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23.母(下)




取り戻した靴を履いてとにかく走った。

たびたび足がもつれて転びそうになるのをどうにかこらえ、先を行く人たちを必死で追いかける。



待って。早まらないで。



お願い間に合って!




握ったこぶしの中で、かつては円環の形をしていた守玉が粉々になっていく。

この石が守り続けていた、あの人の心が崩れてしまう。


守玉は完成前から持ち主が決められていると、以前雪根さんが言っていた。

この守玉の持ち主はわたしじゃない。



たとえ他人の手に渡っても、藍色の石が守ろうとしていたのは、ずっとずっと——母だった。




駆けつけた集落の端で、赤い炎が建物を覆い尽くす。誰の家かとそこにいた村人に問えば、照土の別邸だと返ってきた。


目の前の別邸と、その奥にある壁のない屋根と柱だけの建物と……、視線を上げれば山の中腹にも、火の手が上がっている。


道に集まった人たちの隙間を縫って前へ出る。



「——お母さんっ!」



当たってほしくなかった予想は当たり、母は誰よりも建物に近い場所で、燃え盛る炎をぼんやりと眺めていた。


木造だからか火の回りが早い。今にも崩れてきそうだ。

熱気で息をするのも苦しい。

火の粉を被る位置に立つ母へと駆け寄ろうとしたわたしを、雪根さんが止めた。


炎は夜に似つかわしくない光を発し、空へと立ち昇る。



「お母さん、そこにいたら危ないよ! こっちに……」



轟音で聞こえていないのか、反応が返ってこない。



「……いや。……お母さん!!」



虚ろに佇む母は炎と同等か、それ以上に——眩しかった。



「そこにいて」



雪根さんがわたしの肩に手を置いて、母の元へ向かおうとする。

片手に握られた短刀を見て、無我夢中で彼を止めた。



「待って、待ってくださいっ。お願いっ……!」


「落ち着いて。簡単には抜かないよ」



振り返った雪根さんはわかっていると、強く頷いてみせた。



「最後まで足掻こう。とにかくお母さんを火から遠ざけないと」


「ああ——!!」



雪根さんの言葉に、耳をつんざく絶叫が重なる。

何事かと後ろを振り向くと、集まっていた村の者たちが左右に割れて道を開けた。

開かれた群衆の間を、よろよろと恵理が踏み出し、途中で崩れ落ちる。



「あ……、ああ……」



地面に手をつき、小刻みに顔を震わせて恵理は燃える建物を凝視する。大きく開かれた目には涙が溜まっていた。



「建て替えたばかりなのに……。あんたっ、なんてことを! この厄病神が!!」



恵理が罵詈雑言で母をなじる。

聞くに耐えない罵声の嵐に、母は炎から目を離した。


虚ろだった母の瞳に生気が宿る。

母の内側から突き刺すような鋭い光を感じ、思わず顔を背けた。


それがいけなかった。


母はとてつもない速さでわたしを突き飛ばし、恵理へと襲い掛かる。

周囲が止めに入る間も無く、道に倒れた恵理に馬乗りになり、首を絞めた。



「……優也のかたきよ」


「やめろ!!」



近くにいた華闇の人たちが母を引き離そうとするが、簡単にはいかない。

男の人が三人がかりで、なんとか恵理の首に掛かった指を解いた。



「放せ! 華闇が今更なによ!!」



袴装束の男たちに母はありったけの憎しみをぶつけた。

腕を後ろ手に拘束されても、どうにか恵理に喰らいつこうともがく。



「……あ……。あぁ……」



恵理は母の気迫に萎縮して、全身を震わせ動けずにいた。



「朔、大丈夫?」



横むけに転んだわたしは、雪根さんの手を借りて立ち上がる。


ぱきぱきと火が爆ぜる音が続き、炎に覆われた建物が崩れた。

倒壊の轟音にこの場にいる人たちの意識が向けられる。

誰もが言葉を失うなか、母だけが楽しげに声を上げて笑っていた。



「……そうよ。全部燃えてなくなればいいのよ」



ひとしきり笑い、母は拘束された状態で周りを囲む村人たちをぐるりと見回す。



「こいつらがいるから……、こんなものがあるから! わたしたちは自由になれないのよ!!」



叫びに応じるように風が吹き、火の粉が宙を舞う。まるで離れた場所に立つ隣家へと、炎を届けようとしているようだった。


母の体勢が次第に前のめりになっていく。

口から言葉が消えて声は獣の咆哮へ変わる。

肉体の内側から溢れる光が、彼女の闇を消し去ってしまう。



まずい。


眩しさに耐えて母の正面に回り込む。

道に膝をつき、怒りに染まる顔を両手で挟み、強引に血走った目と視線を合わせた。



「お母さんっ、わたしを見て! お願い戻って!」


「君は来てはいけない!」



母を拘束する男性が慌てて後ろに下がろうとしたが、雪根さんが止めてくれた。



「やらせてあげて」



そのやりとりに母は全く関心を示さない。

正気を失った瞳は、わたしを娘として見ていない。


自分の内側から湧き出る、強すぎる光が苦しい。

目の前のこれ(・・)は、その苦しみを和らげるものだ。

欲しい。体の中に閉じ込めたい。——喰らいたい。


本能を剥き出しにした母は、わたしの首元に噛みついた。

皮膚を抉る痛みに、歯を食いしばる。この程度で退いてたまるか。

不用意に刺激しないよう注意を払いつつ、ゆっくりと母を抱き締めた。



「……大丈夫。大丈夫だから……」



頭を撫でて、何度も繰り返す。



「もう大丈夫。……お母さん。眩しいのも、苦しいのも、わたしが一緒に背負うから……」



何度も、何度でも。

あのとき、明将さんと雪根さんがそうしてくれたように。



「お母さん……。もう大丈夫だよ」



母の顎の力が強まる。鈍い痛みに次いで、皮膚に血がつたった。


構うものか。

食いちぎられたって、この手は絶対に離さない。



「ねえ、お母さん。……一緒に帰ろうよ」



鼻息を荒くして、母が唸る。喉の奥よりもたらされる振動が、噛み付く首元から伝わってきた。

とにかく母を抱き締めることに専念した。

注意が削がれて母の背中に回した手の、握った指がほどける。

粉々に砕けた藍色の守玉が指の隙間からこぼれた。


刹那、すぐそこにあった炎の気配が薄まる。はっとして守玉を持っていた手を広げた。


すると砂のように細かくなった守玉は空気に溶けて、辺りに夜よりも深い闇をもたらした。

阿鼻叫喚に騒ぐ村人たちの声や気配を闇が遠ざけてくれる。


突然の漆黒に、母は驚きわたしの首元から顔を離した。

声にならない母の感情が伝わってくる。



眩しい光はうるさくて怖い。

だけど真っ暗な闇も怖い。


ひとりぼっちの蔵の中。どんなに叫んでも、誰も助けてはくれなかった。


捕まえられた。この手はどこにも伸ばせない。


伸ばせたところで、どこにもすがれない……。



「お母さんっ」



ひときわはっきりと呼びかけた。

わたしの腕の中で、びくりと母の肩が大きく跳ねる。



「大丈夫。わたしがいるよ。今度はわたしも、一緒に考えるから」



怯える母の背中をさする。



「今まで、ごめんね。何も知らなくて……、お母さんは、ずっと守ってくれてたのに」



母の荒かった呼吸が落ち着き、体の震えがおさまる。



「お母さん」


「…………朔?」


「うん。そうだよ。……お母さん」



風に流され闇が晴れる。

項垂れていた母が顔を上げた。

家屋を焼く炎が照らす母の瞳には、わたしの顔が映っていた。



身構える袴装束の人たちと、腰を抜かす村人たち。

信じられないと言わんばかりに皆が驚きの表情を浮かべるなか、雪根さんだけはほっとした顔で微笑み頷いてくれた。


雪根さんに頷き返し、母を拘束する男性を見上げた。



「手を解いてください」


「……しかし」


「わたしの母なんです」



男性は戸惑いながら椿さんの指示を仰ぐ。腕を組んだ彼女は静かな声で「放しておあげなさい」と言ってくれた。


自由になっても、母は呆然として地面に膝をついたまま動こうとしない。

村人たちも同様に誰ひとり言葉を発さず、固唾を飲んでこちらを窺うばかりだ。


そうしているうちにぽつりぽつりと雨が降り出した。

わたしは母と目線を合わせ、努めて明るく笑ってみせた。



「もう大丈夫。お母さんもわたしも、神代巫女にはならないよ」


「……朔」


「空木村との縁は、これでおしまいだから」



村人から否定の声は上がらない。あったとしても聞く気はなかった。

ね? とわたしが首を傾げると、母はぼろぼろと涙を流し力無く首を横に振った。



「……無理よ。……だって、どんなに逃げても追いかけてくるんだもの……」



震える手がわたしの腕を掴んだ。そしてもう片方の手で村人を指差して母がしゃくりあげる。



「役目をはたせって……、どこに行っても、いつまでも……っ。……こいつらが連れ戻しにくるのよぉ!!」



夜の雨に晒されながら、母は声を上げて泣き続けた。








      *







火事の炎は雨に打たれて急速に収っていく。

茫然自失の村人たちはそれぞれ帰りの途に着いた。

心身共に疲れ果てた彼らの足取りは緩慢だ。

冷たい雨は火の勢いだけでなく人々の体力も奪っていった。


その日は母と一緒に、照土家の屋敷の座敷牢に泊まった。


どんな事情があっても、母が御社を穢して皇都を逃走した罪人であることは変えられない。

わたしが母と同じ牢に入るのも特例中の特例で、雪根さんの援護に椿さんが折れる形で許可を出してくれた。


母は魂が抜けたようにぼんやりとして、話しかけても気のない返事が返ってくるばかりだ。


着替えを手伝い、簡単な食事を済ませる。

元々あった座敷牢の布団は外に出して、来客用らしいふかふかなものに取り替えた。


見張りに立つ華闇の男性に言って、廊下の電気を消してもらう。

暗がりで母と同じ布団に入る。こうして寝るのは何年ぶりだろう。



「おやすみ、お母さん」


「…………ん」



ふたりで身を寄せ合う。こわばっていた母の体から次第に緊張が解けていった。








夢を見た。


真っ暗な世界。

歌を口ずさむ女性が、手の中のものを愛おしいそうに撫でる夢。


わたしは背中の丸まった年老いた女性をなんともなしに眺めていた。

ゆっくりとしたしらべの、寂しい歌が耳に届く。


しばらくのあいだ聞き入っていると、不意に女性は歌うのをやめて静かに顔を上げた。


見つめられて、息を飲み込む。

彼女の容姿は母ととてもよく似ていた。


驚くわたしへと、彼女は手に持つ何かを差し出してきた。



戸惑いながらもそれを受け取ろうとした瞬間——。




闇が薄らぎ、夢は終わった。









目を覚ました時にはもう、夜はとっくに終わっていた。

わたしと母以外の人たちは既に起床しているようで、注意を向けなくても屋敷全体から慌ただしく動く気配が伝わってきた。

寝床を抜け出し、隣に眠る母に布団を掛け直す。よく眠っているようで、母が起きる様子はない。


音を立てないよう慎重に移動し、見張りの人に頼んで座敷牢の鍵を開けてもらった。



「おはよう、朔」


「おはようございます」



屋敷の庭に出ると、縁側に啓斗さんがいた。



「肩のそれ、痛そうだけど大丈夫?」


「平気です。見た目ほどたいしたことはありません」


「そう、ならよかった」



縁側のふちに腰掛けて足をぶらぶらと揺らす啓斗さんは、華闇の人たちを観察していた。

袴装束の彼らは様々な押収品を屋敷から運び出し、玄関前の大型車に積み込んでいく。



「信じられる? あの人たち、夜通しで作業してるんだよ」


「……えぇ?」



さすがにそれはないのではと、わたしも啓斗さんの隣に立って様子を窺う。

黙々と仕事をこなす彼らの近くには、目の下に隈を作った恵理の夫の姿があった。ふらふらになりながら華闇の監査に立ち会う男の目は細く、今にも目蓋が落ちてしまいそうだ。



「後でさ、雪根さんにお礼言いなよ」



複雑な心境で彼らを見つめるわたしに、啓斗さんが告げた。



「夜の山道は危険だから、村への到着は朝になってからにしようって、華闇と合流した時に話し合ってたんだ。それを雪根さんが、だったら自分は先に行くって言って、強引に予定を変更させた。……雪根さんがいなかったら、間に合ってなかったと思う」


「俺が何って?」



蔵のほうから雪根さんが椿さんとともに歩いてきた。



「朔、おはよう。よく眠れた?」


「はい。……あの、ありがとうございます」


「うん? 何が?」


「その……、いろいろ……」



感謝することをあげ出したらきりがない。


助けに来てくれた。人殺しになろうとしたわたしを止めてくれた。母を守ろうとしてくれて、……ずっと、わたしの味方でいてくれた。


どれから伝えればいいのかわからず、声が詰まった。



「雪根さんがいたから村に早く来れたって、朔に言ったんだよ」



見かねた啓斗さんが口を挟めば、雪根さんはなぜか不機嫌そうにむっとした。



「余計なこと言わないでよ」


「何それ? なんで? 訳わかんないんだけど」


「……まったく、お嬢さんを困らせてどうするのですか」



やれやれとばかりに椿さんは肩をすくめ、わたしへと体を向けた。



「おはようございます。お母様はお休みですか?」


「はい。母は、まだ……」


「そうですか。じきに迎えが参りますので、あなたは少しでも側にいてあげては」



そうだ。

母は今日、御社を穢した罪で華闇総本山へ連行される。

母の生い立ちや事情は、裁きの際に考慮されるはずだと椿さんはわたしに言った。

それでも、犯した罪は償わなければいけない。



「あのっ。少しだけ、昨日火事があったところに行ってもよろしいでしょうか?」



予想外の頼みだったのだろう。

椿さんはきょとんと目を丸くした。



「あら? こちらは構いませんが——」


「いいよ、朔。俺も一緒に行く」



椿さんの言葉を遮り、雪根さんがわたしの手を引いた。


後ろを見ると鬼の形相の椿さんが無言で雪根さんを睨んでいる。

その傍らで、呆れ果てた啓斗さんがわたしたちにひらひらと手を振った。







空木村の集落は民家の多くが一本の道沿いに建っていた。家と家の間には田畑があり、隣同士の間隔はとても広い。

上り坂になった道を雪根さんと進んでいると、家の前をほうきで掃除する女性と会った。

彼女はこちらに気づくと手を止めて、疲れた顔で頭を下げる。



「旦那から昨日のことは聞いたよ。……ほんと、照土の当主さまのわがままには、わたしらもほとほと困ってたんだよ」



いつか大変なことになるとは思っていたと、彼女はため息混じりに続けた。



「……愛里ちゃんも、神代巫女のお役目がそんなに嫌なら、わたしらに相談してくれたらよかったのに……」



彼女がなんの気なく言ったその言葉に思いのほか胸を抉られた。



「……母は相談できましたか?」


「え?」


「照土家を恐れず、母を助けてくれる人が、母の暮らしていた当時の空木村に存在したのですか?」



わたしの問いかけに女性の目が泳ぐ。



「……ま、まぁ、終わったことをぐちぐち言っても仕方がないね。照土のお屋敷は叩けば埃が出るだろうし、うちもこれからのことを考えないと」



彼女はぞんざいに箒を動かしながら、そそくさと逃げるように家の敷地へと入っていった。





火事で倒壊した家屋の裏に、これまた炎に焼かれて屋根が落ちぺしゃんこになった建築物があった。


それらの横を通り過ぎ、さらに奥を目指す。

目的地は昨晩うっすらと火の手が見えた地点だ。


照土家の別邸。裏の建物。そして山に入ったところの何か。

この三つに火を放ったのはおそらく母だ。

神代巫女と関係のない場所を燃やすとは思えなくて、そこにあるものを確かめたかった。



……いや、確かめるんじゃない。


きっと何かがあると、強い確信を抱いてここに来たのだ。




別邸の裏庭から舗装されていないぬかるんだ道を奥へと歩く。すると、木々が開けた先、雑草が生い茂る場所にぽつんとひとつ、焼け焦げた小屋があった。


屋根は崩れ、四隅の柱を残して壁もなくなったその小屋を見て、なぜだか胸が締め付けられた。


小走りになってさらに近づき、焼け跡を凝視する。

初めて来たのに、とてつもない既視感がして心臓の鼓動が速くなった。


わたしは知っている。


夢の女性はここにいたんだ。



「……渡したい物は、どこですか?」



問いかけに応えるかのように、強烈な存在感が届いた。

導かれるまま焼けた材木をまたぎ、土間に倒れた貯水用であろう大きな壺をどかす。

手頃な石を使ってしめった土を掘ると、すぐに小さな木箱が顔を出した。


土中で朽ちかけた木箱の蓋を開けば、元は白かったであろう、黄土色に変色した布が入っている。

ぼろぼろの布を丁寧に開いていくと、夢の女性の心にたどり着いた。



「——雪根さんっ」



手のひらに乗せたそれを雪根さんに見せる。



「これって……」



顔を近づけてそれに見入った彼は、直後はっと息を飲み込んだ。



「行こう! まだ間に合うよ」



走り出した雪根さんのあとを追い、母の元へと急いだ。


坂道を全力で駆け下りる。

戻った照土家の本邸前には、出かけた時よりも車の数が増えていた。


両脇を華闇の人に固められ、母が扉の開いた車に乗り込もうとしている。

足の遅いわたしが到着するまで、先に行った雪根さんは袴装束の人たちを足止めしてくれていた。


本当に、何から何までこの人は……。


雪根さんは乗り口の前で通せんぼをして、近くに立つ椿さんと睨み合う。

母はそれを無気力に見ているだけだ。



「お母さんっ、……待ってっ」



肺に空気が足りない。どうにか叫ぶと母がわたしに気づいた。


一団に駆け寄るわたしを華闇の人たちは警戒したが、椿さんが鶴の一声で抑えてくれた。



「……お母さん、あのね……。昨日の、照土の別邸の奥で……。……小屋みたいな建物で見つけたの。……これ……、たぶん、おばあさんからだと思う」



息継ぎの合間に言い切って、両手首を縛られた母の手のひらにそれを置いた。



「…………これ」


「よく見て。……ちゃんと、お母さんの名前が書いてる」



それは円環の形をした二つの守玉だった。

最初に母が持っていた物と同じくらいの大きさの藍色の石と、それより小ぶりの朱色の石。

それらは重なるように木箱に入れられ、小屋に隠されてあった。


二つの守玉の、藍色のほうの石には、中に名前が刻まれていた。

艶があるだけで決して透明ではない石の内部に、不思議と見える、——その名前。



揺れる文字で、しかしはっきり。


母——あいりの名が。


「愛里」ではなく、「藍梨」と。



「おばあさんは、お母さんが村から解放されるのを、ずっと望んでた」



渡せない守玉に祈りを込めて。


ひとりずっと、あの小屋で。


この閉ざされた村の中で、祖母だけは、母の幸せを願っていた。



守玉を持つ手を母は胸元に寄せた。

自身の手の中に向けて、彼女は震える唇を開く。



「……お母さん?」



目から涙を溢れさせ、母はその人のことを何度も呼んだ。



「お母さん……っ! お母さん!!」



華闇の人たちは誰も、母に先を急がせようとはしなかった。





やがて日は高く昇る。

昨日の喧騒が嘘のように村人たちは息を潜め、集落はとても静かだった。


ひと気のない道を走り出した華闇の車を、雪根さんと啓斗さんと見送る。


母は華闇総本山へと連行された。



祖母の守玉を、その手に握りしめて——。









      ◇  ◇  ◇








潜伏先の別荘にて。

奥園礼司は窓の外に広がる海を眺めていた。


安定期の海は常に穏やかで見通しがいい。

しかしどれだけ目を凝らしても、大陸ははるか遠く、肉眼で捉えることは不可能だ。


まだ見ぬ理想郷に思いを馳せ、男はひとり、外つ国の萄酒をグラスに注ぐ。

そして透明の薄いガラスでできたワイングラスをくるくると回し、芳醇な香りを楽しんだ。


鳳の連中は必死にここを探しているだろうがもう遅い。


彼らがこの場所を見つけるより先に、自分は日の元を離れるのだから。





お膳立てはした。



次はあなたが、わたしの願いを叶える番です。








      ◇  ◇  ◇








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