(15)百余国の時代
五十年の時が過ぎた。ワヒ国の二代目の長ヒカとニキもマツラ国の女王とマサも既に亡くなり、ヒカとニキの子孫のニカが四代目の長となる世代となっていた。ワヒ国の人々はヤマタイに対する備えを怠る事はなかった。その間、ヤマタイは攻めてこようとはせず、ワヒ国にとってほぼ平穏な時代が続き、人々は戦いのないことを感謝していた。
ある日、北の峠に旧わの国から逃げて来たという男が現れた。
旧わの国から逃れてきた男の話では、ヤマタイが占領する旧わ国の地には、西の海の向こうの半島から新しいそと人の部族が次々と上陸してきていた。わ国を占拠し、わ人達を奴隷として暮らしていたていたヤマタイは、この新来のそと人の部族の対応に手を焼いていた。ヤマタイにとって、このそと人達は西の半島の地で見知っていた部族だったので、初めから敵として追い払うわけにもいかない。とはいえ折角手に入れたこの地を、簡単にこの新来の部族達に譲るわけにもいかなかった。初めのころは、新来のそと人達はヤマタイの指図に従って、指示された土地に移って国を造っていた。しかし徐々に、渡来するそと人の数が多くなり、ヤマタイの数を上回るようになると、新来のそと人達はヤマタイの指示に従わないようになった。
そしてついに、新来のそと人達とヤマタイとの間に争いが起こり始めた。数で劣るヤマタイは旧わの国の地から撤退し、南のヒタ国やヒムカ国に移り住む事になった。旧わの国の頃からヤマタイの下で働いていた男は、それでヤマタイから離れる事にしたらしい。それが最近、ヤマタイがワヒ国に攻めてこなくなった原因らしい。
マツラ国の女王が言っていたように、西の大陸の北方にある小さな半島は寒く稲が育ちにくい。その地に数多くの部族が密集し、土地をめぐる争いが年中続いていたらしい。そこで、ヤマタイが海を渡った新たな地で豊かな暮らしをしていることを聞きつけ、ヤマタイに続くように、多くの部族が旧わの国を目指したのだろうという事だった。ヤマタイの占領地に到着した新しいそと人の部族の名は「倭」というらしい。ヤマタイも「ヤマタ倭」が語源であり、半島では倭族の一部族だったらしい。
新たに渡来してきた倭人たちは数多くの部族に分かれていたが、その中で中心的な地域に国を造った部族がいた。その国の名を「伊都」といった。これは「倭族の都」という意味と考えられる。この国は倭族達の代表として、西暦57年に後漢に使者を送り光武帝から「漢委奴」国王印を授けられ、倭の地を収める国として認定される事になった。奴はこの頃の中国が使う異民族に対する蔑称で「姜奴」「匈奴」「夷奴」などの例もある。新来のそと人達はヤマタイの指示に従わず、このイト国の指示に従うようになっていく。
その後ワヒ国にはヤマタイではなく、倭族のうちのサラ族という部族の兵がワヒ国の砦の近くまでくる事があった。しかしワヒ国の多くの兵が守る堅固な砦の構えを見て、敢えて攻め込もうとすることはなかった。
ワヒ国の三代目の長ニカは新しく現れたこの部族に使者を送る事になり、息子のトカを使者として派遣した。使者となったトカと三人の補佐役は北の峠から坂を下り森を回り込み、家々が並ぶサラ族の地へ向かった。使者がサラ族の砦に近づいていくと、槍刀などの武器を持つサラ族の兵達が出迎えた。サラ族の兵はヤマタイの兵と体格顔つきが似ていた。トカがワヒ国の使者を名乗ると、しばらくして砦の中の大きな館に案内されサラ族の長に会う事になった。
サラ族の長は柔和な顔をした白髪の老人だった。トカはワヒ国の使者として口上を述べた。
「ワヒ国の長ニカは、倭族と戦いのない平和な関係を希望する、と申しております」
サラ族の長はワヒ国の使者にこう述べた。
「倭族は大陸で夷人、東夷と呼ばれ、斉や燕という国をつくりその東の半島の地を支配してきた。近年北から蛮族が侵入し、戦いを避けるためにこの地に渡ってきた。先に来たヤマタイが、わの国の人々に迷惑をかけたそうだが、サラ族はわの国の人々と共に平和に暮らしたい」
トカたちワヒ国の使者はサラ族から歓待を受け、一晩砦の中に宿泊し、翌日サラ族の長の見送りを受けてワヒ国に帰還した。
これ以降、ワヒ国の人々はこれらの新来の倭人達の諸部族と共存する道を選び、交易を行い、戦いのない平和な状態を続けることになった。
行き来を始めた倭人達の部族で話を聞くと、そと人の部族は二つの系統に分かれていた。ひとつは数百年前の春秋戦国い西の大陸でも一二を争う有力な国だった呉の子孫の部族。もう一つはその呉に一度は敗れたがその後「臥薪嘗胆」で呉に勝利した越という国の子孫の部族。呉の子孫の部族は赤い旗、越の子孫の部族は白い旗を掲げる。だから、そと人の部族が戦うときには、赤の旗と白の旗を掲げた部族が戦うことが多い。(戦いを避けようとする部族は赤と白の布をつなげて旗にしているという) 確かに呉系のマツラ国は赤い旗、越系のヤマタイは白い旗を掲げていた。
このような状態で、北九州の地は数百年前に渡来していた呉人達、次に渡来した越人達を含む倭人の諸族により混雑を極め、三十余国の国がつくられ、呉人達は東の内海の沿岸の地に広がり、越人達は北の海辺の沿岸沿いに広がり、わの地全体では百余国がつくられる状況となっていった。




