27.闇の怖さを知る時(上)
どうか
おねがい
かみさま……
御社からの帰り道。
「ここ最近で一番顔色が悪いな」
車の中で明将さんに指摘されたが、わたしもそんな気がしている。
敵は当初あの穢れを使って、深淵を攻撃しようと目論んでいたのだ。神域を破壊できる規模の穢れを、地上で抑えるのは容易でない。
現在の御社の空気は心身を害する。職務とはいえ穢れの中に身を置く社勤めの人たちが、ひたすらに気掛かりだった。
「……わたし、あそこに敵が潜んでいても、……判別できる自信がありません」
御社に立ち入ってからずっと思っていたことを打ち明けた。
穢れの蔓延した境内では、御社の人たちの気配を把握するのも難しかった。
疑うこと自体一樹さんに失礼だと自覚しながら、現在の御社が敵にとって身を潜めるのにうってつけだと考えてしまう。
「一樹さんがいてくれるから問題ないとは思うけど」
そう前置いて、運転席の雪根さんは後方確認用の鏡にちらりと視線を寄越した。
「できれば、宮城さんを連れてもう一度行きたいね。社勤めたちの消耗も激しいし、……早く安定期が終わってくれたらいいんだけど」
雪根さんの言葉に、わたしと明将さんが同意する。
空気を入れ換えるために開けた車窓の隙間からは、冷たい風が車内に入ってくる。
冬はもう、そこまで来ていた。
赤兎本部へ到着すると、ここ数日間は空白だった車の置き場の一つに、白の乗用車が停めてあった。
柊さんたちが中央霊山から帰ってきている。無事の帰還にほっとしながら玄関扉をくぐった。
今日は本部に詰めている班員が多いようで、そこかしこに慌ただしく動く気配があった。
独特の空気感になれてしまえば、赤兎本部の安心感は桁違いだ。
夕飯までまだ時間がある。これからどうしようか。
啓斗さんに、何か手伝えることがあるか聞いてみるのもいいかもしれない。
そんなことを考えながら廊下を歩いていると、前にいた雪根さんが振り返った。
「宮城さんのとこ、報告に行こうか?」
「今わたしが訪ねても、大丈夫でしょうか?」
柊さんたちが帰ってきたなら、華闇との連携確認の報告のため、真っ先に宮城さんの元へ向かうはず。
大切な話をしているところにわたしが行って、彼らに水をさすのはためらわれた。
わたしの用事は大した連絡事項もない帰還の報告と、一時母が入れられていた御社の牢屋を見たいという、希望の申請。どちらも急を要する事案じゃない。
「宮城さんに伝えずとも、後ほど穂高さんに——……」
——そうだ。牢屋だ。
目の前の会話と、頭の中を巡る考えが全く違う方向に行ってしまい、口から出る言葉が続かなかった。
「すみません。やっぱり、時間をおいて宮城さんに会いに行きます。考えをまとめたいので、部屋にいても問題ないでしょうか?」
「それはいいけど、大丈夫?」
「はい。少しだけ一人で、頭の中を整理する時間が欲しいです」
「わかった。夕方になっても降りて来なかったら様子を見に行くからな。行くぞ、律」
明将さんが雪根さんを連れて建物の奥へと進みだす。階段までは同じ道のりなのでわたしも二人の後に続いた。
部屋に帰って、これまでのことをまとめてみる。
闇泉を穢した母は御社の牢屋に入れられた。
そこから何らかの手段を用いて逃亡し、最終的に空木村まで来たわけだけど……。
そもそも母はどうして、空木村へと向かうことになったのだろう。
わたしが空木村に連れ去られたと聞かされたから?
……それは誰に?
空木村は外つ国の神と繋がっていた。
順当に考えるなら、母を空木村へと誘導したのは外つ国の神だ。
だったら、母を牢から逃したのも……。
でも、そうだとしても外つ国の神の狙いがわからない。
空木村の者を使ってわたしを捕らえさせ、母を空木村に差し向けて何がしたかったのか。
単なる愉快犯? ……本当に?
理由をそれだけとするのはなんだか腑に落ちない。
この漠然とした不安は何だろう。
わたしは何かを見落としている。もしくは気付けて然るべきところに、目を向けられていない。
直近に起きた出来事を細かく振り返っても、特にこれといっておかしな部分はなさそうだけど……。
そもそも今年の春以降、おおよその常識とかけ離れた生活が続きすぎて、感覚が麻痺している気がする。
理不尽な環境に、矛盾した思考。
果てのない人の欲望、正しさの対立。
地上ではそれらが当たり前としてある。
わたしというちっぽけな個の視点だけでは正解に辿り着けないのも、当然といえば当然か。
ならば第三者の立場や視点を借りて、今のわたしを評価したらどうだろう。
——母のしたことへの罪悪感で、御社に対して考えに霞がかかってないか……?
やっぱり敵は御社にいる……?
……まさか、と。
自身への疑念をすぐに否定する。
根拠もないのに疑いすぎだ。
雪根さんも言っていた通り、一樹さんのいる御社で、滅多なことが起こるはずがない。
「……ほんとうに?」
疑問を口に出すと、即座に否定できなかった。
一樹さんとて刺されたら怪我を負う。無敵なわけじゃない。
この人は絶対に大丈夫、なんてことはあり得ない。
もっと気を引き締めないと。
「——朔、開けてもいい?」
扉を叩く音と雪根さんの声に驚き、肩がびくりと跳ねた。
考えに没頭しすぎて、三階に人が来たことに気づけなかった。
「はっ、はい!」
慌てて腰掛けていた寝台から立ち上がり、玄関へと急ぐ。
「そんなに急がなくてもいいよ。宮城さんが呼んでるけど、来れそう?」
「はい。すぐに行きます」
靴を履いて廊下に出る。
一階へと下りる間も、魚の小骨が喉につかえるように、釈然としない感覚がいつまでも残った。
宮城さんの執務室には穂高さんと、久しぶりに柊さんが揃っていた。
部屋に入ると柊さんがわたしに何かを差し出してきた。
反射的に受け取ったそれは、手の中に収まるほどの小さな巾着だった。
「こちらは?」
「母親からの預かり物だ」
弾かれたように柊さんを見上げ、再び巾着袋に視線を落とす。
蝶々結びの紐をほどき絞り口を緩めると、中から円環の形をした朱色の石が出てきた。
「容体は依然として安定しないようだが、中央霊山に戻った椿が訪ねた際、一時的に話せるようになったらしい。その時に、これは朔のために造られたものだからと託されたそうだ」
手に持ったそれは、ほんのりと暖かく、明るい——朱色の守玉だった。
空木村で母が燃やした建物の焼け跡から見つけた、「藍梨」と記された藍色の守玉と一緒に入っていた、もう一つの守玉。
「……守里、ですか……」
石の色からはその名が連想された。
愛里の娘は守里——。それは本来、わたしが継ぐはずだった名前だ。
だけどこの守玉にはどこにも名前が刻まれていない。
祖母はわざとこの石に名前を残さなかったのだ。
彼女は生前、母に娘がいることを知っていたのだろうか。
今更考えてもどうしようもないことだけど、思いを馳せずにはいられなかった。
これは祖母の守玉だ。悪い物ではない。
ただ……。
「なんというか……、気配が高尚すぎて背中がむずむずします」
明るい色味の守玉は光の属性、すなわち天上の守護がある。
身体的な属性の傾きもさることながら、もはや贔屓を自覚できるぐらいに深淵へ情を寄せているわたしにとって、この守玉は心境的にも非常に複雑なものだった。
「貴重なもんだ。ありがたく貰っとけ。親離れにはいい機会だろ。あいつらも、そろそろ子離れの時期だ」
宮城さんが嬉しそうなのは、絶対に勘違いじゃない。
どうやらこの人はとことん深淵との相性が悪いらしい。
「まあ、その程度の光で闇の連中が愛想を尽かすとは思えないがな。寝る時に気が散るようなら夜間だけはしばらく預かっておいてやる」
「……お願いします」
「それで、御社の異常について突いたら一樹がごねたって?」
……曲解にも限度ってものがあると思う。
一体雪根さんは先立って宮城さんにどんな報告を入れたのか。
ちらりと隣に立つ雪根さんに視線を向けると、全く悪びれることなく綺麗な笑みを返された。この人は……。
「決まりを知らずに失礼なお願いをしたのはわたしです。一樹さんは規則に則った判断をされただけなので、ごねられたわけではありません」
「どいつもこいつも融通が利かねえな。そもそも、そんな規則に意味がねえんだよ」
宮城さんは頬杖をついて雪根さんに目を向ける。
「罪人になれば嫌でも牢を見られるんだ。お前らが社務所で窓でも割ってひと暴れすれば、牢に入る理由ができただろうに。あとは俺がお前らを引き取りに行くことになって、それで目的が達成できただろ」
「その手がありましたか」
「雪根さんっ!」
そんな目から鱗、みたいな反応しないでほしい。
明将さんも啓斗さんも。雪根さんは問題児みたいなことを言っているけど、彼の行動に拍車を掛けているのはもしかして宮城さんではないのか。
自分は関係ないとばかりに素知らぬふりをする穂高さん。柊さんも宮城さんの言及を咎めようとしない。
ひょっとして、これは赤兎班にとって当たり前のことだったりするの?
次からはそうしますという雪根さんの物騒な宣言に、宮城さんは真剣に頷いた。
「まあ収穫なしに戻ってきてしまったからには仕方がない。当てつけついでに今すぐにでも御社へ行ってやりたいところだが、俺の手がしばらく空きそうにない。——あと二、三日のうちに、安定期が終わる。それまではお預けだ」
安定期の終わり。それは、日の元の神の加護が強まるということ。
「面倒だが俺は迎護の儀に立ち会う必要がある」
「……迎護の儀」
「なんだ? 授業で習ってるだろ」
「はい。簡単には……」
迎護の儀とは皇家が執り行う儀式のひとつだ。
安定期の終わりに、日の元を守護する神々の帰還を感謝し、これからも変わらぬ加護を祈る。
儀式には多くの旧家や華闇の偉い人たちが参加する。国を挙げての一大行事で、毎回翌日の新聞の一面に大きく載せられていた。
「安定期が変則的になった分、例年よりも規模は小さくなるが……、やらないわけにはいかないからな」
「宮城さんが参加されるということは、儀式にも意味があるのですね」
ただ皇家の権威を示す、形だけの儀式ではなかったのかと感心するわたしに、宮城さんは「まあな」と皮肉げな笑みを浮かべた。
「深淵と違い、天上にいるのは派手好きが多いからな」
なるほど、と。ここで納得を示すのは、あまり得策でない気がした。祖母の守玉を握って冷静になれと自分に言い聞かせる。
天上の神様を貶す発言を、わたしがしていいはずがない。
「儀式さえ済めば、自由に動ける時間が増える。数日の辛抱だからお前もそれまでここで大人しくしてろ」
「承知しました」
話が終わったので、雪根さんと共に執務室を後にする。
安定期の終わりについて聞けたのは幸いだった。
あとは、宮城さんと御社へ——……。
そこであることに思い至り、失礼しますと閉めかけた扉を再び開く。
「宮城さん、ひとつだけ確認させてください」
この疑問はなんてことのない、わたしの思い違いの可能性が高いことだ。
でも、どこにあるのかもわからない糸口を見つけるきっかけになるなら、彼から答えを聞いておきたかった。
「さっきの質問だけど、何かおかしかった? 気になることがあるの?」
「いえ……、正直、どこを気にしなければいけないのかも、判断がつかないので。些細なことでもきっかけになればと思って聞いただけです」
執務室を出て、廊下を雪根さんと歩く。
顎の下に手を当て考え込んだ彼は、やがて階段に差し掛かると難しい表情のままわたしを見下ろした。
「朔は一樹さんのいる御社が怪しいと思ってるの?」
「まだはっきりとは……。確証もなく、何もかもを疑ってしまっているような状態なので、そういう目で見たら、何もかもが怪しく思えるのは当然でしょうし……」
自信がなくて曖昧な答えしか返せない。
こんなわたし、雪根さんからは心象が悪く見えて当然か。
今のわたしは重箱の隅をつつくように御社の不審な点を集めているようなものだから。
「……すみません」
「謝らなくていいんだよ」
へらりと笑う雪根さんは、いつもの雪根さんじゃなかった。
「でも、俺は朔じゃないから。何を感じて、そう思うようになったのか、教えてくれないとわからないよ」
「……確信が持てないことを、申し上げるのは……」
「俺が朔を知りたいって、望んじゃだめ?」
その言葉に、俯きかけた顔を上げる。
しかし雪根さんの真っ直ぐな眼差しを直視することができず、わたしはまたすぐに目を逸らしてしまった。
「……すみません。もう少し、自分で考えさせてください」
そう言うのが精一杯だった。
胸を締め付けるような痛みの正体は罪悪感だとはっきりと自覚する。彼に対する申し訳なさは沢山ありすぎて、どれが胸に刺さっているのか心の整理がつかない。
雪根さんのまとう空気に憂いが混ざる。
……わたしが傷つけた。
「うん。待ってるから、ちゃんと教えてね」
最後の最後までわたしへの笑みを崩さず、雪根さんは廊下の先へ行ってしまった。
頼ってはいけない。
甘えすぎたら、わたしも彼もだめになる。
これでよかったのだと、何度も自分に言い聞かせた。
何度も何度も——。
人の心は変わっていくから。
今は気まずくても、いずれ時が解決してくれる。
言い聞かせたところで、ちっとも自分が正しいことをしたとは思えなかった。




