【第一話】
私が心から愛する彼は、この世の誰よりも優しく、慈愛に満ちている。そして、正しいことには極端に弱く、そうするべきだとか、この方が良いとか、自分の中で多少合理的な意見が出てしまえば、すぐに頷いてしまう。
それが、私の相棒である小波海羽という人物だ。
大学を卒業してから、もうすぐ三年が経つ。結果として、私達はなにも変わらなかった。それぞれ自分の仕事を続け、共に二人で過ごす。けれど、その日常を彩る過程では、いくつか変わったこともあった。
「棚、ちょっと不安定になってんな……」
夕方の目映い茜色の光が窓から差し込み始めた頃。人気のない空間にて、ぽつりと落とされた言葉。
「やっぱり、ちょっと壊れやすかったのかな?」
彼の独り言を聞きつけ、隣のリビングを覗くと、海羽が軽く触れている棚が微かに間の抜けた音を立てていた。
「結構経つし、そろそろだったんじゃねえの? 今度の休みに直すか」
海羽はその棚に乗っていたトロフィーを左下の棚に置き、そちらに乗っていたぬいぐるみを上の棚へと飾った。それなら重量もあまり気にならないし、もしもの場合も大丈夫だろう。
「一応、買い替えるのも考えておこっか。ご飯、できたよ」
海羽の言葉に頷きながらも、私はそう言ってキッチンに戻った。料理の入った皿を持ち、リビングへ向かう。海羽は、お箸とお茶の入ったグラスを食卓に並べていた。私よりも少し多い料理の皿を、海羽の前に置く。
私はエプロンに紐を解き、戸棚の横に引っ掛けた。海羽を促してから椅子を引き、同時に席に着く。ありきたりな家具が並ぶ簡素なダイニング。向かい側の青い瞳と自然と目が合い、私達は手を合わせる。
「「いただきます」」
高校卒業を機に、私達はルームシェアを始めた。きっかけはよく覚えていないが、誘ってきたのは海羽からだった。当時は高校卒業さえ現実的に思えていなかったのにも関わらず、今思えばあの頃から海羽は随分と先を見ていた。そうして二人とも高校を卒業し、相棒に同居人という新しい肩書きが加わったのだ。
海羽との生活は、本当に穏やかなものだった。当番制の家事にも適度に手を抜きつつ、私達は上手くこなせている。ちょっとした拍子や生活の波長が合うのだろう。どうやら、私と海羽の生活の相性は悪くないようだった。
___違和感、全然ないもんなぁ……。
一人になったリビング。二人分の食器を洗いながら、ぼんやりとそう思う。長年の成果だろうか、今ではこの家に他人が住んでいるという感覚が全くない。海羽とは血の繋がりもなにもない、ただの他人だというのにも関わらず、ここの住み心地は実家と変わらないくらいだった。
充実、していると思う。ここは、とても居心地が良い。他者のいる生活で、自分がここまで羽を伸ばせるとは、正直思ってはいなかった。私の傲慢な勘違いでなければ、これはきっと私だけの想いじゃない。先程夕食を摂ったばかりではあるが、口寂しさに冷凍庫から桃色の氷菓を手に取る。
とことん、自己肯定感の低い相棒なのだ。同居を始めてからも、海羽は自分を下げて言う癖があった。まったくもってそんなことはないと私は断言できるのに、海羽は必ず困ったように笑うのだ。
その度に、違う、と。海羽はそんな人じゃないし、海羽がいて私は助かっている、というお世辞でもなんでもない本心を投げかけてきた。同居するようになってからは、より一層。
しゃくり、と冷たい桃味が口の中で溶けていく。ざりざりと小さな氷を噛み砕く音が頭に響く。美味しい、なんて思う間もないほどに慣れ親しんだ味。
自己評価が低いなら、もしもそれで翳るものがあるのなら、私はそれを否定しなくてはならない。彼が、この家で彼らしく居られるように。もう、なにも我慢しなくて済むように。