始まりは唐突に
「三年の甲崎? そいつなら去年、退学になってるぞ」
橘深空はそんなクラス担任の言葉を、目を大きく見開いて信じられない気持ちで聞いていた。
嘘だ、と反射的に言いそうになったが、喉がカラカラに乾いて声が出ない。
頭の中が、「どうして」という純粋な疑問で満たされていく。
担任の口から出た『退学』という二文字が、どうしても意味を持った言葉として脳に届かない。
――そんなはずはない。
だって、あの日。
夕焼けに染まる険しい岩壁を、まるで重力なんて存在しないかのように軽々と、美しく駆け登っていく彼の後ろ姿を見たから。
その背中を追いかけてこの学校に来たのだ。それなのに、肝心の主がもうここにはいないなんて。
決して偽りではないことは、担任の気怠げな表情が雄弁に語っている。
担任はそんな彼女の様子に首を傾げながら、出されかけた入部届けを受け取ろうと手を伸ばす。
「橘? それ、もらっても」
「やめます」
間髪入れずに言葉を遮って拒絶を示した深空は、強引に入部届けを引き寄せて、ぐしゃぐしゃに握りしめる。
その表情に絶望を見出した担任は、先程までの様子との差に息を呑んだ。
「入部、やめます。私のことは忘れてください」
「え?」
きょとんとした担任には目もくれず、深空は足早に職員室を後にする。
静かと言うにはいささか強い足取りで廊下を歩く。
ギチギチと歯が軋む音がなるほど奥歯を噛み締め、ちょうど置いてあったゴミ箱に先ほど握りしめた入部届けを乱暴に叩き込んだ。
パス、と力ない音を立てて、それは他の生ゴミやプリントの山に混ざって沈んでいく。彼女のすべてだったものが、一瞬でただの紙クズに変わった。
「〜〜っ、う、あ、ぁああっ」
意味を成さない慟哭が口から飛び出かけて、ここが生徒のひしめく廊下であることを思い出して寸前で喉の奥に押し込む。
腹の底でマグマのように熱い何かがグツグツと煮えたぎっていた。
焼け死んでしまいそうなほど熱いのに、胸の奥は氷を差し込まれたかのように冷たかった。
矛盾したその感覚に顔を顰め、人気のない階段の下で蹲る。
無意識に詰めていた息を吐き、大きく吸って、また吐く。
カラカラに乾いた口内と目を不快に感じた。
「…………………………………甲崎さん………………………」
どうしていないんですか。
小さな小さな、本人にも聞こえるかどうかな声量で呟く。
その人は、深空の憧れの人だった。一年前に出会い、一瞬で魅了された。彼女が世界で唯一尊敬し、興味を持った人物。
その人と一緒にいたいからという理由で、今まで全く興味のなかった競技にまで手を伸ばして、入部しようと張り切っていたのだ。
先程、までは。
「…………なんでぇ…………」
彼女は他人に、生きるということに、深い関心を抱けない。
だから人生で初めて興味を持った彼を生きる希望と定めて、生きる理由と決めてここまでやってきた。
でも彼はここにはいない。
生きる理由がどこかに行ってしまった。私を置いて。
もう何をする気力も浮かばない。息をすることすら面倒に感じてしまい、だらりと両腕を垂らして全身の力を抜き、廊下なのにも構わず仰向けに転がった。
「…………あーあぁー……」
終わっちゃった。
平坦な、だが微かに震える声で囁いた彼女は、絶望の余韻にゆっくりと目を閉じた。
これにてプロローグは終わる。
しかしこれは終わりではない。なぜなら彼女は、彼が愛していた競技の世界に身を投じていた。
その熱量は半端ではなく、数値に換算すると恐ろしく膨大な結果になるほど。
何も終わっていない。
本当のプロローグは、彼女と彼が出会ったことだった。
終わりではなく始まりだ。
彼女の本編はここから始まる。




