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30.月の下で待っている(上)



地上の光が眩しすぎるという、


君の陰になりたかった。







目を開けていられないほど、鋭い光に向かって走る。



走って、走って……。




息を切らせて地上へとたどり着く。




そこはわたしの知らない、夜の公園だった。







      *






雲ひとつない夜空に大きな満月が浮かぶ。


汗ばんだ手は、五本指の人の手に戻っていた。

毛のない肌を風が撫でる。冷たさは感じない。

外気の温度と植木のあちこちで響く虫の音が、今の季節が冬でないことを伝えてくれた。

わたしの着ている分厚い生地の外套は、明らかに時期はずれだ。


深淵にいる間も地上の時間は流れる。

当たり前のはずなのに、世界に置き去りにされたような寂しさに襲われた。


じっとしてると目が慣れてきた。

頭上の月の光によって、点在する遊具がぼんやりと見えた。




ここはどこなのだろう?



これからどこへ向かおうか?



地上に戻れても、これといってしたいことはない。


ひとまず周囲を把握しようと、意識を外へ向けるもうまくいかない。


地上での気配の探り方がなかなか思い出せず、耳元に手を当て集中しようとした。——その時。


がさり……、と。探知するまでもなく背後に足音を聞き、驚きに息を呑んだ。

緊張で体が硬直する。



「…………朔?」



記憶に深く刻まれた声が、わたしの名前を呼んだ。


無意識に両手が下がる。



……うそ。そんな都合のいいことあり得ない。


ここに、彼がいるはずないのに……。



信じられない気持ちで目を見開くわたしに、再び声が届く。



「——朔、だよね?」



呼びかけに、恐る恐る振り返った。


何度も聞いた声。背格好。近くに感じた気配。

全てが否定の気持ちを打ち消して、目の前の彼を証明する。



「…………雪根さん?」



どうしてここに? という言葉は続かなかった。


弾かれたように駆け出した彼が、勢いのままわたしを抱きしめる。



「……よかった。あってた……。……よかった」



ぎゅうぎゅうと腕に力を込め、雪根さんは何度も「よかった」「あってたんだ」と繰り返した。


鼻をすするのは、わたしか、雪根さんか。


込み上げる気持ちが抑えられないのは、彼もわたしも同じだった。


どちらともなく嗚咽が漏れる。


衝動を我慢しきれず、あれだけ離れようとしていた彼の背中に、わたしは自ら手を回した。



「……っ、……雪根さんっ」



雪根さんの腕の力が強くなる。



「……朔が、好き。……お願いだから、忘れてなんて、……できないこと言わないで!」



彼は泣きながら、強く、真っ直ぐに訴える。



「一番じゃなくていい。朔にとって俺が何番目であっても、俺にとっての一番は、ずっと昔から朔だからっ!」



感情が昂り、言葉を返す余裕がない。


ぼろぼろにこぼれる涙は止まることを知らず、わたしたちはふたりで抱きしめ合い、夜の公園で泣き続けた。






季節に合わない厚手の外套を着ていたため、汗ばんだ背中に衣服がくっつく。しかしそれも些細なことでしかない。

頭がぼうっとするのは暑さからか、泣きすぎか。原因などどうでもよかった。


深淵から地上に戻れば、雪根さんが待っていた。

その事実以外に目を向けられず、冷静さを欠いて彼にすがった。


もう会わないと決めたくせに、会えたことが嬉しくて。後ろめたくて遠ざけようとした彼の好意になりふり構わず甘えてしまった。


現実は後からじわじわと押し寄せた。

夢の終わり、眠りから覚めるようにここが地上であることを思い出す。


先の後悔への予感は意味がない。

微かに芽生えた羞恥心や戸惑いに目を背けてでも、雪根さんから手を離したくなかった。



ようやく少し落ち着いて、抱擁の力が緩む。

離れるのが名残惜しく、どちらからというわけでもなく互いの額をこつんと軽く合わせた。






人のいない深夜の公園で、わたしと雪根さんは芝生に隣り合って座る。


彼の説明を聞くに、わたしが外つ国の神と深淵へ落ちてから、二年以上の月日が流れていた。今は季節が秋に移ったばかりだという。じきに安定期を迎え、三度目の冬が来る。


赤兎班の人たちは健在とのこと。

何人か班員に入れ替えはあるものの、宮城さんや穂高さん、柊さんといった中心人物や、明将さんや啓斗さん、古株の人たちは変わらず赤兎班を支えている。そして、雪根さんも。


あれ以降、外つ国の神からの攻撃はあれど大規模な侵入は未然に防げていて、日の元は比較的平和な日々が続いているそうだ。



「朔のおかげだよ」



告げられた言葉に胸を張ることができず、恥ずかしくなって抱えた膝に顔を埋めた。


この国を、日の元を守れた。

赤兎班の役に立てた。


一樹さんたちは悲しい結果になったけど、赤兎班の人たちを死なせずに済んだ。



「朔が、日の元を守った」



はっきりと言い放つ雪根さんの声に顔がほてり、胸の奥がむずむずした。



「……雪根さんは、どうしてここがわかったのですか?」



おもはゆい気持ちを紛らわすため、わたしから質問してみる。


雪根さんは、ん? と首をかしげてはにかんだ。



「わかったというより、俺はこの場所しか知らないから。意地だったけど、賭けてよかった」


「…………?」


「満月の夜だけ抜け出して、ずっと朔が帰ってくるのを待ってたんだ」



なんだか答えをはぐらかされた感じがする。

答えたくないことを深く追及する気になれず耳を傾けていたけれど……。


今度はわたしがんん? と首を捻る番となる。



「……抜け出すというのは、どちらからですか?」


「どちらって、もちろん赤兎の本部からだよ?」



何か問題でも? といった口調で告げる雪根さんに、それは大丈夫なのかと焦る。


鳳・赤兎班は行動の制限が厳しいところだ。班員が単独で外出するのは認められていないはず。


わたしが深淵から帰るのを待つ。

そんな理由のために、彼は満月の夜がくるたびに規則を破り続けたの?



「そんなに心配しなくていいよ。宮城さんは気づいていても何も言ってこないし、他の人も、黙認してくれてる」



それは、わたしの知ってる宮城さんじゃない。



「……知らないうちに、随分と寛容になられましたね」


「諦めたんじゃない? 規律違反だって禁止されたら、赤兎班自体を抜けるつもりだったし。そこら辺は察してると思うよ」


「そんなっ」


「俺は何年かかっても、諦めるつもりなかったから」



雪根さんの言葉が心に重く響く。わたしは雪根さんがそこまで慕うほど、素晴らしくない。


自分に対する自信のなさは相変わらずで、そんな自分を自己嫌悪する悪循環。


何よりも、真っ直ぐな雪根さんの気持ちを受け止めて、同じだけ真っ直ぐな想いを返せないのが歯がゆかった。



「一緒に帰ろう?」


「……赤兎班へ……ですか?」


「うん」



言われて迷う。

結果的に外つ国の神を葬れたのは良かったとはいえ、あの時わたしが取った行動は最適ではなかった。


もっと早く、一樹さんへの疑いを誰かに伝えれば、御社の人たちは助かったかもしれない。


赤兎本部が蝗に襲撃された時、わたしが御社へ向かったのは、母の身を心配したからというどこまでも個人的な事情だった。


そうだ。だからわたしは日の元を守ったって、堂々と誇れないんだ。


それに、赤兎班には明将さんがいる。今さら彼と顔を合わせるのは、なんだか気まずい。


自分勝手な事情が次々に頭をよぎり尻込みしていると、雪根さんが満月を見上げながら口を開いた。



「朔がアキのこと好きなの、わかってた」



息が止まる。そういやさっきも、雪根さんは一番じゃなくていいって……。


ゆっくりと視線を落とし、雪根さんがこちらを向く。



「朔のそばにいられるなら、俺はそれでもいい」



真剣な表情から一転、彼はわたしに穏やかに微笑む。



「帰ろう? みんな待ってるよ。宮城さんも、態度に出さないだけで絶対心配してる」



帰っていいのか。


なおも悩むわたしを置いて、雪根さんは腰を上げた。



「朔が帰りたくないなら、俺も赤兎班じゃなくなるけど」


「……脅しですか?」


「違うよ。朔が行きたいところなら、俺はどこにでもついて行く。邪魔しないから、側にいさせてよ」



邪魔だなんて、思うはずがない。

差し出された手を取る。


引かれて立ち上がったわたしに彼は改めて「おかえり」と、静かに告げた。






明将さんが好きだった。

それがわたしの初恋なのは間違いない。




じゃあ、雪根さんに寄せるこの気持ちは。




この思いに、名前を付けたら何になる——?








      *







空が薄らと明るくなり始めたころ。



「気は済んだろ。おら、合鍵返して今日中じゅうに始末書と反省文を提出しやがれ」



赤兎本部の裏口から中に入ったわたしと雪根さんを、宮城さんが仁王立ちで待ち構えていた。

宮城さんの相手を無条件に萎縮させる威圧感に、わたしたちはバツが悪そうに目を背ける。



「目を瞑るのはここまでだ。書面で済ませてやるっつってる俺の気が変わらねえうちに頷いとけ」


「……わかりました」



雪根さんは拗ねた態度で首肯した。

彼が以前よりも宮城さんへの敬意や畏怖を抱いているように感じるのは、おそらく気のせいじゃない。


宮城さんは非常に不機嫌……というよりも、ものすごく眠そうにあくびを噛み殺しながら、わたしの頭をくしゃくしゃに撫でた。



「よくやった。そしてよく戻った」



直球で褒められて顔が赤くなる。



「……ご心配を、おかけしました」



緊張で固く握りしめた拳に、さらに力が入った。



「雪根さんが、……迎えに来てくれました」


「らしいな。その点に関してだけはよくやった」



上司に称賛されたはずが、雪根さんは口をへの字に曲げて肩をすくめた。

あなたに褒められても嬉しくないと言わんばかりの表情に宮城さんが半眼になる。



「始末書、遡って書かせんぞ」


「いえ……、ご厚意に感謝します」



雪根さんが言うに、わたしが深淵へ落ちてから地上では三年近くの時間が経過しているらしいけど。


その間に、この二人の関係性に何があったの……?



「朔は風呂入って部屋で休め。しばらくゆっくりしてろ」



大きく開けた口を手で覆いあくびをして、宮城さんはこちらに背を向けた。



「今後のことも落ち着いてからでいいだろ」



そう言い残して、さっさと食堂を出て行ってしまう。

わたしたちは顔を見合わせる。

そんなに始末書と反省文が嫌なのか。不満を隠そうともしない雪根さんについ苦笑してしまう。


彼はわたしの笑みにつられて、へらりと力なく笑った。





雪根さんに手を引かれ、厨房から食堂を抜けて扉をくぐる。


見慣れたはずの廊下に懐かしさを感じると同時に、不思議とちょっとした疎外感が込み上げた。

長い時間留守にして、久しぶりに家に帰った時、人はこんな感覚になるのだろうか。


廊下に宮城さんの姿はもうない。代わりに二人の人物がこちらへと近づいてきた。


薄暗い中でもわかる。穂高さんと柊さんだ。



「おかえり、朔ちゃん。」



記憶と寸分違わない口調で、穂高さんは言った。それは近くのお使いから帰った際にする程度の、軽い挨拶だった。


何も言わない柊さんは、目元を綻ばせて頷く。



「ただいま戻りました」



そんな彼らにわたしは深く深く、頭を下げた。





三階の、赤兎本部でわたしが使用していた部屋はそのまま残されていた。

家具の配置や、私物も。全てがあの日から変わっていなくて、長い間ここを開けていたのが嘘のようだ。


ひとまず椅子に外套を掛け、着替えを用意する。


班員たちが起き出す前に、急いで浴室を使わせてもらった。


体を洗って部屋に戻り、湿った髪を乾かす。

そのあいだに並行して、意識を遠くへ離して集中する練習をしていると、気配を探知する感覚を思い出してきた。


空が明るくなるにつれ、階下で動く気配が増えていく。

朝食の時間なのだけど、慌ただしくなった一階へ下りるのをためらった。わたしはどんな顔をして彼らの前に出ればいいのか。


緊張するのは最初だけ。恥ずかしがって時間を延ばすほどに、下の階へ出て行きづらくなる。

過去の経験から十分にわかっていても、重い腰は上がらない。


何より彼と顔を合わせる、心の準備がまだできていない。




赤兎班に戻ってきた。


でも、これからどうしよう。



悶々と悩むわたしの元へ、雪根さんが朝食を運んできてくれた。

相変わらず、この人はわたしを甘やかすのが上手い。


少し冷めた仕出しの朝食。店の刻印が入った食器。


階下を探った時に知った、二階の部屋の、……あの気配。



「花歩さんは、まだ……」



予想はついていたけれど、聞かずにはいられなかった。



「……うん。今も眠ったまま」



正面に座る雪根さんの返答にも、寂しさがこもっていた。


二人で朝食を終え、空になった食器を重ねる。


片付けの口実で一階へいこうか。


……でも、それぐらい雪根さんひとりで出来ることだし……。


あれこれ逡巡していたら、三階の廊下に風が吹き抜けるような動きを感じた。



「——朔!」



次いで玄関の扉を挟んで声が聞こえた。聞き覚えのない低い声に緊張して身が固くなる。


そこにある気配と声がわたしの記憶と一致せず、頭の中が疑問符で埋め尽くされた。混乱で動けずにいると、玄関の扉が開いた。



「朔っ、戻ったって聞いたよ!」


「………………啓斗さん?」


「……なに? そうだけど?」



啓斗さんはわたしよりも頭ひとつ分以上背が伸びて、声も大人の男性の声質に変わっていた。

視覚と聴覚によって得た情報に驚きながら、地上に戻って始めて時の流れを実感した。



「啓斗うるさい。朝から騒がしくしないでよ」


「雪根さんこそちゃっかり朔とごはん食べて、どうして朝に教えてくれなかったのさ」


「別に。不用意に慌ただしくしたくなかっただけだよ」


「はいはい。雪根さんは今日中に始末書を提出するようにって、穂高さんが言ってたよ。俺ちゃんと伝えたからね」


「…………わかってるよ」



懐かしい会話の中で、啓斗さんの成長を垣間見た。


雪根さんと啓斗さんが言い合っているさなかに、三階の気配がひとつ増えた。


はっとして横目で雪根さんを盗み見る。

どくどくと、心臓の鼓動が速くなった。



「お前ら人の部屋で何やってんだ」



呆れ声と共に現れたその人を前にして、胸がぎゅっと締め付けられる。



「……明将さん」



名前を呼べば、彼はわたしに顔を向けてふっと笑った。



「おかえり」


「……ただいま、戻りました」



心の準備が、全くできてなかった。

言葉が続かず、明将さんを直視するのも気まずい。



「……俺だって、おかえりって言いたかったのに」



啓斗さんが恨みがましく雪根さんを睨む。



「俺のせいにしないでよ」



文句に対し雪根さんは軽口で返した。

自然体の彼の態度に密かに胸を撫で下ろす。同時に自分の狡さを自覚して、居た堪れなさに唇を噛んだ。


結局、明将さんとは他に言葉を交わすこともなく、その日は一日中部屋で過ごした。


よくない傾向だ。わたし自身、これからどうするかは決まっていないが、ずっと部屋に引きこもってるわけにはいかないことぐらいわかっている。


でも、本部の建物内を歩いて、明将さんと鉢合わせしてしまったら……。普通に受け答えできる自信がない。


だけど、このままの状態が続いたら、明将さんだって不思議に思うだろうし……。心配されても、どう答えたらいいものか。


これは全部、わたしの心境の問題だ。誰のせいでもないからこそ、わたしの態度が普通に戻れば解決する。


わかっていても、簡単にできるはずのことがとても難しかった。





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