これはゲームではない。
村は、近づくにつれて輪郭をくっきりさせていった。
低い木の柵。
丸太を組んだ家々。
干された洗濯物が風に揺れ、犬の鳴き声が遠くで応じる。
――生きてる匂いだ。
ユリは馬車から首を出して、目いっぱい見渡した。
土の道を子どもが走り抜け、母親が名前を呼ぶ。
窓からはパンを焼く甘い香りと、どこか焦げた匂いが混ざって漂ってくる。
温かくて、少しせわしなくて、やさしい。
そのとき、視線を感じた。
村の人々が、手を止めてこちらを見る。
年寄りの目、若い女の目、子どもの丸い瞳。
そこには――純粋な好奇心と、少しの警戒が同居していた。
リタが小声で言う。
「珍しいんだよ、外から来る人間は。まして服装がそれだ」
ユリは自分の服を見下ろした。
シンプルな白ニットにスカート。
東京では普通でも、この世界では異質だ。
馬車が止まると、村長らしい白髪の男性が歩み寄ってきた。
「リタ、戻ったか。……その娘は?」
リタは短く説明した。
「森で倒れてた。記憶ははっきりしない。しばらく預かるよ」
村長はじっとユリの目を見る。
重たいけど、冷たくはない視線。
「怪我は?」
「少し、だけどもう平気です。ありがとうございます」
ユリが頭を下げると、村長は小さく頷いた。
「礼儀はあるな。それだけでも安心だ」
そのとき、遠くで鈴が鳴った。
カラン、カラン――と乾いた音が村の空気を震わせる。
周囲の空気が変わった。
洗濯物を取り込む手が急ぎ、子どもが呼び寄せられる。
戸が閉められ、声が低くなる。
ユリは思わず囁く。
「何、これ……?」
リタの表情がきゅっと引き締まった。
「見張り台からの合図だよ。森の縁に“影”が見えたんだ」
「影?」
レオンが代わりに答えた。
「魔物だ。群れか、単体かはわからねぇ」
その言葉は落ち着いていた。
慣れている声――日常に混じっている重さ。
ユリの背筋を冷たい指がなぞったように震えが走る。
「魔物って……ゲームみたいに、剣で倒すとか、そういう……?」
レオンはゆっくり首を横に振る。
「倒せることもある。だが、“倒せる前提”で語るやつは死ぬ」
リタが続ける。
「魔物はね、人が作った言葉で説明できないことが多い。
牙や爪だけじゃなくて、匂い、視線、群れ方――全部が脅威だ」
ユリはごくりと喉を鳴らした。
村の柵の外。
森は深く暗く、昼間だというのに影が濃い。
どこかで枝が折れる音がした気がして、心臓が跳ねる。
「ここ、危ない場所なんですね……」
リタは淡々とうなずく。
「危ない。でも、生きる場所。畑も水も森もここにある。
だから人は離れない。怖がりながら、暮らし続ける」
村長の声が飛ぶ。
「子どもと年寄りは家の中へ! 男手は柵の点検を!」
人々が散っていく足音は、速いけれど混乱はしていなかった。
慣れている――それが逆に怖かった。
「いつも、こうなるんですか?」
ユリの問いに、レオンは短く答える。
「ああ。森が近い村は、そういう場所だ」
ユリは自分の胸に手を当てた。
――これは本当に異世界。
――テレビや画面じゃなく、今ここで、私のすぐそばで起きてる。
怖い。
でも、足はすくまない。
むしろ、心臓が強く打ち始めていた。
リタがユリの肩に手を置いた。
「安心しな。今日はこっちに来やしないさ。
合図は“警戒”であって、“襲撃”じゃない」
ユリはかすかに息を吐いた。
「魔物って、どんな姿なんですか」
リタは空を見たまま、答えを急がなかった。
「姿は、ひとつじゃない。
獣に似たもの、人の形に近いもの、影みたいに輪郭のないもの。
共通してるのは――“人の生活を壊す”ってことだよ」
その言葉は静かで、重かった。
村の奥からパンの匂いがまた漂ってくる。
その温もりが、さっきよりも尊く感じられた。
ユリは小さくつぶやいた。
「生きるって、簡単じゃないんですね……」
レオンが少しだけ笑う。
「簡単だった時代なんて、きっとなかった」
リタが軽く背中を押した。
「まずは腹ごしらえ。怖い話は、飯のあとでもできるさ」
ユリは頷いた。
怖さは消えない。
でも――逃げずに見ていたいと思った。
村の中に足を踏み入れる。
生活の音と、森の影。
その両方が、この世界の現実として、確かにそこにあった。
夜は、思ったより早く落ちてきた。
村の灯りは少ない。
窓に灯る小さな橙色の光と、広場で燃える焚き火だけ。
闇は深く、空は広い。星の数は多いのに、それでも暗さは圧倒的だった。
ユリは借りた毛布にくるまりながら、外の音に耳を澄ませていた。
――コツン、コツン。
柵を確認する足音。
金属が触れ合う硬い音。
低い声で交わされる短い言葉。
「怖いかい?」
隣で同じように焚き火に手をかざしていたリタが、静かに聞いた。
ユリは少し考えてから答えた。
「……怖いというより、“知らない”が怖いです。
何が来るのか、どれくらい危ないのか、想像できなくて」
リタはうなずいた。
「知らないものほど、人は怖がる。
でも、知りすぎると、それはそれで別の怖さが出てくる」
ユリは焚き火を見つめた。
火は生きているみたいに揺れ、時折小さく爆ぜる。
その瞬間――
遠くで、低い音が響いた。
「……ッ!」
地面が震えたような気がした。
空気がひとつ、押し込まれる。
吠えるというより、「喉の奥から絞り出した何か」。
人の声に似ていないのに、どこか“意志”を感じさせる音。
焚き火のそばにいた男たちの表情が一瞬で変わった。
「来たか」
「森の南側だな」
レオンが立ち上がり、槍を手に取る。
その動作は慣れているが、余裕はなかった。
ユリは思わず呼び止める。
「レオンさん!」
振り返らず、短く言う。
「家の中から離れるな。リタのそばにいろ」
返事を待つ時間も惜しいというように、彼は闇に溶けていった。
リタは落ち着いた声で言う。
「行くよ、ユリ。外にはもう出ない」
戸締まりがされ、窓に板が打ち付けられていく音が響いた。
家の中は狭いのに、静けさがやけに広く感じた。
子どもの泣き声が、どこかの家から漏れた。
母親のなだめる声。
それさえも、魔物の気配に吸い込まれていくような気がした。
――ドン。
何かが柵にぶつかった音がした。
ユリは思わず肩を震わせる。
リタは窓際に立ち、板の隙間から外を見た。
「群れじゃない。二、三……いや、四かもしれない」
「見えるんですか?」
「影の濃さでね。…姿はよく見ないほうがいいよ。怖さが増す」
外から短い怒号が響いた。
男の叫びと、木が裂ける音。
ユリの指先が冷たくなる。
「大丈夫、なんですよね……?」
自分で言って、自分でその軽さに気づいた。
願望でしかない言葉。
リタは嘘をつかなかった。
「“いつも通りに済む”とは限らない。
それが魔物ってものさ」
時間が伸びたり縮んだりしているようだった。
どれくらい経ったのか分からない頃、
鈴の音が再び鳴った。
――今度は、さっきより硬い音。
扉が開けられたのは、それから少ししてからだった。
レオンが入ってくる。
無事だ――それだけで胸がほどけそうになるが、彼の表情は重かった。
ユリは息を呑んだ。
「被害は?」
リタの声は静かだった。
レオンは短く答えた。
「柵が一部持っていかれた。見張り台が半壊。
それと……家畜小屋だ。二頭やられた。見張りの若いのが腕を噛まれた」
ユリの胸に重しが落ちた。
死者はいない。
それでも、それは確かに「被害」で、「現実」だった。
外に出ると、夜風が冷たかった。
地面には削られた跡。
爪で抉られた木の柵。
血の匂いが、土の匂いと混ざっていた。
家畜小屋の前で、男の人が肩を震わせていた。
黙って、ただ震えていた。
ユリは足が勝手にそちらへ向かった。
何もできないくせに、それでも見ていなければいけない気がした。
崩れた木材の影に、暗い染みが広がっていた。
命が、確かにそこにあった痕跡。
喉の奥が熱くなる。
――この世界では、本当に奪われる。
何かを守っても、何かがこぼれ落ちる。
ゲームのように「リセット」はない。
リタがそっと言った。
「これでも、まだ軽いほうさ。
柵が破られて、人が持っていかれることだってある」
ユリは息を呑んだ。
「……そんなの、嫌です」
子どもみたいな言葉しか出てこなかった。
嫌だ。
怖い。
理不尽だ。
でも同時に――胸の奥に小さな温度が灯る。
「だったら」
自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。
「私、強くなりたいです。
戦うとかじゃなくてもいい。
でも、“何もできない”ままで、見てるだけは嫌です」
レオンがこちらを見た。
少しだけ目を丸くし、それからゆっくり頷いた。
「それなら、生きて学べ。
強くなるってのは、剣を振ることだけじゃねぇ」
夜空には、星がまだ瞬いていた。
静かで、美しい。
それでも地面には、血と土の匂いが残っている。
ユリはその両方を、ちゃんと目に入れた。
――この世界で生きる。
それは綺麗なだけでも、残酷なだけでもない。
焚き火の火が小さく揺れた。
その光を胸に映しながら、ユリは静かに拳を握った。




