第44話:知の書庫の探求者たち
【第三部】
▼Day5:水面下の絆
Day5の朝。
子供たちがまだ深い眠りの底にいる頃、日向万里奈は一人、迎賓館の地下二階にある『知の書庫』に篭っていた。
そこは、迎賓館の華やかな雰囲気とは一線を画す、静寂と思索のための空間。本の代わりにサーバーラックが静かな駆動音を立て、壁一面に広がる漆黒のディスプレイに、世界中の最新の知見が光の粒子となって渦を巻いている。部屋全体は薄暗く、万里奈の手元に浮かぶホログラム・ディスプレイだけが、彼女の真剣な横顔を青白く照らし出していた。
「これだけの情報が集まっていても、あと一歩が……遠い……」
焦りと疲労に、思わず深いため息が漏れる。
その時だった。
「――万里奈様」
背後から、吐息のように静かな声がした。いつの間に現れたのか、アンドロイド執事アルスラーンが、完璧な姿勢で佇んでいる。
「アイラ様も、璃奈様のことを非常に心配しておられます」
主の気持ちを代弁するその言葉に、万里奈の強張っていた表情が少しだけ和らぐ。
「アルスラーンさん……。うん、ありがとう。実は昨夜、部屋に戻ってきた璃奈から聞いたんです。あの子、中央管制室で、台湾の病院から自分の全遺伝子情報をここに転送したって。この『設計図』と最新研究を突合すれば何かわかると思ったんやけど……このライブラリでも、公開されてる情報の範囲では、もう限界みたいやわ」
その言葉に、アルスラーンは静かに一歩進み出た。
「でしたら、僭越ながら。このアルスラーンめにも、お手伝いさせていただけますでしょうか」
彼がホログラム・ディスプレイにそっと指を触れると、システムに認証を求めるウィンドウが開く。
承認:アルスラーン // アクセスレベル:特A級
刹那、万里奈が見ていた情報の海が、そのさらに深淵を曝け出した。これまで不可視だった、未公開の研究論文や各国の極秘プロジェクトの基礎データが、新たな光の奔流となって眼前に現れる。
「これが……『特A級』アーカイブ……!」
息を呑む万里奈の隣で、アルスラーンは恭しく告げた。
「さあ、万里奈様。探求の続きを」
二人の共同作業は、そこから驚異的な速度で進んだ。万里奈が医学的な知見でキーワードを絞り込み、アルスラーンがその超知性で瞬時に数百万件のデータを照合し、ノイズを削ぎ落としていく。
そして、ついに一つのデータにたどり着いた。
パソナ館の秘密の部屋にいた天才科学者が遺した、最後の未公開論文。
「あった……!」
そこに記されていたのは、二段階治療の理論の、より詳細な裏付けだった。そして、最後の章はこのような一文で締めくくられている。
『――ES細胞の臨床応用における最大の障壁は、ドナーとレシピエント間の主要組織適合性抗原(HLA)の不一致に起因する免疫拒絶反応である。これを乗り越えぬ限り、真の神経再生は実現しない』
「やっぱり、この道筋で合ってたんや……!でも、一番の難問はここか。奇跡でも起きへん限り、HLAが完全に適合する他人なんて……」
万里奈が唇を噛んだ、その時だった。
アルスラーンが、データベースに一つのコマンドを打ち込む。主の安全管理のために常時携帯している、アイラの全遺伝子情報。参考データとして、システムに登録したのだ。
それを見た万里奈も、弾かれたように璃奈の遺伝子情報を入力する。
直後、システムのメインスクリーンに、予期せぬアラートが灯った。
警告:統計的稀少マーカーの一致を検出
二人は、画面に表示された二対の遺伝子配列図に釘付けになった。璃奈のものと、アイラのもの。膨大な遺伝子配列の中で、HLA領域とは全く別の場所に、ただ一点だけ、同じ印を持つ「超古代の遺伝子マーカー」が強く輝きを放っている。
「……これは」
アルスラーンが、冷静に分析結果を読み上げる。
「極めて稀少な、遠い祖先を同じくする可能性を示唆する遺伝子マーカー……ですね。二人が姉妹でない限り、この一致は天文学的な確率です」
「璃奈と……アイラちゃんに……?」
巨大な壁と、針の穴ほどの小さな、しかし確かな光。
薄暗い書庫で、二人の探求者の間に、もう一つの、そしてより確かな絆が結ばれた。彼らはこの奇妙な発見を胸に秘め、子供たちが目覚めるのを待つことにしたのだった。




