【終章】
かつては多くの参拝者が訪れた、小高い山の上の御社。
この地に一般の人の出入りが途絶えて久しい。
参拝者の来ない御社に華闇総本山よりわたしが派遣されているのは、土地守りの名目ではなく、この場所の管理者としての役目を与えられてのことだった。
それと……、度々華闇に無理難題を押し付けてくる、鳳・赤兎班の要請に中央霊山より先立って応えるのもここの仕事になっている。
他にも人の立ち入りが禁止されたこの御社は、華闇から様々な特例的役割が与えられていた。
境内の奥、居住区に設けられた暗い部屋で、黒い焼き物の大皿に水を注ぎ、中央に藍色の守玉を沈める。
波紋が消えたのを見届けて数歩下がり、胸の下で合掌して深く頭を下げた。
ここは闇泉の代わりを成す、深淵の神々を祀る仮の場所だ。
とはいえ日に二度大皿に汲んできた地下水を交換し、どれだけ守玉に力を込めても、闇の濃さは本物の闇泉には遠く及ばない。
頭を上げてゆっくりと後退り、後ろ手に戸を開けて部屋を後にした。
夕方の西日が差し込む廊下を歩いていると、大窓の外、縁側で寛ぐ獣を見つけた。
大型犬をゆうに上回る大きな体躯に、三角の獣耳。そしてふさふさの尻尾がふたつ。額には尖った角がある、真っ黒な毛をした妖だ。
「朧さん」
窓を開けると、彼は閉じていた目を開いた。
「そろそろ夕飯の支度をしますので、母を呼んできてはいただけませんか」
朧さんは緩慢な動きで立ち上がると、縁側へと飛び降りる。
地面に着地するときにはもう、彼は着物姿の男性へと姿を変えていた。
朧さんたちは自らの立ち位置を妖とし、人の社会で、人に化けて生きている。
そんな彼らの多くは、均衡を崩し道を外してしまった人を狩ることを生業としていた。
祓い屋と呼ばれる彼らの秘密を知ったのは、中央霊山へ赴いてからだ。
一般人が立ち入らないこの御社は、祓い屋たちの拠点にもなっていた。
街から離れた静かな場所は居心地が良いらしく、そのまま住み着いてしまった人もいて、朧さんもそんなひとりだった。
特に夫が不在の時は、祓い屋の人が必ずひとりは御社にいるように頭目が計らってくれているので、わたしにとっても彼らの存在は心強かった。
御社の最奥——闇泉へと進む朧さんの後ろ姿を見送り、窓を閉めた。
闇泉では母が毎日、穢れの浄化にあたっていた。
それが華闇より母に与えられた罰で、闇泉が再び深淵と繋がったときに母の償いは終わる。
夕飯の献立を考えながら台所に入ったちょうどその時、御社の結界に揺れを感じた。
疲れを感じさせない足取りで石階段を登ってくる、——人の気配だ。
自然と笑みがこぼれ、きびすを返して廊下へと戻った。
「ただいま!」
「お帰りなさい、律さん」
玄関で出迎えたら、夫にぎゅっと抱きしめられた。
何年経っても彼の愛情表現は変わらない。そして、わたしが彼を愛しいと思う気持ちも。
夫の背中に手を回すと、彼の腕の力が強まった。
「もうやだよ。なんであの人あんなに人使い荒いの」
愚痴には苦笑を禁じ得ない。
人手不足だからと駆り出された赤兎班で、夫はどうやら今日も宮城様にこき使われたらしい。
「俺は朔の護り手だよ? なのに宮城さんはいつもいつも……」
文句の止まらない夫に、今日は彼の好物を食卓に並べようと密かに決める。
闇泉より近づいてきた朧さんと母の気配が一度止まり、裏口へ回ったのを感じた。どうやら気を遣ってくれたようだ。
「お疲れ様です。夕飯までゆっくり休んでください」
「今から準備? だったら手伝うよ」
外の仕事は嫌がるのに、夫は家の中だと働き者になる。
「母もおりますので、こちらは大丈夫ですよ。……ではひと息ついてからで構いませんので、お風呂の用意をお願いできますか?」
「ん、わかった。ご飯楽しみにしてるね」
額を合わせてから、抱擁を解いて口づけを交わす。
じきに穏やかで、優しい夜がくる。
あなたに、ひとときのやすらぎを。
◇ ◇ ◇
目を覚ますと、真っ白な部屋にいた。
ここがどこなのか。
どうして自分がここにいるのか。
手がかりを探すために記憶を掘り起こそうとして、わたしは何も覚えてないことに気がついた。
この場所だけじゃなくて、自分のことも。
わたしの名前すら……。
頭が重くて持ち上げられず、きょろきょろと目を動かし周りを見ていると、部屋の扉が開いた。
入ってきた男性と目が合う。
彼は驚きに目を見開き、こちらへ駆け寄ってきた。
「……おはよう」
泣きそうな笑顔でそう言われた。
どうしてかわからないけど、胸がきゅっと締め付けられた。
あなたは、誰?
わたしは……?
質問をしたいのに、口を開いても上手く声が出ない。
彼がわたしの手を握る。とても暖かい。
たったそれだけで、目に涙が滲んだ。
「——花歩。忘れただろうが、お前の名前だ」
……かほ。
その響きはとても懐かしく、すんなりと自分に馴染んだ。
わたしの涙を指でぬぐい、彼は壁に設置された装置の釦を押した。
間をおかずに女性がきて、彼と二言ほど話すとすぐに部屋を出ていった。
ばたばたと周囲が騒がしくなり、入室してきた壮年の男性に、彼はわたしの近くという場所を譲った。
「花歩さん、お加減はいかがですか?」
白衣を着た男性に話しかけられても、視線は彼を追ってしまう。
行かないでほしい。手を伸ばしたいのに、体が思うように動かない。
わたしのすがるような眼差しに気づいた彼がふっと笑う。
「診察してもらうだけだ。俺はどこにも行かない」
その言葉に安心して、白衣の男性を見上げた。
しかし男性の言葉はあまり頭に入らず、ずっと彼のことが気になって仕方がなかった。
わたしは花歩で……、彼の名前はなんだろう。
聞いたらちゃんと、教えてくれるかしら——?
◇ ◇ ◇
◇ ◇ ◇
どれだけの年月が過ぎようと、俺はお前を愛し続ける。
何度忘れられたとしても、俺は必ず、お前に愛されてみせる。
◇ ◇ ◇
『月の下で待っている』これにて完結です。
ありがとうございました。




