異界の月
湯気の立つ木のカップを両手で包み込むと、温かさが指先からじんわりと広がった。
ほんのり甘く、草の香りがする。飲み慣れない味なのに、不思議と落ち着いた。
「あたし……生きてる」
心の中でそう呟いたとき、はじめて胸の奥がふっと緩んだ。
年配の女性が微笑みながら言う。
「顔色が少しよくなったね。さあ、座りな。焚き火は人を安心させるんだよ」
促されるまま、ユリは焚き火のそばに腰を下ろした。
ぱちぱちと弾ける小さな音。
炎の赤い揺らぎに照らされて、人の輪郭が温かく浮かび上がる。
若い男が丸太の上に腰をかけ、軽く笑った。
「こんな所で一人ってのは珍しい。村の子じゃないよな」
ユリは喉が詰まりそうになった。
嘘をつこうとしても、何を言えばいいのかわからない。
「……そう、ですね。村とか、土地とか……全然、わからなくて」
慎重に言葉を選ぶ。
“異世界から来ました”なんて冗談みたいで、口にすれば壊れてしまいそうだった。
男は首をかしげた。
「旅人って感じでもない。荷物もないし……」
あ、と思う。
何も持っていない自分に、そのときはじめてはっきり気づいた。
スマホも、財布も、家の鍵も。
家の住所を書いたカードすらない。
――完全に、ひとりだ。
胸の奥に冷たいものが落ちる。
ユリは視線を火に落とした。
炎の向こうに、自分の影が揺れている。
年配の女性が、静かに問いかけてきた。
「名前は、なんて言うんだい」
その声は優しいけれど、逃げ場を塞ぐほど真っ直ぐだった。
少し間をおき、ユリは答えた。
「……天野ユリ」
口にして、少しだけ安心する。
名前を名乗ることで、ここに“自分がいる”ことを確かめたかった。
女性はゆったりとうなずく。
「ユリ。いい名前だね。花の名前だろう?」
「はい。母が……」
そこで言葉が止まった。
彼女の顔が浮かび、胸が締めつけられる。
――帰れるかわからない世界。
――スマホさえない。連絡の手段もない。
「……心配、するよね」
誰に聞かせるでもなく零れた言葉に、男が少しだけ真面目な顔をした。
「大切な人がいる場所に、帰りたいのか」
ユリは答えられなかった。
“帰りたい”と言えば泣いてしまいそうだった。
沈黙が落ちる。
焚き火の音だけが、静かに夜を刻む。
やがて、年配の女性が柔らかく言った。
「事情は無理に話さなくていいよ。言葉は、出したくなったときに出るものだ。今は、温かいものを飲みな」
その一言で、ほんの少しだけ救われた気がした。
ユリは深く息を吸い、胸の奥に溜まっていた何かを手放すように吐き出した。
「……ありがとうございます」
短い言葉なのに、喉の奥が熱くなる。
若い男が焚き火に枯れ枝を足しながら言った。
「俺はレオン。行商人みたいなもんだ。こっちはリタ。俺の母さんで、こっちは荷馬車だ」
冗談めかした言い方に、思わず小さく笑ってしまう。
「馬車に紹介いるんですか」
「大事な相棒だからな。こいつがいないと飯も運べねぇ」
その何気ないやり取りが、妙に懐かしく感じた。
高校の帰り道に、友達とどうでもいい会話で笑っていた時間――
それと同じ色をしていた。
ユリは静かに思う。
――この世界は怖い。
――でも、優しさがちゃんとある。
焚き火の明かりがだんだん弱まり、空には星が浮かび始めた。
街の明かりに邪魔されない夜空は、吸い込まれそうなほど深い。
レオンが空を見上げて呟く。
「今日は、いい星だ」
ユリも見上げた瞬間、言葉を失った。
数え切れない光が瞬いている。
東京で見ていた星とは別物だった。
「……こんな空、本当にあるんだ」
胸の奥が震えた。
それは恐怖でも不安でもない。
“生きている実感”に近いもの。
リタが毛布を差し出した。
「今日は馬車で眠るといい。夜は冷えるからね。明日の朝、いろいろ考えよう」
ユリは毛布を受け取り、小さく頭を下げた。
「はい……お世話になります」
馬車の荷台に横になり、毛布に包まれる。
木の匂い、藁の柔らかさ、遠くでかすかに聞こえる馬の息づかい。
目を閉じると、東京の夕焼けが浮かんだ。
母の顔、駅の雑踏、スマホの光。
ゆっくり、ゆっくりそれらが遠ざかっていく。
――わたしは、異世界にいる。
――でも、ここでちゃんと息をしている。
その事実を受け入れたとき、涙が静かに頬を伝った。
声は出さなかった。
泣くことを、誰にも知られたくなかったから。
それでも、涙は止まらなかった。
やがて泣き疲れ、眠りに落ちる。
星空の下、馬車の軋む音だけが、静かに夜を揺らしていた。
――異世界で迎える、はじめての夜だった。
パンの焼ける匂いがした。
それは、夢の中にしみ込んでくるような、やわらかい香りだった。
焦げすぎていない、小麦の甘い香り。
ユリはまぶたの奥で世界が明るくなるのを感じ、ゆっくりと目を開いた。
視界に映ったのは、木の天井。
規則的に並んだ木目と、ところどころに刻まれた傷跡。
昨日の夜、毛布に包まれたまま眠り込んでしまったことを思い出す。
――あ、そうだ。異世界。
言葉にする前に、その現実が胸に落ちた。
東京の朝とは違う。
電車のブレーキ音も車の走行音もない。
かわりに、馬の鼻息と、小鳥の鳴き声が静かに混じっている。
身体を起こすと、外の空気がひんやりと頬を撫でた。
馬車の帆布をくぐって外へ出ると、空は淡い桃色に染まっていた。
夜の青が溶けきらず、朝焼けと重なり合っている。
焚き火の跡のそばで、レオンが鉄の板を支えながらパンを焼いていた。
火は小さく、けれど安定している。
パンの表面がじゅっと鳴り、香ばしい湯気を立てた。
レオンはユリに気づくと、顎で軽く合図した。
「おはよう。よく眠れたか?」
ユリは一瞬返事に迷い、それから静かにうなずいた。
「はい……途中から、たぶん。気づいたら寝てて」
自分でも少し笑ってしまう。
昨日泣き疲れたことは、言葉にしなくても瞼の腫れでわかる気がした。
レオンはそれ以上何も聞かず、焼けたパンを一つ差し出した。
「食え。熱いから気をつけろよ」
ユリは両手で受け取る。
温かさが掌に伝わるその感触だけで、胸がじんとした。
「……ありがとうございます」
噛むと、外は少しだけ硬くて、中はやわらかい。
噛むたび甘さが広がり、喉の奥が温かく満たされる。
都会のコンビニのパンより素朴なのに、
どうしてだか、ずっと美味しかった。
リタが荷を整理しながら言った。
「顔色がいいね。泣いたあとは、よく眠れるもんだよ」
ユリは動きを止めた。
驚いて振り返ると、リタは優しい目で笑っていた。
「焚き火の音の中で泣く声ってのは、耳じゃなくて空気で伝わるんだよ」
恥ずかしさがこみ上げる。
隠していたつもりの涙が、ちゃんと見られていたことに胸が熱くなる。
「……すみません」
謝った瞬間、リタは首を横に振った。
「謝ることじゃないよ。泣けるうちは、生きてる証拠だ」
その言葉は、思っていた以上に心の奥へ落ちていった。
ユリは目を伏せ、パンをもう一口かじった。
――生きてる証拠。
東京にいたときは、泣くことさえ面倒だった。
泣く理由を探す前に、スマホで気を紛らわせていた。
感情を深く見つめることを、どこかで避けていた。
ここでは、逃げ場がない。
だからこそ、誤魔化せない。
パンを食べ終えるころ、レオンが馬車の荷台を軽く叩いた。
「さて。今日は少し離れた村に寄るつもりだ。ユリ、しばらく俺たちと来るか?」
その言い方は、押しつけではなかった。
ただ「選択肢として差し出してくれた」という温度だった。
ユリは空を見上げる。
朝焼けはすでに薄れ、青空が広がり始めていた。
――帰り道はわからない。
――でも、立ち止まっても進まなくても、時間は過ぎる。
なら。
「……お願いします」
答えは自然に口から出た。
自分で言った瞬間、胸の奥が少し軽くなる。
「ここで泣いて終わるの、なんか嫌なので。ちゃんと、考えながら生きたいです」
言葉にしてから、照れが遅れてやってくる。
けれどレオンもリタも笑わなかった。
リタは静かにうなずいた。
「それでいい。小さく決めて、小さく進む。人はそれで十分だよ」
馬車の車輪が土を踏みしめる音が響く。
荷台に腰かけたユリは、揺れに身を任せた。
風が頬を撫でる。
草原がゆっくり後ろへ流れていく。
ユリは胸の奥で、言葉をひとつ結ぶ。
――ちゃんと生きよう。怖くても。
――もう少しだけ、自分に向き合ってみよう。
それは大きな決意ではない。
誰にも聞こえないほど小さな声。
けれど確かに、彼女の中で何かが動き始めていた。
朝の光の中で、馬車は静かに進んでいく。
異世界でのスローライフは、まだ始まりの入口に立ったばかりだった。
馬車の揺れは一定で、子守唄みたいだった。
道の脇にはまだ朝露を抱いた草が並び、風がそれをまとめて撫でていった。
しばらく沈黙が続いた。
気まずさではなく、言葉を選んでいる静けさだった。
リタがぽつりと口を開いた。
「そうだね。あんたに、少しこの世界の話をしておこうか」
ユリは背筋を伸ばす。
聞き逃したら、何か大事なものが零れ落ちそうな気がした。
「この世界はね、簡単に言うと――均等じゃない」
リタは前を見据えたまま続けた。
「力のある者、魔法が扱える者、土地を持つ者。
そういう人間が“上”に立って、他の人は“下”で支える。
それ自体は昔から変わらない。ただ――」
そこで言葉を切る。
馬の蹄の音だけがコツコツと響いた。
「変わったのは、“見て見ぬふり”が上手くなったことだね」
ユリは眉を寄せた。
「見て、見ぬふり……?」
「そう。誰かが苦しんでても、自分に火の粉が降らなければ気づかないふりをする。
あんたの世界にも、あったんじゃないかい?」
胸が少し痛くなった。
電車の中で泣いている子ども。
SNSの炎上。
見ないように画面をスクロールして、何も知らない顔をした自分。
ユリは小さくうなずいた。
「……あります。いっぱい」
リタはわずかに微笑んだ。
「こっちでも同じさ。魔法がある分、できることは多いのにね。
それを使って誰かを助けるより、“自分を守るほう”に使う人間が多い」
「魔法って…便利な力、ですよね?」
「便利だよ。だからこそ、人を怠けさせる」
その言い方はきっぱりしていたが、冷たくはなかった。
長い時間、現実を見てきた人の声だった。
レオンが、手綱を握りながらぽつりと加えた。
「魔法は、生きる力の代わりにはならない。
腹は自分で満たすしかないし、孤独は寝てやり過ごすしかない」
ユリは思わず問い返した。
「じゃあ…この世界で“強い人”って、どんな人なんですか?」
リタは少し考えてから答えた。
「自分をごまかさない人だね。
泣くときは泣いて、怒るときは怒って、怖いときは怖いって言える人」
その言葉が、昨日の自分の涙と重なった。
――泣いたことは、弱さじゃなかったんだろうか。
――逃げてるだけじゃないだろうか。
不安をそのまま口にすると、リタは静かに笑った。
「逃げるのは悪いことじゃないよ。
ただ、“どこから逃げて、どこへ向かっているのか”だけは見てなきゃいけない」
ユリは返事をせず、視線を前へ向けた。
遠くに、小さな屋根の群れが見え始めていた。
煙突から細い煙がのぼり、風に溶けていく。
「……あれが村?」
「そう。人が生きてる匂いがする場所だよ」
リタの声はやわらかかった。
ユリは胸の奥に手を当てるような気持ちで息を吸った。
土と草と煙の混ざった空気が肺を満たす。
――この世界は均等じゃない。
――魔法は便利だけど、心を救ってはくれない。
その現実を、彼女はまだ上手く飲み込めない。
けれど、逃げずに“見る”ことだけは、しようと思った。
ユリは小さくつぶやいた。
「私…ちゃんと知りたいです。
この世界のことも、人のことも。自分のことも」
リタは横目でちらりと見て、短くうなずいた。
「それができる人間は、もう十分強いよ」
馬車は小さな村へ向かって進んでいく。
朝の光の中で、ユリの決意は静かに形を持ち始めていた。




