく白に沈んでいる。
外に出ると、冷たい空気が頬を撫でた。
室内のぬくもりを離れた瞬間、冬の気配が肌へまっすぐ触れる。
刺すような冷たさではない。
けれど、長く立っていれば体の芯まで静かに冷やしてくるような空気だった。
妻の肩が、わずかに揺れる。
それを見て、闘神は何も言わず、少しだけ歩みを寄せた。
並ぶ位置が、ほんの少し近くなる。
それだけのことなのに、雪の中ではその距離が不思議と大きな意味を持つ。
白い息が、ゆっくりと空に溶けていく。
二人ぶんの息が、冷たい空気の中で細く重なり、すぐに見えなくなる。
その儚ささえ、今日はこの雪景色によく似合っていた。
妻は手を伸ばし、降り積もった雪に触れる。
石の欄干の上には、すでに柔らかな雪がこんもりと積もっている。
彼女の指先がそこへそっと触れた。
「……冷たいですね」
小さく呟く。
どこか楽しそうでもあり、少しだけ驚いているようでもある声だった。
子どもの頃、雪に触れた記憶があるのかもしれないし、もしかすると記憶を失って以来こうして落ち着いて雪へ触れたのは久しぶりなのかもしれない。
闘神は何も言わない。
ただ、その様子を見ていた。
雪に触れる彼女の指。
白い息。
わずかに赤くなった頬。
それらを見ている時間が、なぜか心地よかった。
妻はそのまま、しゃがみ込み、雪を丸め始める。
手袋越しに雪を集め、両手の中で少しずつ形を整えていく。
最初はただ触れていただけだったのに、気づけば夢中になっていた。
どこか楽しそうに。
その横顔は、先ほど窓辺で雪を見ていた時よりもずっとやわらかい。
雪へ触れる手つきまで、少し弾んでいるように見える。
「……何をしている」
闘神が問う。
妻は手を止めずに答える。
「雪だるまです」
少しだけ楽しそうに。
その答えはあまりにも自然で、闘神は一瞬だけ沈黙した。
雪だるま。
その言葉を知ってはいても、自分が作ったことなど一度もない。
雪は戦場では足場を悪くするものか、冬の到来を告げるものか、その程度の認識だった。
闘神は黙ってそれを見ていたが、
やがて、隣に腰を下ろした。
何も言わず、同じように雪に手を触れる。
白い雪に、黒い手袋をした大きな手が沈む。
その様子はどこか不釣り合いで、それでいて妙に真剣だった。
妻はそれを見て、ふっと小さく笑った。
闘神は何も言わない。
ただ、見よう見まねで雪を丸め始める。
⸻
二人は並んで、小さな雪だるまを作っていた。
大きなものではない。
欄干の上に載せられるくらいの、小さく丸い雪だるまだ。
妻の方は手際がよかった。
丸を二つ作り、上下を重ね、指先で形を整える。
目の位置を考えるように少し首をかしげながら、細い枝を拾って腕の代わりに刺していく。
闘神の方は不器用だった。
力加減が分からず、最初は少し強く握りすぎて形を崩した。
けれど妻が何も言わず隣で続けているのを見て、彼も少しずつ手つきを合わせていく。
ひとつ、完成する。
小さな雪だるま。
丸く、不格好ではあるが、どこか愛嬌がある。
妻はそれを見て、少しだけ微笑む。
「……もう一つ、作りませんか」
闘神は視線を向ける。
「なぜだ」
短い問いだった。
妻は少し考えてから、言う。
「一つだと……少し寂しい気がして」
その言葉は、雪だるまのことだけを言っているようには聞こえなかった。
一つでは寂しい。
寄り添うものがあった方がいい。
その感覚は、この六年のあいだ、二人が少しずつ知ってきたものでもあった。
闘神は何も言わない。
ただ、もう一度雪に手を伸ばした。
それが彼なりの答えだった。
⸻
しばらくして、もう一つの雪だるまができる。
今度は闘神が作ったものだった。
妻のものより少し大きく、少しだけ角張っていて、どこか無骨な形をしている。
妻はそれをそっと隣に並べた。
少しだけ、間が空いている。
雪だるまと雪だるまのあいだに、ほんのわずかな隙間ができる。
触れそうで、まだ触れていない距離。
闘神はその間を見て――
無言で、距離を詰めた。
雪の上で、小さなだるま同士がぴたりと寄る。
本当に、ほんの少しの移動だった。
だがその変化に、妻はすぐ気づいた。
二つの雪だるまが、並ぶ。
肩を寄せ合うように。
妻が、ふっと微笑む。
「……いいですね」
その笑みはとても静かだった。
子どもっぽくはしゃぐのではなく、心の奥にやさしく灯るような笑み。
闘神は何も答えない。
ただ、その並んだ雪だるまを見ていた。
——しばらくの間。
二つ並んだ白い形。
寄り添ったまま、静かに雪を受けている。
その姿を見つめるうちに、闘神の胸の奥にも、名前をつけにくい静かな感情が広がっていった。
風が吹いて、雪が少し積もる。
二つの雪だるまは、静かに並んだまま。
その前に立つ二人の距離も――
同じように、近かった。
いつの間にか、妻の肩と闘神の腕が、触れそうなほど近くなっている。
どちらもそれを避けようとしない。
ただ同じものを見ている。
並んだ雪だるま。
降り続く雪。
白く静まった世界。
それだけなのに、不思議と十分だった。
やがて妻が、小さく言う。
「……冬の景色は、静かですね」
闘神は前を見たまま答える。
「……ああ」
「少し、寂しいくらいに」
その続きに、闘神はすぐには返さなかった。
寂しい――という言葉が、雪景色だけを指していないことが分かったからだ。
この城で過ごした六年。
ともに過ごす時間は増え、距離は縮まり、こうして同じ雪を見て笑えるようにもなった。
それでも、埋まらぬものがひとつある。
遠く離れた場所で育つ、小さな命。
二人とも、そのことを口にしないまま冬を見ている時がある。
妻もまた、そのひとつを今、思っているのかもしれなかった。
闘神はしばらくしてから、低く言った。
「……一つでも」
妻が彼を見る。
闘神は雪だるまへ視線を向けたまま続ける。
「並べば、少しは違う」
ぶっきらぼうな言い方だった。
慰めとして上手い言葉ではない。
けれど彼なりに、いま感じたことをそのまま言ったのだろう。
妻は目を細めた。
「はい」
小さく頷く。
その返事はとても柔らかかった。
雪はまだ降り続いている。
白い息がまた空へ溶ける。
城の塔は雪の向こうにかすみ、遠くの山も空へ沈んでいる。
その中で、二人はしばらく動かなかった。
言葉は少ない。
だが、沈黙はもう重くない。
並んだ二つの雪だるまは、まるで二人自身のように雪の中で寄り添っていた。
その前に立つ二人の距離も――
同じように、近かった。
冬の昼だった。
雪は静かに降り続ける。
世界は白く、冷たく、穏やかだった。
そしてその静けさの中で、闘神と人間の妻は、言葉にしきれない寂しさごと、そっと分け合うように並んでいた。




