因果・黎明に断つ
前作『険非違士・出立の段』と同じ主人公です。
カガリは獣や野賊を狩り喰い、生きてきた。神であるヒドラノ尉の鎮める森を護るため強く育ったヒトである。しかし毛堕物に屠られヒドラノ尉は死んでしまった。だからカガリは森を離れて外に出た。
払暁、有明の月を見るまでにカガリは四度のくさめをした。蓑がさの内で腕を抱きつつ、カガリは野草の茂る平原を行く。
(冷える……)
故郷の森にはない風の軽さに、カガリの鼻梁はかじかんでいる。鑿で彫ったような顔貌は直線的で整っており、額から左頬に走る傷跡さえなければ若肌の柔らかさは月下に照らされ、その美しさを絵に映やしていただろう。艶のある黒い頭髪と真麻色に変じた毛先は後ろで結われ、カガリが一歩と進むたび、肩口でゆらゆら尾を振っている。
(あれは?)
いまだ明けぬ夜の暗さに、目を惹かれたのは一点の灯。平原の奥で火を焚く者がいるらしい。カガリは身を抱く腕を緩めて、両刀の柄にそっと這わした。この時カガリは獣の相を帯びる。狩りを狙う肉食の眼が翡翠色の双眸に宿る。
腰裏から二刀を音無しに抜き、腹つくばいで野草に身を落とし込む。背負っている大弓と箙は傾かぬよう、縛り紐を口に含んで張りつめさせる。平原に吹く風と同化する。深い息を維持しつつ茂った草根を縫ってゆく。
ふと、目下に一本の枯れ枝を見つけた。森で見たことがある、カッシャラの古茎だ。矢の代わりになる折れ方をしている。カガリは枯れ枝を小指に握り込んで、灯のある方へ寄せ行った。
行き着く先にあったのは、火ではなかった。
後背に光を負った、狐であった。体毛から燐光を発して赤く揺れているように見える。
「私は、カガリと言う。驚かせたのならすまない。お前は神だな、名を何と言う」
光る狐は、カガリが茂みから出てきたのを見て、身を大きく躍らせていた。獣によく似て怯懦な心を持っているが、獣臭さや瘴気の類はにおわない。カガリの問いにおずおずと上目がちな光る狐は応えてよこした。
『キノ主典。其方カガリと言ったか、吾は知っとるぞ。其方は剣と弓矢を使うのだ』
「それは私が刀を抜いて、弓を背負っているから察したのだろう。キノ主典、お前は毛堕物を見た事あるか」
『毛堕物、恐ろしやっ』
キノ主典はまたも身を跳ねさせて、今度は茂みに飛び込んだ。
「毛堕物が現れ、大和は荒れていると聞く。お前は何か知っているのか」
『カガリよ、吾は知っとるぞ。東国に乱を興した者ありて、天下を焼き尽くそうとしている悪鬼が増した』
草の間に隠れていても狐の背中は赤く燃える体毛がある。小さな瞳が震えながらカガリを見ている。
「その乱を興した悪鬼は誰ぞ」
『言えぬっ、カガリよ。吾はこれより先は言えぬのだ。しかし毛堕物はその者が欲をかきだしたゆえ生まれいづった』
カガリは思案する。毛堕物は神が欲にまみれた成れの果て。神が欲を露わにするには人間の放つ瘴気が近因している、そうカガリは亡きヒドラノ尉から言い聞かされた。
「その者を討つ。であれば毛堕物は潰え、大和は清まろう」
カガリの胸にいきり立つ力が湧き上がった時、キノ主典はぴゃっと悲鳴を上げた。身を翻すと有明の月が沈もうとする山影を、一つの巨獣が阻んでいた。四足の姿、だが誰何をしようと詳らかに推し量れない。
ただ吸い込んだのは、獣のくさった毛皮のにおい。
「何者だ」
カガリは問いを聞かせきるより先に箙の矢を引き抜いて、大弓から一筋放った。風の悲鳴がぴゃっとなって巨獣に向かって突きこんでゆく。芯を射止めた。カガリは思った。だが次の瞬間、鏃は巨大な影に食い込むことなく弾かれた。
なにを――カガリは怯むことなく二の矢をすかさず射込んだ。東に色づく薄明の陽が鏃の肌で瞬いた。だが変わらない。カガリの爪は彼奴の肉を喰らわない。三の矢、四の矢と続けても同じ事。
『毛堕物じゃ、げに恐ろしき毛堕物なのだ』
キノ主典は腰が抜けたか尾を抱き込んで転げてしまった。巨獣が吠えた。剛強な喉笛を誇示するような咆哮をカガリは眉根で受け取った。言葉が分からぬ。かつての主ヒドラノ尉を殺した毛堕物ならば通じた言葉が、彼奴には聞こえぬ。
獣か、それとも何か。
カガリに知れる由もない。巨獣が迫る。矢を次々射掛ける。五、六、七……ついに箙の最後十本目を射ち果たした時、巨獣は何かをかなぐり捨てた。分からぬ。それでもカガリは、先じて拾ったカッシャラの枯れ枝を覚えていた。弦に力いっぱい引きかけて鋭い枝を射ち放つ。
古茎のか細い音色が空を切る――枝が、刺さった。
「しめたか」
たたらを踏んだ巨獣にカガリは二刀を剥いて飛び掛かる。瘴気のにおい。毛堕物だ。宙で柄を逆刃に持ち替え、蟷螂がごとく袈裟懸けに肉を刈り落とす。頸の筋を断ち切った。
カガリの狩りは、行われた。
『吾は知っとるぞ、この毛堕物。関打ノ山を治めていたシコミノ尉という神ぞ』
「神なら言葉が通じるはずだ」
『こやつは瘴気を身に入れすぎた。よほど欲に抗おうとしたらしい』
カガリは狩った獲物に留め刺しをして、キノ主典の言葉を聞き返す。
「欲に抗おうとした」
『人間の放つ瘴気を吸うと毛堕物と化す。しかし人間に報いるためには、神の貴位を捨てねばならない』
キノ主典は自分の前脚を舐めまわしている。
「神が神と祀られた由縁を棄てるためか」
『左様』
元来、神とは荒れ狂う者を示す。人間の手に負えない強大な力を誇る……それを鎮め、その者が持つ力の験にあやかるべく祀り上げられ生まれた呼び名が神である。森羅を統べる秩序の維持者とは、神と呼ばれる存在をあやして縛る不文律と言ってもよいだろう。そんな事をヒドラノ尉が語っていたのを思い出す。
「ならばこのシコミノ尉という神は、その悪鬼共に挑むため斯様な態に」
巨獣の正体は、熊に見紛う体躯の狸だった。矢を弾いたのは亀甲である。そしてカガリが放った十一本目のカッシャラの矢は、狸の頸に命中していた。
(私の矢を十本まで数えていたのか)
途端に首裏を冷たい舌で舐められたようだった。もしも枯茎を矢に選ばなければ、狩られる側は分からなかった。これも神の気まぐれ一つと言った所か。表情には出さぬよう、カガリは刀で狸の左眼をほじくった。
『因果よのう』
転げ出たのは色も無く透き通っている、小さな勾玉。榊の葉に似た模様がある。それはちょうどカガリが両耳に提げる飾りとまったく同じものである。
「なにがだ」
ごろりとキノ主典は寝転んで腹を空にさらけ出した。後背の毛が燐光をまとって潰れた草に映っている。
『神とヒト。秩序を保つ役目の者を窮させて、喘いだ末が、秩序の者に狩り獲られ……いずれ其方も選ばれる時が来るやもしれんな。その時に神と名乗る者からのう』
「私は神でも人間でもない。今はただの、カガリだよ」
『はて、な』
キノ主典が身を起こすと目元をかいて、小首をかしげた。
『其方は何を欲しておるのだ』
思惟の片さえ見せることなく、そのヒト、カガリは言った。
「私の欲だ」
ヒドラノ尉が亡き今、己を繋ぐ楔は消えた。行く当てもなく荒れた大和を彷徨っているに他ならない。護るべき存在はなく、仇となすべき敵もなく。望みと言えばカガリが主と過ごした故郷の森が侵されぬ術を探すこと。
それ以外にカガリの標となる物はない。
『虚ろなヒトが神を殺して勾玉を愛づ。よろし、よろしぞ」
「なにをするっ」
不意にキノ主典がカガリの方に跳び乗った。
『やれ、くさめを絶やさぬヒトのため、神が暖をくれてやるのだ。あやかれ』
狐の姿をした神が首に巻き付いてきた。首元で動かれてカガリは悶えたがったものの、やがて毛皮の温かさを受け入れた。
「お前も来るのか。お前はこの原の神ではないのか」
『誰も拝まぬ神なぞ、居らぬと同じじゃ』
「疫病神にはならないどくれよ」
『それは其方の因果次第』
「いつでも切れる」
『おもしろい』
カガリは野草の茂る平原を行く。有明の月はいつしか消え失せ、黎明の空が染まり始めた。山の向こうで陽が昇りつつある。風はやや冷たく、足下の草を波打たせている。瘴気のにおいはいつの間にか遠のいていた。
これはまだ、この世に神がいた日の物語。