ママンの恋人(三十と一夜の短篇第76回)
いつものように教会付属の教室で勉強を終えて、マリー゠アンヌは母マリー゠フランソワーズの働く洋裁店に向かった。マリー゠アンヌは母と二人で生活している。手に職を付けるだけでなく、ある程度の学も無ければ世の中渡っていけない、と母は口にする。娘も父がいない所為もあって母の考えに従って、教室で読み書きと計算を学び、そのあとは——級友と遊ぶ日もあったが――大概は母の勤める店に行って一緒に働いた。
洋裁店の裏口に、見知らぬ男性と母がいた。二人は話をしていて、なにやら母は困っているようだ。
「どうか私が浮ついた気持ちで言っているのではないと判って欲しい」
「何度言われようとも困ります。わたしは貴方とお付き合いする気は無いんです。わたしを幾つだと思っているんですか? 貴族のお坊ちゃんが巴里で破目を外したいのなら、こんな年増に声を掛けなくてもいいでしょう?」
「年齢は関係ないと申し上げている」
黒い髪の男性は二十代の前半か半ばくらいなのだろうか。母よりも年齢は下らしい。
「ママン、その人は誰なの?」
二人はマリー゠アンヌに視線を向けた。マリー゠アンヌは男性が青い目をした端正な容貌をしていると知った。教室の仲間や町内の大人たちにもこんな感じの男性はいない。姿勢のいい長身の男性はいぶかし気にマリー゠アンヌを見下ろした。マリー゠アンヌは品の良さを感じさせる未知の男性をただ眺める。
丁度いい、と母はマリー゠アンヌを引き寄せ、肩に手を乗せた。
「いいですか、ムシュウ・リンデンバー。この子は私の娘です。十三歳になります」
母の指が肩を強く食い込む。状況が呑み込めないまま、マリー゠アンヌは母を見た。
「この人、どなたなの?」
娘の存在に怯んだようだが、男性はすぐに気を取り直した。
「こんにちは。初めまして、お嬢さん。私はベルンハルト・フォン・リンデンバウムと申します。貴女の母君とお近付きになりたくて、申し込んでおりました。ですが母君は承諾してくださらないのです」
説明されても頭にすんなり入ってこない。
「それってママンに、あなたが?」
「ああ、もう!」
苛立たし気に母が遮った。
「ムシュウ、リンデンバーかリンデンバウムか知りませんが、わたしはドイツ語が判りません。貴方が何を言おうと意味が判りません。
わたしは貴方の遊び相手をしている暇はないんです。何せ自分と娘の食い扶持を稼がなくてはならないんです。忙しいんです」
母の剣幕か、話の内容にか、通行人が立ち止まってこちらを見て、好奇心を露わにしながら立ち去った。母が気まずそうに口に手を当てた。
二人の事情そっちのけでマリー゠アンヌはリンデンバウムと名乗る男性を見詰め、気にしていなかった。
「お仕事の邪魔をして大変申し訳ない。しかし、自分の想いを伝えずにいられなかったのです」
「もうお帰りください」
「貴女を困らせるつもりはありませんでした。今日は帰ります。
私の気持ちが真実であると伝える為にまた来ます。今度はお店が終わる時間に」
母は諾とも否とも返事をしなかった。
マリー゠アンヌは母と洋裁店の作業室に入った。同僚たちが興味津々で待ち受けていて、母は矢継ぎ早に質問を受けた。
「ねえ、どうだったの。若い男から言い寄られるだなんて、あんたもまだ捨てたもんじゃないわよ」
はあ、あの男性は母が好きなのか、とマリー゠アンヌはぼんやりと聞いている。
「断ったわよ。丁度アンヌも来たから、娘ですって言ってやったわ。驚いていたからきっと諦めるわよ」
「勿体なかったんじゃないの?」
「真逆、冗談を言わないでよ」
母はリンデンバウムと名乗る男性についてずっと不満を漏らし続けた。曰く、ドイツかどこかの国の貴族のボンボンが巴里でお気楽に画家の真似事をしている、仕事をしている女を珍しがってからかっている、と次から次へと言葉が出てくる。
――寒い国の出身か。道理で背が高い。貴族の出身なら上品そうな印象ももっともだ。
「マリー゠アンヌ、ちっとも針を動かしていない」
はっと手元を見る。頼まれた裾の仕上げが全く進んでいない。
「そりゃあ突然母親に言い寄ってくる男がいるのを見たら、子どもは誰だってびっくり仰天するわ。でもあんたのお母さんだってまだまだ女盛り」
母はふざけないでと、同僚に渋い顔をしてみせた。
「また来るって言ってなかった?」
「言ってたけど、こんな大きな娘がいると判ったからもう来ない」
「来ないならそれでいいじゃない。いつまでもあの旦那のことを言っているのは幾らか気になっているからでしょう?」
「違うわ」
「そう? ならいいけど、マリー゠フランソワーズ、袖が違う所に縫い付けられている」
母は慌てて布地を確認して、間違って縫ったと糸を切った。
「気が付いていたのならもっと早く言ってくれてもいいじゃない」
今気付いたの、と同僚は片目をつぶった。
「ママン、さっき来ていた人は画家なの?」
せわしく手を動かす母は、うるさそうに答えた。
「そうよ。自称画家。どんな人だか知れたものじゃない。また来たとしても相手にしちゃいけませんよ」
「あんたに脈がないと、若い方に乗り換えられちゃったら堪ったもんじゃないしね」
「それこそお針子を口説いて遊ぼうとするロクデナシの証拠よ」
娘に母の心境は読み切れない。母は撥ねつけていたが、満更ではないと内心考えているのではないか? 大きくなったら母に似て綺麗になると小さい頃から言われてきた自分を見て、あの男性はどう思ったかしら? 目当ての女性に十代の子どもがいると知ってがっかりしただろうか、それとも構わないとまたやって来るだろうか、マリー゠アンヌはそんな雑念が頭から離れない。
「ねえねえ、またリンデンバーって人が来たら、ママンは断るの?」
「断るに決まっています。年増だからって小金を貯めていると決めつけられたら嫌だもの。
いい? 男の人ってのは女をおだてて口説くものって思っているんだから、一々言ってくることを本気にしていちゃいけないの」
「あの人は悪い人なの?
絵が上手なら服の意匠を描く骨を教えてもらえるかしら?」
同僚は吹き出し、母は酢を飲んだみたいに顔をしかめた。
「もうムシュウ・リンデンバーの話はしないでちょうだい。こっちが断っているのにまた来てしつこくしてきたら、悪い人に決まってる。
さあ、黙って手を動かして」
引き抜いた糸を針に通し直して布地を伸ばし、母は針を動かし始めた。
革命や戦争を経て、一度追われたブルボン家の王様がフランスに戻り、ごたごたがあって今度はブルボン家の分家からでた王様が国を治める時代。目まぐるしく時世が変わるが、巴里は人の集まる場所だ。マリー゠アンヌの母は小娘の年頃に地方から巴里に出てきた。外国からだって巴里は憧れの地。遠い異国の地からでも芸術で身を立てたいと出てくる人間は大勢いる。血縁地縁の目がないと開放的になって、野放図な生活を送る輩も当然いるだろう。だが、マリー゠アンヌにはリンデンバウムが不誠実な遊び人に見えなかった。また会えるかも知れない、そう思うと、不思議と心が躍った。
翌週、リンデンバウムが再び姿を現した。母はなるべく丁寧な言葉を使って断り、追い返そうとしたが、男は諦めない。マリー゠アンヌは横で自分が口説かれているような気分ではらはらしながら見ていた。真剣な表情に嘘はないように思われたし、母からどんなに邪険にされようと声を荒らげることなく、礼儀正しく接してくる。断られても来るのは礼儀正しくないのかも知れないが、とにかくリンデンバウムが母に恋しているのは本当のようだ。
「わたしはもう三十を過ぎているの」
と母は聞き分けのない悪戯小僧に諭すかのようだ。
「年齢なんて関係ない」
「そのうちお国にお帰りになるんでしょう? そこでご立派な令嬢と結婚なさるんでしょう? その前に巴里のお針子と火遊びしようだなんていい気になっているんじゃありませんか?」
「私に帰る家はない。絵で食べていくと決めたんだ。まだまだ大して稼げる身ではないが、貴女に対しての気持ちを抑えられない。どうか私の話を聞いて欲しい」
「それでわたしが貴方にほだされるとお思い?」
「貴女に私がどんな人間か知って欲しいのです」
根負けして母は話を聞いた。零落した貴族の長男で、家名を継がないと飛び出してきた、画家として認められる為に努力している、絵を気に入って買ってくれる人が出てくるようになったと身の上を語り、物怖じしない姿に心打たれたとマリー゠フランソワーズとの出会いでの感動を切々と訴えた。辛い境遇に挫けず、瑞々しさを失っていない、お嬢さんの健やかな成長を見て、ますます素晴らしい女性だと感じ入ったと、美しいフランス語で褒めたたえた。
母の返事は素っ気無かった。
「あまりに壮大なお話で、どう受け止めたらいいか判らないわ。
疲れたから今日は帰ってください」
リンデンバウムは、ではまた、とすごすごと去った。
マリー゠フランソワーズとリンデンバウムのどちらが先に気が変わるか、洋裁店で賭けでもしようかとからかいのタネにされた。振られても懲りずに会いに来る男性が可哀想、わたしがもらってもいいかと言い出して、やって来たリンデンバウムに微笑みかけてわざとらしく科をつくるお針子がいたが、見事に無視された。
「貴女にご迷惑をお掛けするのは本意ではありません。しかし一度湧き上がった恋情を簡単に捨て去れません。
せめて離れた場所から貴女を眺めることをお許しください」
紳士らしいのか未練がましいのか、リンデンバウムは一旦引き下がった。それで母が安心したかと思えばそうでもないような気もする。招かざる客の訪問が、なければないで母は退屈そうだ。店の前を通り掛かって覗き込み、マリー゠フランソワーズを認めると満足気に通り過ぎていくリンデンバウムの姿は日常と化していると言っていい。言葉通りに眺めるだけの男に、母はつんと他所を向くこともあれば、軽く会釈を返すこともある。
リンデンバウムを見掛けて気持ちが弾むのは母よりもわたしの方なんだけど、あの人は気付いてくれないのかな? そんな寂しさを覚えてマリー゠アンヌは自分に驚き、胸の内を探った。
――あの人は背が高くて素敵な男の人。たとえドイツに帰ってしまうにしても、人を好きになるのは自然な心の動きじゃない。それにママンはあの人の気持ちに応える気がないんだから、わたしが好きになって悪いはずない。
聖母被昇天祭の前に、リンデンバウムが裏口から声を掛けてきて、マリー゠アンヌはすぐに側に寄って挨拶をした。彼の女に挨拶を返すと、リンデンバウムが沙漠で水源を見付けた旅人さながら、喜びを露わにしてマリー゠フランソワーズに向かい、当てが外れた。娘が歓迎してくれたなら、本命はきっと、と、取ったのだろうが、そうはいかない。
「仕上げなければならない仕事があって忙しいんです。邪魔しないで」
マリー゠フランソワーズのにべもない返事にリンデンバウムは萎れた。やさしい言葉を掛けておけば印象に残るかと、マリー゠アンヌはにこにこと話し掛けた。
「母がきつくてごめんなさい。わたしでよければ少しお喋りしませんか? 気分が変わるかも知れませんよ」
リンデンバウムはじっとマリー゠アンヌを見詰めた。マリー゠アンヌは頬が熱くなるのを自覚した。
――わたしはもう十三歳、もうじき十四歳になる。大人の扱いだってされるようになった。この人だって断り続ける母よりも、若いわたしが好きになった方が喜ぶはず。
そう思って精一杯の笑顔を作った。しかし、願う通りにならないのが世の常らしい。
「有難う、お嬢さん。でも私がお話ししたい女性は貴女ではありません。貴女のお母様です。
お祭りのお菓子を多く買いましたからお裾分けでもと立ち寄りました。
今日の所は帰ります。また今度」
いつもの粘り強さはどこへやら。マリー゠アンヌにお菓子と小さな花束を渡すとリンデンバウムはあっさりと帰っていった。
マリー゠アンヌは母からこっぴどく叱られた。
「相手にしちゃ駄目だって言っているでしょう?」
「ママンにその気が無いのなら、少しくらい話してみたっていいじゃない? それともママン、あの人を取られると思ったの?」
マリー゠フランソワーズの表情が余計険しくなった。
「あなたはまだ子どもです」
「早く一人前になれと言うくせに、そんなこと言わなくていいじゃない!」
「仕事をするのと誰かと付き合ってみようっていうのは違う話よ」
自分の気持ちを何もかも正直に親に話してしまうほどマリー゠アンヌは子どもでなくなった。唇を尖らせつつ、自分の行動について弁解できない。
それから一月ばかりリンデンバウムは洋裁店に現れなかった。外は秋の気配に包まれ、待ち人来らずの風情にマダムや同僚のお針子たちは声を掛ける。
「遂に見限られたね」
「冷たくするから」
「少しは情のある所を見せないと」
母は敢えて言い返さない。
自宅に帰ってから、平気なのかとか、本当はどう思っているのかとか、マリー゠アンヌは母に問いを浴びせ掛けた。母ははぐらかし、娘にも心の内を明かしてくれなかった。
仕事が終わり、道具を片付けていると、裏口に来客がいると母に告げられた。耳打ちされて母は一瞬泣きそうだった。感情を押し隠すようにして、なかなか動かない。マリー゠アンヌはさっと先に立って裏口に向かった。
「今晩は、ムシュウ・リンデンバー」
現れたのが娘で、リンデンバウムは驚いたようだった。喜ぶ様子もない男性に失望しながら、それでもマリー゠アンヌは微笑みかけた。
「お久し振りです。母は今片付けをしています」
「お嬢さん、お久し振り。お母様はお元気ですか?」
一通りの挨拶を済ますと、リンデンバウムはもう奥の方に視線を送り、マリー゠フランソワーズの姿を探している。
ぱっとリンデンバウムの瞳が輝いた。
「マダム・ド・ラ・ヴァリエール、お久し振りです」
「お久し振り、ムシュウ。しばらくいらっしゃらないから新しく恋人ができたのかしらと思っていました」
「とんでもない。大きな仕事をいただいて、依頼先に行ったきりになっていて、こちらに来れなかったのです。
少しは再会を喜んでいただけるでしょうか?」
「そうね、娘も一緒で良ければ、夕食をどこかで食べていきませんか?」
母の答えにリンデンバウムは喜色満面、母の手を握り締めんばかりだった。
「ええ、ええ! まとまった金額が手に入りましたから、ご馳走します」
どうした風の吹き回しか、マリー゠アンヌは母の言葉に驚き、リンデンバウムの反応にも胸にひびが入るくらいの痛みを感じた。
こうして三人で食堂に入った。娘の知らない所で二人は親しい会話をしたことがあるらしい。初めて耳にする事柄が話題に出てくる。絵の注文を受けた、ようやく陽の目をみられそうだと誇らしげにリンデンバウムは伝えた。
「以前に仰言っていた神話をモチーフにした絵ですか?」
「ええ、覚えていてくださったんですね」
「わたしも興味がありますから」
どこの神話のことだろう。そもそもそんな話、わたしは聞いていたかと、マリー゠アンヌは一生懸命に話題についていこうと肯く。
一方で母のマリー゠フランソワーズも自分の洋裁店を持つのが夢だと、恐れも汚れも知らない乙女のように語った。お店を持つ夢は母と娘の間の秘密だったはずではないか。
声を上げそうになり、言葉を飲んだ。もしかしたら大声を出しても聞こえないのではないか? 同じ卓に着いているのに娘は口を挟む隙がない。
――ママンはムシュウ・リンデンバウムと付き合うな、と娘に言っておいて、自分は断る気を失くしてしまったのかしら?
嘘つき! と大声で叫びたい。そしてリンデンバウムにこちらを向いてもらいたい。
でも叫べない。そんなことをしたらリンデンバウムから呆れられるだろう。みっともない所は見せたくない。
「ムシュウ・リンデンバウム。貴方とお話しているのがだんだん楽しくなってきて、不思議な気分なんです」
その言葉に、娘は嘆きで、男は喜びでマリー゠フランソワーズを見た。
「でも待ってください。まだ考える時間をください。貴方がわたしを愛してくださるように、貴方を愛しているか、自信がないんです。
貴方がご自身の夢を叶えようとしているのと同様、わたしも自分の夢を諦めたくないんです。この子の為にもしっかりとした形を残して受け継いでやりたい」
「ええ、勿論です。貴女の夢も私の夢も両方叶えていきましょう。
希望が見えれば待つのは辛くもなんともありません」
リンデンバウムは母の手を握り締めた。
呆気にとられる娘はすっかり置いてけぼりで、二人は見詰め合った。
母の心変わりを詰ろうにも、母のこれまでの苦労を知る身にはそれも辛い。母娘二人でいたわり合って生きてきた。いずれ大人になって独立していくであろう娘が、母が仕合せになろうとするのを邪魔して、この先どうなろう。気を引こうとするほかのお針子や年若いマリー゠アンヌに目もくれなかった男だ。きっと母と手を取り合って生きていけるのだろう。
マリー゠アンヌは初恋と呼ばれる感情が叶わず終わると覚り、切なさを噛みしめた。自分ではない女性との恋の成就に胸躍らせるリンデンバウムを見詰め、思い切るように目を瞑った。
その後母とリンデンバウムは娘抜きで会い、語り合うのが頻繁となり、やがて一緒に暮らすと決めた。
「ベルナール」
「フランツィ」
と呼び合う二人は見ていて恥ずかしい。一体、何語だ。
「わたし、ムシュウをなんて呼べばいいの? お父さんとかパパって呼ばなければいけないのかしら?」
生真面目に尋ねるマリー゠アンヌにリンデンバウムは可笑しそうに答えた。
「好きに呼んでくれていいよ」
そうはいかない。初恋の熱は冷めつつあるが、気持ちの上でのけじめは大切だ。継父となる男性に対する呼び掛けに馴れ馴れしさがあるのは良くない。
「ひとまずおじさんって呼ぶわ」
母は小さく笑って、それがいいわねと同意した。
「改めてよろしく我が娘、マリー゠アンヌ」
リンデンバウムは照れながら、威厳を出そうと胸を張った。
リンデンバウムから我が恋人と呼びかけられるのは母。その男と家族となる。いつか自然に父と呼び、接していけるようになるだろう。
あれから二十年以上が経った。王様はいなくなり、フランスには再び皇帝が現れた。マリー゠アンヌは母の年齢を上回った。結婚しないで産んだ娘ルイーズは当時の自分の年齢に近い。
リンデンバウムは画家として大成する夢を叶えられなかった。私生活での充実を手に入れたのも束の間、馬車での事故に巻き込まれて亡くなった。
母は悲しみに耐え、リンデンバウムが遺してくれた子どもとマリー゠アンヌと共に自分の夢を叶えた。
その店を継いで働きながら、マリー゠アンヌはふと思う。
我が娘ルイーズは大人でも子どもでもない年齢だ。本人は大人として振る舞おうとするし、周囲もそのように扱い始める。しかし知恵も経験も乏しい。体も成長しきっていない。やはり子どもの部分が多いように見える。母親と娘の間柄を抜きにしても、まだまだ幼く、危なっかしい言動に心配させられる。
あの時、大人になり切っていなかった自分にリンデンバウムが目を向け、手を差し伸べたとしたら、どうなっていただろう。母は男に対してだけでなく、娘にもふしだらと憤っただろう。移り気の結果として男はあっさり関心が薄れたろうし、母と娘の両方を傷付けたとして去らざるを得なかっただろう。人生は十代のきらめきだけで終わるものではない。その先の生も長い。成長しきらないうちに大きな傷を負うのはあまりにかなしい。
お針子たちの身の上話を聞けば、親兄弟の暴力、継父、親戚から性暴力にさらされる危険はどこにでもあるそうで、家庭が安息の場にならない例は少なくない。
――母は得難い男性に巡り会えた。でもあまりに素晴らしい人だったから神に召された。
その素晴らしい男性といっときでも家族として過し、マリー゠アンヌはリンデンバウムに感謝している。自分には叶わなかったが、異父妹と娘にはリンデンバウムのような男性との出会いに恵まれて欲しいと願ってやまない。