7.接触(下)
「この国の人たちは、自ら進んで国外への渡航を望まないよね。海の向こうは、危険な場所だと教えられているから」
それは本当。
だって、日の元は戦争のない、平和で豊かな国なのだ。
わざわざ危険を犯してまで国の外へ出る必要はない。
「周囲の海や空が荒れているのは、神々が国を守っているからとはよく言ったものだ」
須藤さんはそう吐き捨て、忌々しそうに上空を見上げた。
「俺からしてみれば、この国は天上の神が作り上げた牢獄でしかない」
「……牢獄」
「そう。楽園だとうそぶいて、民を押し込めた大きな箱庭だ」
それはない。日の元で生きるわたしたちは幸せなんだ……って。胸を張って否定できないのは、わたしに外つ国の知識が足りないからか。
赤兎班に預けられているこの立場を、仕方がないと割り切れず、心のどこかで不満を抱えているから?
だから、須藤さんの主張が正しいかもしれないと、迷ってしまうの……?
須藤さんと目が合う。彼の赤茶色の瞳の中に、混沌が見えた。
刹那、思考がぐちゃぐちゃに掻き乱される。
彼から目が離せない。それ以上覗いてはいけないとわかっていながら、欲求が制御できなくなる。
もっと……、彼のことを知りたい。
知って……わたしも協力しないと。
日の元の在り方は、歪んでいる。
義父の行いは間違っていない。
正義は義父の信念にある。
義父のために、わたしは一体何ができる……?
……くくっ、と。
須藤さんが喉の奥で笑った。
「揺れてるね」
「…………っ!」
彼の笑みに、底知れぬ不気味さが込み上げる。
全身がびくりと大きく跳ねて、思考が鮮明になっていく。
——わたしは今、何を考えていた?
「……へぇ」
目を見開いて動けなくなったわたしに、須藤さんは感心したような声を漏らした。
駄目だ。この人の言葉を間に受けてはいけない。
冷静になろうと首を振って、深い呼吸を繰り返す。
須藤さんは、決して正義感だけで動いているわけじゃない。
日の元の在り方を憂い、皇に対して強い憤りを覚えていたとしても。わたしの困惑を楽しむ一面だって、彼の本心なのだ。
それに……。この不快な不気味さは、昨夜感じた愉悦と同じ。
「……昨日の夜、見てたのは、あなた……?」
「すごいな。それもわかるんだ」
あっさりと認め、彼は嬉しそうに笑みを深める。
「……あなたは、何者なの」
「そこはあんまり考える必要がないよ。だけど、こわーい兎さんに俺のことを話したら、君のお母さんは無事じゃなくなるだろうね」
至極楽しそうに、彼は母を盾にした。
わたしの大切な人は、とっくに見抜かれている。
「……何が、目的なの?」
赤兎班の情報なんて、わたしは持っていない。
たとえ内情を探れと命じられても、あの人たちが重要なことを見せてくれるわけがない。
血の気が下がるわたしへと、須藤さんはひらひらと両手を振った。
「特に目的はないよ。君に何かしてほしいとも考えていない。ただ、朔ちゃんには奥園氏の信念を知っておいて欲しかっただけだ」
母のことをちらつかせておいて、何もないとは到底信じられない。
「まあ、俺のことは赤兎に伝えないでくれたら嬉しいかな。奥園氏にもしものことがあったら、お母さんも無事じゃ済まないのは、わかるでしょ?」
須藤さんは立ち上がり、服についた砂埃を払った。
「赤兎が皇を守るのは、変えることができない日の元の仕組みに起因している。もしも皇が民に苦役を強いる法律を作ったとしても、赤兎班は規律に従い皇を守り続けるだろう。そういう目的で作られた組織だから」
わたしは顔を伏せたまま、ちらりと須藤さんを盗み見た。彼の目は、怖くてとても直視できそうにない。
「信じられないかもしれないけど、ここはそういう国だよ。昔からずっと、変化に怯えて世界から取り残されてしまっている」
須藤さんが腰を曲げて顔を近づけてくる。
強張るわたしの肩に、彼は手を置いた。
「君はまだ、日の元のことを何も知らない」
そう、耳元で囁かれた。
じゃあね、と。
手を軽く振って、何事もなかったかのように須藤さんは去っていく。
心が落ち着きを取り戻す前に、昼休み終了五分前を知らせる鐘が鳴る。
空腹はいつの間にか消えていた。
急いでお弁当を食べる気には、到底なれなかった。
*
「おかえり。お疲れ様」
「お疲れ様、です。ありがとうございます」
帰りの迎えは雪根さんだけだった。
わたしが後部座席に乗り込むと、雪根さんの運転する車は走り出す。
東郷さんはどうしたのだろう。
赤兎班の人たちは基本的に二人組みで行動している。送迎時に相方がいないのは今日が初めてだった。
なんとなく隣の空席に目を向けた。
「アキなら今日は別の用事でいないよ」
「……そうですか」
後方を確認する鏡で雪根さんに見られていた。
急に恥ずかしくなって、視線を反対側の窓に移す。
雪根さんの空気はとても柔らかい。他の赤兎班の人たちと違い、警戒心からくる刺々しい感情が感じられなかった。
心を隠すのが上手いだけなのかもしれないけど、ぴりついた空気を作らない彼の近くでは自然と緊張が解れた。
「……雪根さんって、おいくつですか?」
「十八だけど、どうかしたの?」
「大した理由はありません。ただ、とてもお若いんだな、と」
まさかわたしとひとつ違いだとは思わなかった。
高校卒業後に働き出す人は多いけど、特別な訓練もなくすぐに鳳の赤兎班に所属できるものなのだろうか。
「ちなみにアキも歳は俺と同じ。班員としては俺より先輩だけど」
「アキ……東郷さんは、いつから赤兎班に」
「さあ。随分と前から宮城さんの下で働いてるらしいけど、俺も詳しくは聞いてないかな」
それは具体的にどれぐらいの年数なのだろう。東郷さんが現在十八歳なら、少なくとも高校生の時から赤兎班に所属していたことになる。
鳳をはじめとする国家機関は、高校卒業後に大学などで専門の課程を修了した人が所属するところだと勝手に考えていた。
鳳に属する、さらに言えば皇の守護者とされる赤兎の班員がそんな経歴で大丈夫なのか。
「うちに入るための条件は、少し特殊だからね」
驚くのも無理はないと雪根さんが苦笑する。
「これ以上はやめておこっか。こっちの事情には、あんまり深入りしない方がいいよ」
「そう、ですね」
わたしが赤兎班について詳しくなっても仕方がない。
誰かに期待されているわけでもないし。余計な情報を手にして取り返しのつかない事態に陥るのだけは避けたい。
そういう意味では、須藤さんがもたらした情報はわたしにとって余計なものだった。
義父に直接真実を確かめられない状況下で、義父の目的を他人に知らされたって、不安以外は何も手に入らないのだから。
須藤さんの愉しそうな笑顔を思い出す。
刺激と娯楽を求める彼の内に、使命感らしき志は微塵もなかった。あの男は、こうしてわたしを悩ませて遊んでいるのだ。
外つ国から来た、義父の協力者。
本当に……、彼はそれだけなのだろうか?
赤信号で車が停まる。
「学校で何かあったの?」
運転席にいる雪根さんが振り返って聞いてきた。
彼に迷いを悟られたくなくて、俯きスカートを握る自分の手を見つめた。
「……いいえ、何も」
言えない。
日の元の国民として、本来は外つ国から来たという須藤さんについて赤兎班に報告しなければいけない。
でも、母のことを思うとどうしても切り出せなかった。
「夜になれば、雪根さんたちは、また……」
追及されるのが怖くて話題を変えた。
「化け物を、殺すんですか?」
わたしは何を聞いているんだ。自分で言っておきながら後悔する。
質問の裏にある嫌味に、きっと彼は気付いた。
雪根さんは微かに眉を寄せて、運転席へと背中を預け直す。
信号が青に変わり、車は走り出した。
「……うん。仕事だからね。昨晩のことも、謝罪はできない」
走行中に彼が返した呟きには、あれは赤兎班の義務だからという開き直りはなくて。
寂しさとやり切れなさの滲む声色に、わたしは唇を噛み締めた。
*
本部に戻り階段で雪根さんと別れたあと、部屋に戻らず食堂へと足を進めた。
食堂は一階の奥まったところにあって、室内には長方形の大きな机が二つ設置されている。いつも清潔に保たれているものの、ここで食事をしている人を未だに見たことがない。
食堂を抜けたさらに奥は厨房となっていて、この時間帯、花歩さんはいつもそこで夕食の準備をしている。
学校から赤兎本部へ戻ると、部屋へ行く前に厨房へ立ち寄るのがいつもの流れである。今日も食堂の引き戸を横に滑らせて中へ入ろうとした。
「ああ? なんの用だ」
不機嫌な声に、踏み出した足が止まる。
人がいないと勝手に決めつけていた食堂には、先客がいた。
厨房の扉に最も近い席に座る東郷さんが、頬杖をつきながらこちらを睨んでくる。
この人、用事で不在なんじゃなかったの。
「……花歩さんは、いらっしゃいますか」
花歩さんは奥の厨房で作業中だとわかっているけど、ここに来た目的を伝える意味でひとまず彼に聞いてみる。
わたしの会いたい人は花歩さんであって、東郷さんじゃない。
早急に用を済ませてここを離れたかった。
「はーい。少しだけ待ってー」
壁に空いた食器の返却口から花歩さんの声が聞こえてきた。
わたしの言葉が厨房にも届いたようで、ほっと胸を撫で下ろす。
「辛気臭いな。初めて会った時の威勢はどうした」
「……その節は、大変申し訳ございませんでした」
「不満丸出しの謝罪なんざいらねえんだよ。悪いと思ってないなら謝るな」
無茶言わないでよ。
東郷さんが赤兎班の班員だと知ってしまったにも関わらず、強気でいられるほどわたしは図太くない。
むしろわたしが奥園の人間だと知ったのに、こんな突っかかり方をしてくる東郷さんの方がどうかしている。
敵愾心とまではいかなくても、もっとこう、精神的に距離を取って警戒するとか。そういう態度が普通なんじゃないの。
花歩さんもそうだけど。この人や雪根さんも。
彼らといると奥園としての立場を忘れそうになってしまって、調子が狂う。
「黙ってないで、少しは言い返したらどうなんだ」
「もう。いじめちゃだめでしょ」
厨房に通じる扉から、花歩さんが出てきた。
咎められた東郷さんはバツが悪そうにそっぽを向いた。
そんな東郷さんの頭を軽く叩いて、花歩さんは入り口付近で佇むわたしへと歩み寄る。
「朔ちゃん、おかえりなさい」
「ただいま、戻りました。……すみません。今日の夕飯は、わたしの分は作らなくて大丈夫です」
そう。ここに来た目的は花歩さんにこれを伝えるためだ。
食材の仕込みに間に合っていたらいいのだけど。
「どうしたの? お腹痛い?」
心配してくれるのが申し訳なくて、慌てて否定する。
「いえ、そういうわけでは。今日、時間がなくて昼食を食べられなかったので……、お弁当を夕飯にしようと思うんです」
花歩さんの表情が和らぐ。心の底から安心したと言わんばかりの、そんな顔だ。
彼女は本当に、裏表がない。
「だったら朔ちゃん、今お腹空いているでしょう。お弁当、ここで温めてあげるから少しだけでも食べていきなさい」
「いえ、流石にそれは」
手間もかかるし、この時間にお弁当を完食してしまったら夕飯が食べられなくなる。
「好きなおかずだけ摘んで後は残していいのよ。ちょうど空きっ腹で食べ物をねだりに来ている人が、ここにいるから。残りは彼がたいらげてくれるわ。ね?」
花歩さんが東郷さんへ振り返って声をかける。
東郷さんはわたしたちをちらりと横目で見た後、面白くなさそうに視線を逸らした。
花歩さんは東郷さんの態度を全く気にせず、わたしへと向き直る。
「朔ちゃんもお昼が食べれなかったんじゃ、お腹空いているでしょ。お夕飯までにもう少し時間もあるから。さあ、鞄からお弁当を出して」
お腹は、正直なところ空いている。
須藤さんと話していた際はそれどころではなかった。だけど午後からの授業では、昼休みにお弁当を食べなかったことを後悔していた。
空腹を感じられるということは、それだけわたしの心にはまだ余裕がある。
そう言い聞かせて自分を慰めていたけれど、それで腹が満たされるはずもない。
花歩さんの決定事項とも言える提案は、とてもありがたかった。
お皿に移し、温め直されたお弁当の卵焼きを一切れもらう。小皿の上で箸を使って一口の大きさにして、口へと運ぶ。
出汁が効いた程よい塩気が美味しい。柔らかい卵焼きを咀嚼して飲み込んだ。
温かい料理がじんわりと染みる。
わたしがそうやって味わいながら食べているうちに、かつてお弁当だったおかずたちは次々と東郷さんの胃の中に収まっていった。
全く遠慮のない食べ方だ。
ほうれん草のおひたしを摘んでいる間に、彼は茶碗に移されたご飯をぺろりとたいらげてしまう。
それ……、わたしのお弁当なのに……。
「なんだよ」
「……別に」
これだけじゃ全然足りない。
少ない食事が呼び水となり、むしろ空腹に拍車がかかってしまったんじゃないだろうか。
仕方がない。夕飯までの我慢だ。楽しみができたことにして、自分を納得させた。
東郷さんの食べっぷりは容赦がなかった。花歩さんは食べ物をねだりに来たって言っていたけど、この人もお昼を食べ損ねたのかな。
東郷さんは用事でどこかに行っているはずじゃなかったの。雪根さんも帰ってきているのに、ここで休んでいていいのか。
そもそもの話、赤兎班はわたしの送迎なんかに、人員を二人も費やしているのがおかしいと思う。
助けてくれる人はいない、逃げる当てもない、捨て駒とされた者に、そこまで警戒する必要はないでしょうに。
「なんだよ。文句があるなら口で言ったらどうだ」
心が荒んでいく様が顔に出ていたのか、東郷さんが不快そうに睨んでくる。
別に……、伝えるほどのことでもないし、わたしが赤兎班のやり方に文句を言えるはずがない。
いつもならなんでもないと言って誤魔化すのだろうけど、今日のわたしは珍しく違う方向に口が動いた。
食べ物の恨みは、自分で自覚していたよりも根深かったようだ。
「……いえ。ただ東郷さんは、今日はいないものだと思っていたので」
嫌味とも取れる口調。
昼間のわたしには珍しく、強気になってしまった。
東郷さんが一瞬驚いたように目を開き、すぐにむすっと閉口する。怒らせてしまったか。
どんな苦言でも受け止める覚悟はあった。
しかし、身構えるわたしに彼が告げたのは意外な言葉だった。
「その呼び方はやめろ」
「……呼び方?」
彼が気分を害した点はそこなのか。
予想していなかった方向に話が飛んで、思考が一時停止する。
「そう言われましても」
この人を東郷さん以外にどう呼べと?
「アキでも明将でもなんでもいい。わかったなら今後は俺を家名で呼ぶんじゃねえ」
「あらでも、宮城さんは普通に東郷って呼んでいるじゃない」
面白そうに言いながら、花歩さんが急須のお茶を入れてくれる。
湯気のたつ湯飲みを差し出された彼は、ぶすっとむくれながらも花歩さんから受け取った。
「上司にこんな要求できるわけないだろ」
吐き捨てた彼がじっとわたしを見てくる。
「お前は奥園と呼ばれたいか?」
迷わず首を横に振った。
本当は馴染まないといけない。わかってはいても、奥園の家名には未だに慣れない。
わたしと全く同じってわけではないと思うけど、彼もまた自分の家との間に、しがらみを抱えているってことなのかな。
……ああ、そういうことか。
彼の問いかけには、提案が含まれているんだ。
「——明将、さん。でいいんでしょうか」
緊張しながら、その名前を呼んでみる。
わたしの意図の汲み取り方は正しかったようで、彼は人が悪そうな笑みを浮かべてみせた。
「ああそれでいい。朔が融通の聞かない頑固者じゃなくて助かった」
……朔と。
呼ばれた名前が何度も脳内で繰り返される。
なんとなく。
彼の示したわたしの名前は、ユウやミィたちがわたしを呼ぶ時と同じような響きが感じられた。
奥園の娘ではなく、わたし自身の呼称としての「朔」だった。
気恥ずかしさを隠すため、温かい湯飲みを両手で持ってお茶を啜る。
胸のあたりがほんのりと暖かくなった。
そっか、……わたしは嬉しいんだ。
そういえば花歩さんが呼んでくれる「朔ちゃん」の響きにも、奥園のかけらは感じられない。
もしかしたらわたしが気づいていなかっただけで、ずっとこの人たちの優しさに触れていたのかもしれない。
今日、夕方の食堂で。
花歩さんと明将さんと、他愛のない会話ができた。
ほんの少し、二人と親しくなれた気がした。