婚約破棄・オブ・ザ・デッド
◯◯・オブ・ザ・デッドが書きたい!が先行しました
王都サンテレーザの中央広場に建つグランドパレスの大広間は、毎年恒例の春の舞踏会で華やかな雰囲気に包まれていた。シャンデリアの灯りが宝石や装飾品を煌めかせ、豪華なドレスに身を包んだ貴婦人たちが、礼服姿の紳士たちと優雅に踊りを楽しんでいた。
その中でも、誰よりも輝いていたのは、公爵令嬢エレオノーラ・フォン・ハーフェンシュタインだった。ふわりと広がる薄青色のドレスと、首元から肩にかけて流れる金色の巻き毛。彼女は王太子フリードリヒの婚約者として、この舞踏会の主役であった。
しかし、その輝きは突如として消え去ることになる。
「お集まりの皆様、重要なお知らせがございます」
フリードリヒ王太子の声が大広間に響き渡った。音楽が止み、踊りが中断され、会場が静寂に包まれる。誰かが咳込む音がやけに大きく響いた。
「本日、私はエレオノーラ・フォン・ハーフェンシュタイン公爵令嬢との婚約を解消することをここに宣言します」
一瞬の沈黙の後、会場はどよめきに包まれた。
「なんですって?」
「婚約破棄だって?」
「まさか、あの公爵令嬢が……」
囁き声が広間中に広がる中、エレオノーラはまばたきをして首を傾げた。
「あらあら、わたくし何か粗相をいたしましたかしら?」
彼女の声には、婚約を破棄されたという事実への驚きや動揺はなく、ただ純粋な疑問だけがあった。周囲がざわめくのを見て、エレオノーラは微笑んだ。
「何か面白い噂話でも始まったのかしら?」
王太子は喉を鳴らし、困惑した表情で言葉を続けた。
「エレオノーラ殿、あなたのことは心から尊敬しております。しかし、我々の価値観の違いは埋めがたいものがあります。特に……」
王太子は言葉を選ぶように一瞬考え込んだ。
「特に、先月の王家晩餐会であなたが突然、『人の肉は柔らかで美味しそうですわね』と発言されたこと。また、廊下の絵画をすべて逆さまにかけ替えたいとおっしゃったこと。それから、宮廷の猫たちに『ご先祖様の生まれ変わり』として敬礼する習慣を城中に広めようとされたこと……」
エレオノーラは大きく目を見開き、両手を胸の前で組んだ。
「わたくしのことをよくご存知でいらっしゃるのね! まあ、お恥ずかしい」
彼女は頬を赤らめ、嬉しそうに微笑んだ。
「でも、人の肉が柔らかそうというのは、ベーコンを食べながらふと思っただけですわ。猫様たちも、あんなに気品があるのですもの、きっと前世は貴族でいらしたに違いないと……」
王太子の周りにいた側近たちは、顔を見合わせて薄く笑いを浮かべた。エレオノーラの奇行の数々は宮廷中の噂になっていたが、本人の前でこれほど率直に語られることは稀だった。
王太子は諦めたような表情で手をあげた。
「エレオノーラ殿、そのようなあなたの……独特な視点が問題なのです。王妃としての資質を疑わざるを得ません」
「なるほど、なるほど」エレオノーラは大きく頷いた。「そんなにお堅く考えなくてもよろしいのよ。わたくしは気にしておりませんわ」
「気にしていないと……?」王太子は困惑した表情を浮かべた。
「ええ!婚約が解消されたのなら、わたくしはわたくしの好きなように過ごせばよいだけのことですわ」彼女は微笑んだ。「これからもお友達でいられますことを願っておりますわ」
この落ち着きぶりに、会場の雰囲気は一変した。期待していた大騒ぎや涙の場面がなく、何を言っていいのか分からない空気が流れた。また誰かが咳込んだ。エレオノーラはそんな周囲の反応にも気づかず、手に持ったシャンパングラスを軽く掲げた。
「さあ、皆様!お祝いの乾杯をいたしましょう!」
「お祝い……?」王太子は呆然と尋ね返した。
「ええ、新たな人生の始まりですもの」エレオノーラは無邪気に笑った。周囲の貴族たちは、これが彼女の本心なのか、それとも屈辱を隠すための振る舞いなのか、判断できずにいた。
舞踏会は予想外の展開から、なんとも言えない空気の中で続いていった。エレオノーラはいつもと変わらぬ笑顔で、あちこちの貴族たちと会話を楽しんでいる。まるで婚約破棄などなかったかのように。
やがてエレオノーラは満面の笑みを浮かべたまま、礼儀正しく深々とカーテシーをし、舞踏会場から颯爽と退場したのだった。
*
婚約破棄を受けた翌日。エレオノーラはベッドの中でゆったりと伸びをしながら目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む朝日が、部屋を優しく照らしている。
「おはようございます、エレオノーラ様」
侍女長のマーサが慌ただしく部屋に入ってきた。彼女の表情には焦りと不安が浮かんでいる。
「マーサ、おはよう。今日はいい天気ね」エレオノーラは伸びをしながら言った。
「お嬢様、大変なことになっております! 窓の外をご覧になってください!」
「まあ、そんなに慌てて。何かしら、今日は何かお祭りでもあるの?」
エレオノーラはのんびりとベッドから降り、窓辺に向かった。外では人々が慌ただしく走り回り、叫び声や物音が聞こえてくる。そして、ゆっくりとよろめきながら歩く人々の姿も見える。顔色が悪く、服は破れ、まるで病人のような様子だ。
「まあ、皆さんお疲れのようね。昨日の舞踏会で飲みすぎたのかしら」
「お嬢様! あれは……あれは……」マーサは言葉に詰まった。
「マーサ、あなたも顔色が悪いわ。少し休んだほうがいいわよ」エレオノーラは穏やかに微笑んだ。「わたくしは今日、お散歩に出かけようと思うの」
「だめです! 外は危険です!」マーサは叫んだ。
「あら、雨が降りそうなの?」
「雨ではなく……死者が……死者が歩いているんです!」
エレオノーラは大きく目を見開いた。
「まあ、マーサったら。そんな冗談を言うものではありませんよ」彼女は優しく諭すように言った。「死者が歩くなんて。次はきっと『空が落ちてくる』と言うのでしょうね」
マーサは諦めの表情を浮かべた。
「とにかく、今日はお部屋でお過ごしください。わたくしたちで館の守りを固めますから」
「わかったわ。でも午後には庭に出るわね。お日様の光を浴びないと元気が出ないもの」
マーサは何か言いかけたが、結局深いため息をつくだけだった。
*
正午過ぎ、エレオノーラは館の庭に出た。護衛の騎士たちが彼女の周りを固く取り囲んでいる。
「まあ、皆さん、わたくしが転ばないようにと、過保護ですわね!」エレオノーラは照れ笑いをした。
庭の外、鉄柵の向こうには、数人の人影がよろめきながら歩いているのが見える。服は破れ、顔は土色で、目はどこかを虚ろに見つめていた。
「あらあら、皆様、足元がおぼつかないのね」エレオノーラは鉄柵に近づこうとした。「何かお手伝いできることはございましょうか?」
「エレオノーラ様! 下がってください!」護衛長のガーウィンが彼女の前に立ちはだかった。
「でも、もう少し背筋を伸ばして歩かないと背中を痛めますわよ」彼女は鉄柵の向こうの人々に向かって声をかけた。
その時、柵に手を伸ばしてきた「顔色の悪い人」の腕を、ガーウィンが剣で切り落とした。腕は地面に落ち、しかしその人物は痛みを感じた様子もなく、ただ低い唸り声を上げ続けている。
「ガーウィン! 何ということを!」エレオノーラは叫んだ。「その方を傷つけるなんて!」
「エレオノーラ様、あれはもう人ではありません」ガーウィンは額の汗を拭いながら言った。「あれは死者です。死体が蘇ったのです」
エレオノーラは大きく首を振った。
「まあ、ガーウィンまで。皆さん、なぜそんな奇妙なことを言うのかしら。あの方はただ病気なのでしょう」
「病気ではありません! 見てください、腕を切り落としても痛がらないのです!」
エレオノーラは地面に落ちた腕を見つめ、そして真剣な表情で頷いた。
「なるほど。きっと民間療法の一種ね。痛みを感じなくする訓練をしているのかしら。東方では体の一部を切り離しても平気になる修行があると聞いたことがあるわ」
ガーウィンは絶句した。そして、周囲の護衛たちも、言葉を失った表情で互いに顔を見合わせるのだった。
*
数日後、エレオノーラの親友である伯爵令嬢オリヴィアが、血相を変えて屋敷を訪ねてきた。
「エレオノーラ! よかった、無事だったのね!」
オリヴィアは玄関ホールに入るなり、エレオノーラに駆け寄り、強く抱きしめた。
「まあ、オリヴィア。久しぶり。元気そうで何よりだわ」エレオノーラは穏やかに微笑んだ。
「元気どころではないわ! 街中が大変なことになっているのに! あなたは本当に理解しているの? 死者たちが蘇って、生きている人間を襲っているのよ!」
エレオノーラは目を輝かせた。
「まあ、オリヴィアったら、今日は一段と演劇の練習に熱が入っているわね!」
「演劇? 何を言っているの? これは現実よ! 現実!」
「あらあら。とても迫真の演技ね。もしやオリヴィアもお祭りで演劇を披露するの? わたくしも見に行きたいわ」
オリヴィアは天を仰いだ。
「エレオノーラ、聞いて。これは演劇ではない。本物の災厄なの。街の半分はもう死者たちに占拠されてしまったわ。彼らは生きている人を噛むと、その人も死んで、また同じ怪物になるの」
「なるほど」エレオノーラは真剣な表情で頷いた。「それは感染病の暗喩ね。社会批判を含んだとても深い作品になりそうだわ」
オリヴィアは深いため息をつき、諦めたように肩を落とした。
「もういいわ。とにかく、ここにいれば安全なの? 護衛は十分? 食料は?」
「ええ、心配しないで。護衛の皆さんはとても真剣に仕事をしているわ。それに、食料も十分あるの。マーサが毎日市場に買い出しに……」
「市場? まだ市場が開いているの?」
「ええ、もちろん。少し人が少なくなったけれど」
「それは……意外ね」困惑した表情を浮かべたオリヴィアだが、「買い出し」はエレオノーラの主観であることに思い至った。
「でも、外出するのは危険よ。これからはしばらく、わたしもここに滞在させてもらえないかしら」
「ええ、もちろんよ。お泊まり会みたいで楽しいわ」
エレオノーラの明るい笑顔に、オリヴィアは複雑な表情を浮かべるのだった。
*
翌日、エレオノーラはオリヴィアを伴って、護衛に守られながら庭園の散歩を楽しんでいた。突然、庭の鉄柵の向こうで騒ぎが起きた。
生存者のグループが、「顔色の悪い人々」に追われて逃げてきたのだ。彼らは鉄柵を必死に叩き、「開けてくれ!」と叫んでいる。
「お客様かしら? ガーウィン、あの人たちを中に入れてあげて」エレオノーラは言った。
護衛長は一瞬躊躇したが、すぐに部下たちに指示を出し、門を開けさせた。生存者たちが駆け込むと同時に、追いかけてきた「顔色の悪い人々」も門に殺到する。護衛たちは必死に剣を振るい、侵入者を食い止めようとしていた。
「あらあら、お祭りの準備でみなさん気が張っているのね」エレオノーラは微笑んだ。
救出された生存者の一人が、彼女を見つめて叫んだ。
「おま……つり? 何を言っているんだ! これが祭りに見えるのか!? 死者どもが我々を食い殺そうとしているんだぞ!」
「まあ、なんて情熱的な演技」エレオノーラは感心したように言った。「オリヴィア、この方も劇団の方なの?」
オリヴィアは答える代わりに、その男性に謝るような目配せをした。
その時、一人の「顔色の悪い人」が柵を乗り越え、エレオノーラに向かって手を伸ばした。オリヴィアが悲鳴を上げる中、ガーウィンが素早く剣を振るい、その「人」の頭を切り落とした。当のエレオノーラは「劇団の方」の方を向いていて、自身に迫る危機にまったく気付いていなかった。
「あらガーウィン。練習熱心なのは良いことだけれど、人の近くで剣を振るったら危ないわよ」肩で息をするガーウィンにエレオノーラは言った。
「エレオノーラ様! あなたの命が危なかったのです!」ガーウィンは叫んだ。
「まあ、そんなに大げさな」エレオノーラは首を傾げた。「この庭園にある危ないものは薔薇の棘くらいだわ」
ガーウィンとオリヴィアは絶望的な表情で顔を見合わせた。
「エレオノーラ、これ以上ここにいるのは危険よ。屋敷の中に戻りましょう」オリヴィアは彼女の腕を引いた。
「そうね、確かに皆さんお疲れのようですし」エレオノーラは「顔色の悪い人々」を見つめながら言った。「でも、あまり無理をしないでくださいね」
彼女は柔らかく微笑み、そして優雅に館の中へと戻っていった。
*
状況は日に日に悪化していった。
街の大部分は「顔色の悪い人々」に占拠され、生存者はわずかな安全地帯に閉じこもるしかなくなっていた。
しかし、エレオノーラの屋敷だけは、不思議なことに比較的安全を保っていた。それはガーウィンたち護衛騎士団の奮闘のおかげであり、また、奇妙なことに「顔色の悪い人々」がエレオノーラの近くにいると、不思議と動きが鈍くなるという現象も関係していた。
「もしかして、あの公爵令嬢の独特な雰囲気に、死者たちも混乱するのではないか」
そんな噂まで広まり始めていた。
ある日、エレオノーラはオリヴィアと館の図書室で過ごしていた。オリヴィアは窓の外を見て、突然立ち上がった。
「エレオノーラ! 見て! あそこで何が起きているか分かる?」
窓の外では、「顔色の悪い人」が別の人物に襲いかかり、その肉を食らっている場面が見えた。
エレオノーラはしばらく眺め、そして穏やかに言った。
「オリヴィア。具合の悪そうな人に、親切な人が付き添っているわ」
「付き添って……いる?」オリヴィアは信じられない表情で尋ねた。「あれは『食べている』のよ! 人を!」
「まさか」エレオノーラは大きく首を振った。「きっと、あの方は倒れそうになっている人を支えようとしているのね。ほら、手を伸ばして……」
「噛みついているのよ! 噛みついて食べている!」
「オリヴィア、最近本当に想像力が豊かになったわね」エレオノーラは笑った。「でも、そんなに恐ろしい話をするのはやめましょう。わたくしたちはお茶会の準備をしなくては」
オリヴィアは諦めたように肩を落とし、静かに言った。
「そうね……お茶会……世界が終わりに向かっている中で、お茶会ね……」
「世界が終わる? まあ、オリヴィア、あなたったら。今日はとても詩的な気分なのね」
*
それから数週間が経過した。王国軍の必死の戦いと、科学者たちが発見した予防薬のおかげで、状況は徐々に好転していった。
エレオノーラは相変わらず、穏やかで天然な日々を送っていた。彼女にとって、過去数週間は「皆が何か大きなお祭りの準備で忙しく走り回っていた時期」でしかなかった。
そして、ついに街の「浄化」が完了した日、エレオノーラは復興作業が進む街の通りを、オリヴィアと護衛団長ガーウィンに付き添われて散歩していた。
ガーウィンの手には、血まみれでぼろぼろに刃こぼれした剣。彼の顔には疲労の色が濃く残っていた。しかし、街にはもう「顔色の悪い人々」の姿はなく、代わりに生存者たちが瓦礫を片付け、建物を修復する姿が見られた。
「最近、顔色の悪い人も見かけなくなりましたわね」エレオノーラはふと呟いた。「皆、体調が良くなったのかしら?」
その言葉を聞いた、血まみれでぼろぼろに刃こぼれした剣を持つガーウィンと、憔悴しきったオリヴィアは、互いに顔を見合わせ、言葉にならない複雑な表情を浮かべた。
「ええ……まあ……そうですね、エレオノーラ様」ガーウィンは絞り出すように言った。「皆、体調が……良くなったのです」
「それはよかったわ」エレオノーラは満面の笑みを浮かべた。「でも、お祭りはいつ始まるのかしら? 皆さん、ずっと準備していたのに」
「お祭りは……」オリヴィアは一瞬言葉を詰まらせ、そして深呼吸をして続けた。「もう終わったのよ、エレオノーラ。とても……特別なお祭りだったわ」
「まあ、そうだったの? わたくし、気づかなかったわ」エレオノーラは少し残念そうに言った。「でも、次のお祭りには必ず参加するわ。きっと素敵なお祭りになるでしょうね」
ガーウィンとオリヴィアは、互いに疲れた笑顔を交わした。
「ええ、きっと……」オリヴィアは静かに言った。「次はもっと素敵な……平和なお祭りになるわ」
そして三人は、夕陽に照らされる街並みを、ゆっくりと歩いていくのだった。
(おわり)