プロローグ
春の夕暮れ、街の喧騒が少しずつやわらいでいく。
短大の帰り道、天野ユリはカフェの紙カップを両手で包みながら、
ふわりと空を見上げた。
「今日の空、めっちゃきれい……」
頬をかすめる風はやさしく、髪先のアッシュブラウンをなでていく。
ほんのり桜色が残る空に、薄い雲が流れていた。
いつもならこのまま駅へ向かい、友達と少しだけ買い物をして、
家でお気に入りの紅茶を淹れる――そんな何気ない日常のはずだった。
けれど、その日は少し違っていた。
足元のアスファルトが、かすかに光っている。
それは最初、夕日の反射だと思った。
だが次の瞬間、光はまるで呼吸するように広がり、
ユリの身体をやわらかく包みこんだ。
「え……なに、これ……?」
視界が白に染まる。
耳鳴りのような、でもどこか心地いい音が響く。
風が途切れ、代わりに――静寂。
ユリは息を呑んだ。
足元にあったはずの地面が、消えている。
重力も方向もわからない。
ただ、光に抱かれて――
そして、ふっと、落ちた。
* * *
まぶしい光が、ゆっくりと薄れていく。
目を開けると、そこは見たことのない景色だった。
風にそよぐ草原。
果てしなく続く緑と、どこまでも高い青空。
遠くには山々、白い鳥がいくつも旋回している。
ユリはゆっくりと起き上がった。
「え……ここ、どこ……?」
制服のスカートが草に触れて、さらりと音を立てる。
手にしていたカップは消えていた。
スマホを取り出そうとしたが――ポケットは空。
代わりに、風が答えるように髪を揺らす。
「夢……じゃない、よね……」
少し涙ぐみそうになったそのとき、
鳥の声とともに、風が甘い香りを運んできた。
それは花の匂い。
ユリは立ち上がり、ゆっくりとその方向へ歩き出す。
不安よりも先に浮かんだのは、
**「綺麗だな」**という小さな感動だった。




