表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
29/48

花園での出会い

さらに数日が過ぎた。


城では、いつものように時間が流れている。


朝になれば、騎士見習いたちは訓練場で剣を振るい、まだ冷たい空気の中に木剣や鉄のぶつかる音が響く。兵たちは城壁を巡回し、見張り台から領地の隅々まで目を配る。侍女たちは城の奥で働き、食事を運び、灯りを整え、静かに主人たちの日常を支えていた。


闘神の城は、戦乱の世界の中心にありながら、同時に一つの生活の場でもある。

その秩序は、誰か一人の感情で止まることはない。


けれど、その変わらぬ流れの中で、少しずつ変わっていくものもあった。


その日、城の庭にある花園に、妻はいた。


十三年前と同じ場所。


高い石壁に囲まれ、外の戦の匂いからわずかに切り離された小さな庭。

白い花。

青い花。

淡い色の小さな野花。

名も知らぬ草花が、城の冷たい石の中にあってなお、静かに命を広げている。


花は相変わらず静かに咲いていた。


けれどこの花園は、もう昔とまったく同じ場所ではなかった。


かつては闘神だけの静かな場所であり、やがて妻だけが心を落ち着ける場所になり、そして今では、彼女自身の手が入る場所になっている。


妻は花を手入れしていた。


しゃがみ込み、土を軽くほぐし、伸びすぎた葉を整え、花びらに触れぬよう注意しながら枯れた部分を摘む。傍らには小さな桶と、花に水を与えるための細口の器が置かれていた。


この花園は、今では彼女が世話をしている。


もちろん侍女たちも入る。

水を運び、道を掃き、必要な道具を整えることもある。


だが、多くの時間を彼女自身がここで過ごしていた。


それは単に花が好きだからというだけではない。

ここは彼女にとって、失ったものを抱えたままでも呼吸のできる場所だった。

静けさの中に身を置き、土に触れ、咲くものを見つめることで、かろうじて心を整えられる場所。


そして、最近ではもう一つ、別の思いも生まれていた。


こんな場所を、自分だけのものにしたくはない。


この静けさを、花の色を、少しでも多くの人に見てもらいたい。

神の城の中にも、こういう場所があるのだと知ってほしい。

戦いと命令と緊張ばかりではない、やわらかな空間があるのだと。


だから彼女は、ここを閉ざしきることを望まなかった。


風が静かに吹く。


花が揺れる。

陽の光が花弁の端にのり、白い花がほのかに透けた。


そのとき。


遠くから、若い声が聞こえた。


「……ここか」


妻が顔を上げる。


花園の入り口に、一人の少年が立っていた。


まだ幼さの残る顔。

だが、体つきは鍛えられている。

腰には訓練用の剣が下がっていた。肩の開き方や立ち方にも、数日やそこらの見習いではない、剣に慣れた者の気配がある。


少年は少し困った顔をしていた。


ここへ入ってよいのか、まだ確信が持てないらしい。

城の奥にこんな場所があること自体、彼にとってはまだ不思議なのだろう。


「すみません」


妻を見つけると、慌てて頭を下げる。


「ここ……入ってよかったでしょうか」


その素直な言い方に、妻は少し驚いた。


騎士見習いがここに来ることは珍しい。

入ること自体は禁じられていないが、多くの者は訓練と任務で忙しく、わざわざ花園を訪れようとはしない。


それに、彼女はこの少年を知っていた。


正確には、“見ていた”。


訓練場で剣を振るう姿。

城壁の上から見たまっすぐな横顔。

そして、その名前。


ホープ。


だが顔には何も出さず、妻は優しく言う。


「ええ、大丈夫ですよ」


それから、やわらかく続けた。


「ぜひ見ていってください」


「なるべく多くの方と、この空間を共有したいので」


その言葉は、飾りではなかった。

彼女は本当にそう思うようになっていた。


少年は安心したように笑う。


「ありがとうございます」


そして中へ入ってくる。


花を見回す。


足を止めるたび、目が少しずつ見開かれていく。

訓練場の砂と汗の匂いばかり吸ってきた少年にとって、この空気はまるで別の世界のようだったのかもしれない。


「すごい……」


思わず声が漏れる。


「こんな場所が城の中にあったんですね」


妻は小さく微笑む。


その驚き方が、なんだか少し可笑しかった。

そして、彼が本当に感嘆しているのだと伝わってきた。


「最近見つけたのですか?」


と、穏やかに尋ねる。


少年は頷く。


「はい、仲間から聞きました」


少し恥ずかしそうに言う。


「剣ばっかり振ってるので」


それから花を見回して、素直に付け足す。


「こういう場所は初めてで」


その言い方に、妻はほっとするような気持ちになった。


この子は、やはり真っ直ぐだ。

見たものをそのまま受け取り、思ったことを飾らず口にする。

それは剣の動きだけではなく、人としての気質にも出ている。


妻は花に水をやりながら言う。


「あなた、たしかお名前はホープ」


少年はすぐに姿勢を正した。


「はい!」


元気な声だった。


「ホープといいます!」


その名前を聞いた瞬間。


妻の手が、ほんのわずかに止まった。


水を注ぐ細口の器の先が、一瞬だけ宙で静止する。


胸の奥が静かに揺れる。


――この子は、やはり私たちの……。


その思いは、言葉にはならなかった。

してはならない。

ここで名乗ることも、抱きしめることも、何も許されていない。


それでも、母としての感覚は理屈を越えてしまう。

名前を聞くだけで、遠い夜の雪と涙がよみがえり、その一方で今こうして元気に立っている姿に、どうしようもなく胸が熱くなる。


だが、顔には出さない。


妻は穏やかに言う。


「そうですか」


少しだけ目を細める。


「いい名前ですね」


ホープは少し驚いたように瞬く。


「本当ですか?」


その反応には、素直な嬉しさがあった。

自分の名前を褒められることを、まだ少し照れくさく感じる年頃なのだろう。


「はい」


妻は花に水をやりながら言う。


「希望という意味でしょう」


少年は嬉しそうに笑う。


「はい、育ててくれた父が言ってました」


「いい名前だって」


妻は静かに頷く。


「ええ」


小さく言う。


「そうですね」


それ以上は言えない。

本当は、その名を最初に口にしたのが自分だと知っている。

あの雪の夜、涙の中で願いを込めてつけた名前だと知っている。


けれど今はただ、その名がこの子に似合っていることだけを、胸の中で繰り返した。


ホープは花を見回す。


視線が一つ一つの花に留まり、訓練場では見せない穏やかな表情になる。


「奥方様は」


ふと気づいたように言う。


「ここを管理しているんですか?」


“奥方様”。


その呼び方に、妻の胸がわずかに揺れる。

この子は自分をそう呼ぶ。

母ではなく。

当然のことだ。

当然なのに、どこか不思議な気持ちになる。


妻は少し考えてから答える。


「そうですね」


そして花を見る。


「好きなのです」


風に揺れる花弁へ目を細める。


「こういう静かな場所が」


それは本音だった。

そして、それだけではなく、この花園が今では多くの意味を持つ場所になっていることを、彼女自身も感じていた。


ホープは少し笑う。


「闘神様とは全然違いますね」


その言葉に、妻は小さく笑った。


「そうですね」


「確かに」


闘神がこの花園を作り、守り、そして今では彼女へ委ねるようになったことを知る者は少ない。

訓練場で見上げる闘神と、この花園は、たしかにあまりにも違って見えるだろう。


ホープは少し空を見上げる。


花園の上の空は、訓練場から見るそれより少しだけやわらかく見えた。


そして言う。


「でも」


真っ直ぐな声だった。


「闘神様はすごいかたです」


妻は少年を見る。


ホープの目は輝いている。


憧れの目。


その輝きは作りものではない。

訓練場で剣を交えた者だけが持つ、圧倒的な強さを前にしたあとの純粋な敬意だった。


「この前、剣を交えさせてもらいました」


少し興奮したように言う。


「あっという間でしたけど」


笑う。


その笑いには悔しさもある。

けれど、それ以上に嬉しさがあった。

憧れの存在へ一太刀でも届こうとした、その経験自体が彼にとって誇らしいのだろう。


「でも」


少し照れながら言う。


「いつか」


「もっと強くなって」


「また挑みたいです」


妻の胸が静かに揺れる。


この少年は知らない。


その神が――

自分の父であることを。


そして、目の前にいる女が――

自分の母であることを。


知らないまま、まっすぐに憧れている。


その姿は、誇らしくもあり、痛ましくもあった。

もしすべてを知っていたら、この子は同じ目で闘神を見られるのだろうか。

もし自分を母と知ったら、どんな顔をするのだろうか。


そんなことを考えてしまう。


けれど今は、そのどれも口にできない。


妻は静かに微笑む。


「きっと」


花の向こうで優しく言う。


「強くなりますよ」


その言葉には、騎士見習いへの励ましだけではないものが込められていた。

生きてきてくれてありがとう、と。

ここまで育ってくれてありがとう、と。

口にできない想いを全部、ただその一言に滲ませるように。


ホープは嬉しそうに笑った。


「ありがとうございます!」


その笑顔は明るかった。

まっすぐで、何の陰りもない少年の笑顔だった。


その笑顔を見ながら。


妻は思う。


この子は生きていた。


元気に。

強く。


雪の夜に自分の腕から離れていったあの小さな命が、今こうして花の前で笑っている。


それだけで、胸の奥が静かに温かくなった。


痛みが消えたわけではない。

失った十三年は戻らない。

母と子として呼び合えない現実も、何一つ変わらない。


それでも。


生きていた。

そして笑っている。


その事実だけで、今日この花園に立っていてよかったと、妻は初めて深く思った。


風が花を揺らす。


ホープはまた花の方を向き、小さな青い花に顔を近づけて「これも綺麗だな」と呟いた。

妻はそんな少年の横顔を、静かに見つめる。


母としてではなく、ただ花園を案内する奥方様として。

けれどその胸の中には、誰にも見えぬほど深く、たしかな母の想いが満ちていた。


その日、花園ではじめて、母と子は穏やかな言葉を交わした。


確かに、心のどこかで引かれ合うように。


花は静かに咲いていた。

城の戦の音も、遠くではまだ続いている。

それでもこの小さな庭の中だけは、ほんのひととき、やわらかな時間が流れていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ