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神の闘い

神々の戦は、前触れなく起こる。


人の戦であれば、遠征の準備があり、兵の動きがあり、噂が先に広がることもある。だが神々の争いは違った。神の気配がぶつかったその瞬間に空気が変わり、次の瞬間には土地そのものが戦場へ変わる。


その日も、そうだった。


昼を少し過ぎたころ。

闘神の城は、外見上はいつもと変わらぬ静けさの中にあった。城壁の上では兵が巡回し、回廊では侍女や従者が足音を忍ばせて動いている。遠くから鍛錬の掛け声がかすかに届き、城下ではいつものように人々が働いていた。


だが、ある瞬間から、城の空気が変わった。


それは音ではなかった。

匂いでもない。

もっと原始的な、肌の内側をざわつかせるような変化だった。


遠くの空に黒い雲が渦巻き始める。


それは雨雲ではない。

神の力がぶつかり合うときに生まれる歪みだった。大気が軋み、空そのものが悲鳴を上げるように黒く濁っていく。雲の奥では赤い光が走り、時折、地平の向こうから低い地鳴りのような音が伝わってきた。


私室の窓辺に立っていた闘神は、その空を見ていた。


ただ見上げるだけで、もう何が起きているか分かっている顔だった。

驚きもない。

怒りも焦りもない。


やがて、短く言う。


「来たか」


その一言は、予測していたものがついに現れたという確認に近かった。


妻は少し離れた場所で給仕をしていた。

昼の酒を整え、卓の上を片づけ、次の命を待っているところだったが、その言葉に思わず顔を上げる。


窓の向こうの異様な空。

闘神の横顔。

それだけで、何かが起きたのだと分かった。


次の瞬間。


城の奥から、兵が駆け込んできた。


重い扉が開き、神の兵の一人が膝をつく。息は乱れていない。だが、その声音には緊張が滲んでいた。


「闘神様!

北の領地に暗黒の神の軍勢が!」


その報告にも、闘神はわずかにうなずいただけだった。


静かに立ち上がる。


その動きに無駄はない。

先ほどまで窓辺に立っていた男と、今、戦場へ向かう神とが同じ存在であることが、逆に恐ろしく思えるほど自然な変化だった。


怒りも焦りも見えない。


ただ、戦場に向かう神の顔がそこにあった。


妻はその変化を見て、思わず口を開く。


「……戦い、ですか」


問いというより、確認に近い声だった。


闘神は振り向く。


その視線が一瞬、妻に落ちる。


そして少しだけ考えたあと、意外なことを言った。


「来い」


妻は驚いた。


「え……?」


自分が。

戦場へ。

その言葉の意味がすぐには理解できない。


闘神は短く続けた。


「戦場を見る」


それだけだった。


理由の説明はない。

なぜ見せるのかも言わない。

ただ、命じるだけだ。


「だが俺の後ろから離れるな」


その一言には命令と同時に、別の響きがあった。

それは警告であり、守る範囲を定める言葉でもあった。


妻は戸惑った。


恐ろしい。

行きたくないと思う気持ちは、確かにある。

だがこの城で、彼女には拒む自由はない。


ほんの一瞬だけ迷い、それでもすぐに頭を下げる。


「……承知しました」


闘神はそれ以上何も言わず、兵へ指示を飛ばし始めた。

鎧を。槍を。北の門を開けよ。後続は不要。境界の兵だけ残せ。


その命令は早く、迷いがなかった。


妻はそのあいだ、自分の胸の鼓動が速くなっていくのを感じていた。

神の戦場を見る。

それがどういう意味なのか、まだ本当には分かっていない。



城の外。


そこはもう、戦場だった。


妻は初めてそれを見た。


大地は裂けていた。

まるで巨大な爪で引き裂かれたように、地面のあちこちに深い亀裂が走っている。土は盛り上がり、石は砕け、もとの地形が何であったのか分からぬほど荒れていた。


空には雷が走る。


自然の雷とは違う。

黒く、紫を帯びた稲光が、雲の底を蛇のように走っては地へ落ちる。そのたびに空気が震え、兵たちが顔をしかめる。


炎が燃え上がる。


それもまた、火矢や油で起こる人の火とは違った。

何もない場所から突然噴き上がり、数瞬のうちに岩すら赤く染める神の炎だ。


兵たちが叫び、魔物が暴れ、神の力が空を裂く。


人間の戦とはまったく違っていた。


人の戦なら、陣があり、前線があり、敵味方がある程度見える。

だが神の戦では、戦場そのものが敵になる。空も地も炎も雷も、すべてが死を運んでくる。


妻は闘神の後ろに立っていた。


言われた通り、一歩も離れずに。

その背中だけが、荒れ狂う戦場の中で唯一変わらないもののように見えた。


そして、その中心に――


闘神がいた。


黒い鎧をまとい、槍を手にして。


その背は、城の中で見るよりさらに大きく見えた。

戦場では、彼の存在そのものが一つの境界線になる。後ろへ立つだけで、こちら側だけがかろうじて理を保っているような感覚があった。


暗黒の神が、空から降りる。


巨大な神だった。


黒い霧のようなものを全身にまとい、その姿は定まらない。人の形をしているようでいて、そうとも言い切れない。影と夜そのものを寄せ集めて神格にしたような、不快な威容だった。


その声が戦場に響く。


「久しいな、闘神」


親しげな言い方だったが、その実、互いに殺し合う相手へ向ける声音だった。


闘神は答えない。


一言も返さなかった。


ただ槍を構えたまま、空の神を見上げる。


暗黒の神が嘲るように笑う。


次の瞬間、黒い雷が落ちた。


直撃すれば兵など影も残らないだろう。

空気が裂け、轟音が耳を打つ。


だが闘神は一歩も動かない。


それが最も恐ろしかった。


避ける必要がないのだ。

恐れる必要もないのだ。

落ちてくる死を前にして、彼はただそこに立っていた。


そして次の瞬間。


槍が閃いた。


何が起きたのか、妻には最初分からなかった。


ただ、光が走った。

いや、光というより、空間そのものが一筋裂けたように見えた。


空が裂ける。


黒雲が割れ、雷が断ち切られ、その延長線上で、暗黒の神の体が真っ二つに割れていた。


一拍遅れて、神の血が空から降る。


黒とも赤ともつかぬ、重たい光を帯びた血。

それが雨のように散り、地に落ちる場所では煙が上がった。


妻は言葉を失った。


あまりにも一瞬だった。

あまりにも圧倒的だった。


神と神の戦いだと聞いていた。

もっと長く、もっと凄惨で、互いに力をぶつけ合うものだと思っていた。


だが目の前で起きたのは、戦いというより、一方的な断絶だった。


闘神は振り返りもしない。


そのまま戦場を歩く。


槍が振るわれるたび、魔物が薙ぎ払われる。

軍勢は蹴散らされ、逃げ惑い、神の兵たちがそれを追うまでもなく崩れていく。


神を殺し、魔物を裂き、軍を潰す。


それは戦いというより――


蹂躙だった。


妻はただ立ち尽くした。


闘神の後ろから離れるなと言われた意味を、今ようやく理解し始める。

ここは神の領分だ。

人間が見ていてよい光景ではない。

だが同時に、彼はなぜかそれを自分に見せた。


「……これが」


小さく呟く。


声が自分のものではないようにかすれていた。


「神の……戦い……」


闘神はすでに戦場の中心にいた。


その背中は血と炎の中にありながら、少しも揺らがない。


やがて戦は終わった。


あまりにも早く。

神が一柱落ちたことで、暗黒の神の軍勢は完全に崩れたのだ。主を失った魔物たちは制御を失い、兵は散り散りになり、残ったものは闘神の兵に狩られていく。


妻はしばらく、その場から動けなかった。


自分が見たものが理解の外にありすぎて、思考が追いつかなかった。



夜。


闘神の城へ戻ったころには、戦の熱はようやく少し遠のいていた。


だが、闘神の身にはまだ戦場の気配が濃く残っていた。


血のついた鎧のまま、彼は城の回廊を歩いていた。


神の血の匂いが、まだ残っている。

それは人間や獣の血とは違う、鉄のようでいてどこか重たい匂いだった。近くにいるだけで、本能が「これは触れてはいけないものだ」と訴える。


兵も侍女も近づけない。


皆、通路の端で深く頭を下げるだけだ。

戦を終えたばかりの闘神は、ふだん以上に近寄りがたい気配をまとっていた。


私室の扉が開く。


中には妻がいた。


彼女は闘神を見る。


血の跡。

鎧の傷。

まだ完全には消えていない戦場の気配。


それでも妻は静かに頭を下げた。


「……お帰りなさいませ」


その声音は、震えていなかった。


闘神は何も言わない。


ただ室内へ入り、ゆっくりと鎧へ手をかけた。


妻が近づく。


「お手伝いします」


返事を待つというより、それが自分の役目だと分かっている動きだった。


彼女は闘神の前に立ち、留め具を外し始める。


金具に触れる指先は慎重だった。

血で滑らぬよう、必要以上に急がない。

鎧を外すには、体へ近づかなければならない。


その距離は近い。


闘神の胸元。肩。腕。

彼の体温と、戦の残り香と、神の気配が直に迫ってくる距離。


だが妻は震えていない。


少なくとも、手元は乱れていなかった。


闘神はそれに気づく。


「怖くないのか」


突然の問いに、妻の手がほんの少し止まる。


彼女は少し考えた。


それから、正直に答える。


「……怖いです」


その声は飾りがなかった。


嘘ではない。

怖くないはずがないのだ。

今日、戦場で見たもの。目の前で神を真っ二つに裂いた男。その血を浴び、なお平然と戻ってきた存在。


恐ろしくないわけがない。


だが、妻は続けた。


「ですが」


鎧の最後の留め具を外しながら、闘神を見上げる。


「あなたが戻ってきてくださって、安心しました」


闘神の動きが、一瞬止まる。


それはごく短い静止だった。

けれど彼女の言葉が確かに届いたことが分かるほどの、はっきりした揺らぎだった。


妻は鎧を外し終えた。


重い鎧を受け取り、そっと台へ置く。

金属が触れる低い音が室内に響いた。


闘神はしばらく黙っていた。


戦場では一切見せない沈黙だった。

妻の言葉をどう扱えばいいのか分からないような、そんな沈黙。


やがて、低く言う。


「……寝室へ来い」


命令だった。


だがその声には、戦場へ出る前の冷たい命令とは少し違う重さがあった。


妻は頷く。


「はい」



寝室は、私室よりさらに灯りが少なかった。


炎の灯りだけが、広い部屋の一角をぼんやりと照らしている。厚い布に囲まれた寝台は静かで、外の戦の気配もここまでは届きにくい。


闘神はベッドの端に座っていた。


戦場の気配が、まだ残っている。

鎧を脱いでも完全には消えない。

神を殺したあとの沈黙と、血の匂いと、あまりにも強い力を振るった者だけが持つ余熱のようなものが、まだ彼の周りにあった。


妻が部屋へ入る。


静かに扉を閉めた。


闘神は言った。


低い声で。


「……抱かせろ」


命令だった。


短く、拒絶を想定していない声。

だが、その響きはどこかいつもと違っていた。


欲望だけではない。

支配だけでもない。

何かを確かめるような、あるいは戦のあとにようやく許された静けさへ縋るような、そんな声だった。


妻は驚かなかった。


少なくとも、表には出さなかった。


彼女は少しだけ息を吸ってから、頭を下げる。


「……承知しました」


その返事もまた、侍女のように整っていた。

けれど、そこにはどこかやわらかな響きが混じっていた。


妻はゆっくりと闘神の前に立つ。


それから静かに言う。


「お疲れになっていらっしゃるでしょう」


声は低く穏やかだった。


「お側におります」


その言葉に、闘神は彼女を見上げた。


戦場では神を斬る目。

誰も寄せつけぬ冷たい目。

だが今は、どこか違う。


そこには疲労があった。

消耗ではなく、深いところで張りつめていたものがようやく降りようとしているような顔だった。


妻はゆっくりと、闘神の肩に触れた。


そっと。

慰めるようにではなく、確かめるように。


生きて帰ってきたのだと、自分にも相手にも知らせるように。


その夜。


闘神は初めて――


戦いのあとで、ただ静かに人を求めていた。


それは征服でも、誇示でもなかった。

勝者として褒美を手にするような振る舞いでもない。


神を殺し、軍を蹂躙し、戦場を終わらせて戻ってきたあとで。

なお残る張りつめた何かを鎮めるために、ただ一人の人間のぬくもりを必要としていた。


妻はその意味を、まだ正確には知らない。


なぜ自分なのかも。

なぜこの神が、戦場のあとだけ少し違う顔を見せるのかも。

なぜ命令の形を取りながら、その実、何かに縋るように見えるのかも。


けれど、その夜の闘神が求めていたのは、単なる服従ではなかった。


戦を終えた神の、誰にも見せぬ疲れと沈黙を受け止めること。

それが今の妻の役割になりつつあるのだと、彼女はまだ半ば無意識のうちに感じ始めていた。


炎の灯りが静かに揺れていた。

赤い空の下で続く戦乱はまだ終わらない。

けれどその夜の寝室には、戦場とはまるで違う静けさがあった。


神と人間。

恐れられる神と、記憶を失った妻。


そのあいだにはまだ愛と呼べるものはなく、理解も十分ではない。

それでも、戦のあとにただ静かに寄り添うその時間だけは、確かに二人の関係を少しずつ変え始めていた。

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