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【おわりへ】




闇の世界では、周囲を見渡すことすらかなわない。







ゆらゆらと、体が宙を漂う。


冷たさや暑さといった温度はない。

自分は今、仰向けなのかうつ伏せなのか、どんな体勢をしているかもわからない。


意識が浮上しても、沈んでも——。常に目の前を黒が覆い尽していた。





ふわふわと、体が浮かぶ。

静寂は眠気を誘い、力が抜けて闇に身を預けた。


そうしていると少しずつ。


ほんとうに、少しずつ……。


わたしの中から、わたしじゃないモノが失せていく。



真っ暗闇に怯え、嫌だ、怖い、消えたくないと嘆く感情を、どこか他人事のようにぼんやりと感じていた。


とても不思議だった。


わたしを優しく包み込むこの闇の、いったい何に怯えるというのか。


闇が穏やかで、優しいことをわたしは知ってる。この世界が怖いなんてあり得ない。





……こわい。


…………いやだ……。





ゆっくりと、緩やかに……。


わたしの中から闇に苦しむ感情が消えたとき、ほっと安堵した。




これでようやく、静かに眠れる。









      *







そしてわたしは眼前に広がる黒の世界に戸惑い、うろたえた。



一寸先に何があるのか。視覚、聴覚、触覚も、当然ながらここでは全く役に立たない。

体に備わっている器官では、深淵の情報を汲み取ることができないのだ。


ここに至るまでの記憶はある。

一樹さんの体を乗っ取った外つ国の神と共に、深淵へ落ちて……、それから、どれだけの時間が過ぎたのだろう。


ここが深淵のどこなのか、みんなは近くにいるのか。わたしはあれからどうなったのか——、疑問が頭に次々と浮かんだ。


唯一、わたしの中にあった異物がなくなっているのは感覚で知れた。

同時に自分の体の異常を察する。


じっとしていると脈打つ心臓の鼓動を感じ、俯けば側頭部に垂れ下がった長い耳が揺れた。



「キィ…………」



みんな——と。呼び声は言葉にすらならなかった。

耳が久しぶりに音を拾った。それは甲高いわたしの鳴き声だった。


さらに顔を下げると黒しかないはずの世界で色を見つけた。

短い茶色の毛が生えた、獣の前脚がふたつ。



知っていたから、驚きは少ない。

しかし受け入れるまでにそれなりの時間を要した。


精神だけでなく、わたしは肉体を伴い深淵に落ちた。


深淵で妖になった人に、わたしはたくさん会ってきた。


今回は自分が、そうなっただけ。


垂れ下がった長い耳。ひくひくと動く鼻。まん丸な体躯に、短い尻尾。

後ろ脚だけで立てるが、長い時間体勢を維持できずすぐに四足歩行へ戻ってしまう。


人の面影がない、兎に似た獣。



これがわたしの妖としての姿なんだ。








深淵で体を動かすことは困難を極めた。


踏み締めていたはずの地面がいつの間にか消えて急に浮遊感に襲われたり、前へ行こうにも見えない壁に阻まれたり……。


精神だけだと自由に動けた世界が、別物の迷宮になってしまったようだった。


それでもひたすらに足を動かし、どこかもわからず先へ進もうとしたのは、ただみんなに会いたかったからだ。


みんなは必ずどこかにいる。

気配を探りたいのに、自分の体の光が邪魔をした。


歩いてつまづき、落ちては体が浮き上がり。


もがき続けた果てに、ようやくわたしは深淵の闇よりもさらに濃くて深い闇の気配を感じ取れた。


みんなの居る方向へと必死に足を動かす。

だけどどんなに進んでも、一向に深い闇に辿り着けない。


近づけたと思えば気配は遠ざかり、また追いかけて。その繰り返し。


途中何度も落ちた。壁に当たって迂回した。

もう歩けないと、疲れて立ち止まった。


その間も、深い闇の気配は距離を保ち、わたしが歩き出すのを待っていた。






追いかけっこがどれだけ続いただろう。


やがてわたしは重力を感じる場所に出た。

そこは深淵のなかでも闇が薄く、足元が消える心配はない。

微かに吹く風を鼻先に感じた。


ぽつんと佇み、周囲を見回す。

みんなの気配が遠ざかっていった。


置いてけぼりにされたわたしは、ここがどんな場所なのかを知っていた。


遠くに見える白い点は深淵に迷い込んだ人たちが帰る、地上に繋がる道だ。


つまりはそういうこと。

体内に光を宿すわたしは、もう深淵にはいられない。


みんなはわたしに、地上へ帰れと言ってるんだ。




当然か。光はこの世界にとって異物でしかないから。




長い時間身を置くことは、みんなにとって迷惑にしかならない。




闇の世界にわたしの居場所はない。


地上の居場所も、自分で失くしてしまった。



彼の好意を知りながら、幸せになってと願い、勝手に消えて。

今さらわたしが現れても、迷惑でしかないだろう。



光の点に背を向け、キィと鳴く。

さよならと告げたつもりだった。



身を翻し、決意が鈍らないうちに出口へ向けて走り出した。



地上へ戻っても、赤兎班へは帰らない。








このまま人知れず消えて、終わりにしよう——……。








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