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神々の闘いが始まるとき

花園は静まり返っていた。


つい先ほどまで、そこは夕暮れの光に包まれた穏やかな庭だった。

白い花が風に揺れ、青い花弁がやわらかく光を受け、石畳の小道には静かな影が落ちていた。城の中でありながら、戦の気配を忘れられる、数少ない場所。


だが今、その花園は別の場所になっていた。


夕焼けの赤い光の中、地面には――

神の亡骸が転がっている。


体は真っ二つに裂け、神の血が花に落ちている。

赤黒いその血は、白い花弁の上で異様な色を放ち、土へ滲み込み、小道の石の隙間にまで流れ込んでいた。花園のやわらかな匂いに、神の血の鉄のような重い匂いが混ざっている。


その前に、ホープは立っていた。


剣を握ったまま。


動かない。


いや、動けないのだ。


息だけが荒い。

肩が上下し、胸の奥ではまださっきの力の残響が暴れている。腕は痺れ、指先は冷たいのに、体の芯だけが焼けるように熱かった。


「……」


頭の中が真っ白だった。


理解が追いつかない。


目の前にいるのは、神だった。

ついさっきまで動いていた。

話していた。

自分と妻へ向かって、明確な意志を持って立っていた。


それを――


自分が斬った。


ホープは剣を見る。


血がついている。


神の血。


見慣れた訓練用の汚れではない。

獣の血でも、人の血でもない。

生まれて初めて見るはずなのに、本能がそれを“神の血”だと理解してしまうような、重く異質な色だった。


「……俺」


声がかすれる。


喉がひどく乾いていた。

舌がうまく回らず、言葉がちぎれる。


「俺……今」


言葉が続かない。


何を言えばいいのか分からない。

“倒した”では軽すぎる。

“斬った”では現実味がない。

“殺した”と認めるには、あまりにも今の自分が追いついていなかった。


そのとき。


花園の入り口から、重い足音が響いた。


ドン……

ドン……


それはただの足音ではなかった。

歩みとともに圧が空気を変える。花園に満ちていた神の死の残滓とは別の、圧倒的で、古く、揺るがぬ神気が近づいてくる。


ホープが振り向く。


そこに立っていたのは――

闘神だった。


黒い鎧。

夕焼けを受けても沈んで見える、重い色。

肩に乗る神気は、あたりの空気をわずかに震わせるほど濃い。


いつもの冷たい目。


だが、その視線は真っ直ぐホープを見ていた。


高みから見下ろす支配者の目でも、訓練場で見習いを値踏みする目でもない。

もっと深いところを見ている目だった。


闘神はゆっくり近づく。


神の亡骸を一度だけ見る。


その一瞥だけで、何が起きたかをほとんど理解してしまったようだった。

監視の神でも、ただの神兵でもない。

花園に降りた神を、ホープが自らの手で斬った。


そしてまた、ホープを見る。


沈黙。


花園の空気は、神の死による静寂と、闘神の到来による圧で、さらに重くなっていた。


ホープが口を開いた。


「闘神様……」


声が震えている。


憧れの相手を前にしているからではない。

助けを求めたいのに、自分でも何を求めるべきか分からない震えだった。


「俺……」


剣を見せるように持ち上げる。


「変なんです」


息が荒い。


言葉が追いつかない。

それでも言わずにはいられなかった。


「急に」


「体の中から」


手を胸に当てる。


心臓の奥にまだ何かが残っているようだった。熱く、重く、静まらないものが。


「力が出て」


「時間が……止まったみたいで」


目を上げる。


その目には、恐れと混乱がそのまま浮かんでいた。


「何なんですかこれ」


必死な声だった。


この力が強いとか、すごいとか、そんなことは少しも思えなかった。

むしろ、自分の知らない自分が突然体を乗っ取ったような怖さしかない。


「俺」


「普通の人間ですよね?」


その問いは、ほとんど祈りに近かった。


そうだと言ってほしい。

何かの間違いだと。

今のはただの偶然で、自分は今まで通り、村で育ち、騎士になりたいと願ってきた人間の少年なのだと。


闘神はしばらく黙っていた。


その少年を見る。


十三年前。

雪の夜。

城から送り出した赤子。

自分の手で外へ出し、人間として育つ道を選ばせた命。


それが今、目の前に立っている。


そして、神を殺した。


あのとき恐れていたことが、ついに現実になった。

闘神の血。

時の神の系譜。

その二つを持つ男児が力を覚醒させれば、ただでは済まない。


だが、ここで黙ることはもうできなかった。


闘神は静かに言う。


「……神の子だからだ」


ホープの目が瞬く。


「え?」


その一音は、ほとんど意味を持たない息のようだった。


闘神は続ける。


「その力は」


「神の血だ」


ホープは理解できない。


「神……?」


少し笑う。


困ったように。

信じられなさすぎて、かえって笑いそうになる顔だった。


「俺が?」


「そんなわけ……」


闘神は言った。


低く。

はっきりと。


「お前は俺の子だ」


花園の空気が止まる。


ホープの思考が止まる。


本当に、一瞬、さっきと同じように世界が止まったように感じた。

風も音も消えた気がした。


「……え」


言葉が出ない。


理解する順番がめちゃくちゃになる。

神の血。

神の子。

闘神の子。

自分が。

目の前の、この闘神の。


闘神は目を逸らさない。


「俺の血を引いている」


少し間を置く。


「そして」


「時の神の血も」


ホープの頭が追いつかない。


「ちょっと待ってください」


かすれた声だった。


笑いそうになる。

いや、笑うしかないほど現実感がない。


「闘神様が……」


自分を指さす。


「俺の父?」


首を振る。


「いや」


「無理です」


混乱している。

否定したいのではない。

ただ脳がそれを受け止める器を持っていない。


村で育った。

騎士の父と、優しい母のもとで。

自分は拾われた子かもしれないとは知っていた。

だが、それが“闘神の子”に繋がるなど、誰が想像できる。


だが闘神は動じない。


ただ言う。


「事実だ」


短く、残酷なほどに揺るがない声。


ホープは言葉を失う。


そしてふと、後ろを見る。


花園の奥に立っている、妻。


白い衣。

長い黒髪。

花の匂いのする人。


その目には、涙が浮かんでいた。


ホープの胸がざわつく。


花園で出会ったときから、どこか不思議な温かさを感じていた。

訓練場で抱きしめられたときも、驚きより先に、なぜか“嫌じゃない”と思ってしまった。

そして今、その人が泣いている。


その涙が、急に怖かった。


もしかして。

いや、まさか。

だが、闘神の言葉と、その涙は、一つの答えしか指していないように見えた。


だが次の瞬間。


空が揺れた。


ドン――


雷のような音。


花園の上空で、空間がひび割れるような音が走る。


ホープも妻も、反射的に空を見上げた。


空が裂ける。


赤い夕空の奥、黒い雲の中に――

神の影。


一体。

二体。

三体。


さらに増える。


神々の気配。


それもただの神ではない。

怒りと殺意をむき出しにした神気が、雲の向こうからいくつも迫ってくる。

その数が増えるたびに、花園の空気が重くなる。


闘神は空を見上げた。


目が冷たくなる。


さっきまでホープへ向けていた視線とは別の、戦う神の目だった。


「……来たか」


低く落ちる声には、驚きよりも確信があった。


ホープも空を見る。


恐ろしい気配。


体が震える。


ついさっき自分が神を斬ったばかりだというのに、そのことが何を招いたのか、ようやく少しずつ分かり始める。


「……何ですか」


声がかすれる。


闘神は静かに言う。


「神々だ」


ホープの顔が固まる。


闘神は続ける。


「お前が神を殺した」


「それで終わりではない」


そうだ。

ただ一体を倒して終わるわけがない。

相手は神々だ。

一柱が死ねば、それは天空の神殿まで響く。


空の神々が近づく。


怒りの神気。

警戒。

恐怖。

そして、決意。


そのすべてが花園の上に圧し寄せてくる。


闘神は剣を抜く。


鋼の音が響く。


その音だけで、花園の空気が変わった。

ここから先は、もう訓練場でも、花園でもない。

戦場になる。


そして言った。


「神々の戦いが始まる」


その言葉は、ただの説明ではなかった。


予告であり、宣告であり、世界の運命が動いた瞬間そのものだった。


ホープは息を呑む。


自分の正体を知った、その直後。

父だと告げられた相手が、いま剣を抜いて空を見上げている。

そして、その向こうから神々が降りてくる。


花園の花は、神の血に濡れていた。

夕焼けはなお赤く、風はもう穏やかではない。


すべてが一瞬で変わってしまった。


十三年のあいだ隠されてきたもの。

守るために秘されてきた血。

それがついに表へ出た。


そして、もう戻れない。


この日、この夕暮れ、この花園で。


一人の少年が神を殺し、

自分が闘神の子であることを知り、

神々はついに地上へ戦を落とすことを決めた。


その瞬間こそが――

本当の意味で、神々の闘いが始まるときだった。

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