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花よ、異界に咲け。  作者: たなたなか
一章 はじまりの音
5/5

これはゲームではない。

 村は、近づくにつれて輪郭をくっきりさせていった。


 低い木の柵。

 丸太を組んだ家々。

 干された洗濯物が風に揺れ、犬の鳴き声が遠くで応じる。


 ――生きてる匂いだ。


 ユリは馬車から首を出して、目いっぱい見渡した。

 土の道を子どもが走り抜け、母親が名前を呼ぶ。

 窓からはパンを焼く甘い香りと、どこか焦げた匂いが混ざって漂ってくる。


 温かくて、少しせわしなくて、やさしい。


 そのとき、視線を感じた。


 村の人々が、手を止めてこちらを見る。

 年寄りの目、若い女の目、子どもの丸い瞳。

 そこには――純粋な好奇心と、少しの警戒が同居していた。


 リタが小声で言う。


 「珍しいんだよ、外から来る人間は。まして服装がそれだ」


 ユリは自分の服を見下ろした。

 シンプルな白ニットにスカート。

 東京では普通でも、この世界では異質だ。


 馬車が止まると、村長らしい白髪の男性が歩み寄ってきた。


 「リタ、戻ったか。……その娘は?」


 リタは短く説明した。


 「森で倒れてた。記憶ははっきりしない。しばらく預かるよ」


 村長はじっとユリの目を見る。

 重たいけど、冷たくはない視線。


 「怪我は?」


 「少し、だけどもう平気です。ありがとうございます」


 ユリが頭を下げると、村長は小さく頷いた。


 「礼儀はあるな。それだけでも安心だ」


 そのとき、遠くで鈴が鳴った。


 カラン、カラン――と乾いた音が村の空気を震わせる。


 周囲の空気が変わった。

 洗濯物を取り込む手が急ぎ、子どもが呼び寄せられる。

 戸が閉められ、声が低くなる。


 ユリは思わず囁く。


 「何、これ……?」


 リタの表情がきゅっと引き締まった。


 「見張り台からの合図だよ。森の縁に“影”が見えたんだ」


 「影?」


 レオンが代わりに答えた。


 「魔物だ。群れか、単体かはわからねぇ」


 その言葉は落ち着いていた。

 慣れている声――日常に混じっている重さ。


 ユリの背筋を冷たい指がなぞったように震えが走る。


 「魔物って……ゲームみたいに、剣で倒すとか、そういう……?」


 レオンはゆっくり首を横に振る。


 「倒せることもある。だが、“倒せる前提”で語るやつは死ぬ」


 リタが続ける。


 「魔物はね、人が作った言葉で説明できないことが多い。

 牙や爪だけじゃなくて、匂い、視線、群れ方――全部が脅威だ」


 ユリはごくりと喉を鳴らした。


 村の柵の外。

 森は深く暗く、昼間だというのに影が濃い。

 どこかで枝が折れる音がした気がして、心臓が跳ねる。


 「ここ、危ない場所なんですね……」


 リタは淡々とうなずく。


 「危ない。でも、生きる場所。畑も水も森もここにある。

 だから人は離れない。怖がりながら、暮らし続ける」


 村長の声が飛ぶ。


 「子どもと年寄りは家の中へ! 男手は柵の点検を!」


 人々が散っていく足音は、速いけれど混乱はしていなかった。

 慣れている――それが逆に怖かった。


 「いつも、こうなるんですか?」


 ユリの問いに、レオンは短く答える。


 「ああ。森が近い村は、そういう場所だ」


 ユリは自分の胸に手を当てた。


 ――これは本当に異世界。

 ――テレビや画面じゃなく、今ここで、私のすぐそばで起きてる。


 怖い。

 でも、足はすくまない。

 むしろ、心臓が強く打ち始めていた。


 リタがユリの肩に手を置いた。


 「安心しな。今日はこっちに来やしないさ。

 合図は“警戒”であって、“襲撃”じゃない」


 ユリはかすかに息を吐いた。


 「魔物って、どんな姿なんですか」


 リタは空を見たまま、答えを急がなかった。


 「姿は、ひとつじゃない。

 獣に似たもの、人の形に近いもの、影みたいに輪郭のないもの。


 共通してるのは――“人の生活を壊す”ってことだよ」


 その言葉は静かで、重かった。


 村の奥からパンの匂いがまた漂ってくる。

 その温もりが、さっきよりも尊く感じられた。


 ユリは小さくつぶやいた。


 「生きるって、簡単じゃないんですね……」


 レオンが少しだけ笑う。


 「簡単だった時代なんて、きっとなかった」


 リタが軽く背中を押した。


 「まずは腹ごしらえ。怖い話は、飯のあとでもできるさ」


 ユリは頷いた。

 怖さは消えない。

 でも――逃げずに見ていたいと思った。


 村の中に足を踏み入れる。

 生活の音と、森の影。

 その両方が、この世界の現実として、確かにそこにあった。


 夜は、思ったより早く落ちてきた。


 村の灯りは少ない。

 窓に灯る小さな橙色の光と、広場で燃える焚き火だけ。

 闇は深く、空は広い。星の数は多いのに、それでも暗さは圧倒的だった。


 ユリは借りた毛布にくるまりながら、外の音に耳を澄ませていた。


 ――コツン、コツン。


 柵を確認する足音。

 金属が触れ合う硬い音。

 低い声で交わされる短い言葉。


 「怖いかい?」


 隣で同じように焚き火に手をかざしていたリタが、静かに聞いた。


 ユリは少し考えてから答えた。


 「……怖いというより、“知らない”が怖いです。

 何が来るのか、どれくらい危ないのか、想像できなくて」


 リタはうなずいた。


 「知らないものほど、人は怖がる。

 でも、知りすぎると、それはそれで別の怖さが出てくる」


 ユリは焚き火を見つめた。

 火は生きているみたいに揺れ、時折小さく爆ぜる。


 その瞬間――


 遠くで、低い音が響いた。


 「……ッ!」


 地面が震えたような気がした。

 空気がひとつ、押し込まれる。


 吠えるというより、「喉の奥から絞り出した何か」。

 人の声に似ていないのに、どこか“意志”を感じさせる音。


 焚き火のそばにいた男たちの表情が一瞬で変わった。


 「来たか」


 「森の南側だな」


 レオンが立ち上がり、槍を手に取る。

 その動作は慣れているが、余裕はなかった。


 ユリは思わず呼び止める。


 「レオンさん!」


 振り返らず、短く言う。


 「家の中から離れるな。リタのそばにいろ」


 返事を待つ時間も惜しいというように、彼は闇に溶けていった。


 リタは落ち着いた声で言う。


 「行くよ、ユリ。外にはもう出ない」


 戸締まりがされ、窓に板が打ち付けられていく音が響いた。

 家の中は狭いのに、静けさがやけに広く感じた。


 子どもの泣き声が、どこかの家から漏れた。

 母親のなだめる声。

 それさえも、魔物の気配に吸い込まれていくような気がした。


 ――ドン。


 何かが柵にぶつかった音がした。


 ユリは思わず肩を震わせる。


 リタは窓際に立ち、板の隙間から外を見た。


 「群れじゃない。二、三……いや、四かもしれない」


 「見えるんですか?」


 「影の濃さでね。…姿はよく見ないほうがいいよ。怖さが増す」


 外から短い怒号が響いた。

 男の叫びと、木が裂ける音。


 ユリの指先が冷たくなる。


 「大丈夫、なんですよね……?」


 自分で言って、自分でその軽さに気づいた。

 願望でしかない言葉。


 リタは嘘をつかなかった。


 「“いつも通りに済む”とは限らない。

 それが魔物ってものさ」


 時間が伸びたり縮んだりしているようだった。


 どれくらい経ったのか分からない頃、

 鈴の音が再び鳴った。


 ――今度は、さっきより硬い音。


 扉が開けられたのは、それから少ししてからだった。


 レオンが入ってくる。

 無事だ――それだけで胸がほどけそうになるが、彼の表情は重かった。


 ユリは息を呑んだ。


 「被害は?」


 リタの声は静かだった。


 レオンは短く答えた。


 「柵が一部持っていかれた。見張り台が半壊。

 それと……家畜小屋だ。二頭やられた。見張りの若いのが腕を噛まれた」


 ユリの胸に重しが落ちた。


 死者はいない。

 それでも、それは確かに「被害」で、「現実」だった。


 外に出ると、夜風が冷たかった。


 地面には削られた跡。

 爪で抉られた木の柵。

 血の匂いが、土の匂いと混ざっていた。


 家畜小屋の前で、男の人が肩を震わせていた。

 黙って、ただ震えていた。


 ユリは足が勝手にそちらへ向かった。

 何もできないくせに、それでも見ていなければいけない気がした。


 崩れた木材の影に、暗い染みが広がっていた。

 命が、確かにそこにあった痕跡。


 喉の奥が熱くなる。


 ――この世界では、本当に奪われる。

 何かを守っても、何かがこぼれ落ちる。

 ゲームのように「リセット」はない。


 リタがそっと言った。


 「これでも、まだ軽いほうさ。

 柵が破られて、人が持っていかれることだってある」


 ユリは息を呑んだ。


 「……そんなの、嫌です」


 子どもみたいな言葉しか出てこなかった。


 嫌だ。

 怖い。

 理不尽だ。


 でも同時に――胸の奥に小さな温度が灯る。


 「だったら」


 自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。


 「私、強くなりたいです。

 戦うとかじゃなくてもいい。

 でも、“何もできない”ままで、見てるだけは嫌です」


 レオンがこちらを見た。

 少しだけ目を丸くし、それからゆっくり頷いた。


 「それなら、生きて学べ。

 強くなるってのは、剣を振ることだけじゃねぇ」


 夜空には、星がまだ瞬いていた。

 静かで、美しい。

 それでも地面には、血と土の匂いが残っている。


 ユリはその両方を、ちゃんと目に入れた。


 ――この世界で生きる。

 それは綺麗なだけでも、残酷なだけでもない。


 焚き火の火が小さく揺れた。

 その光を胸に映しながら、ユリは静かに拳を握った。


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