21.母(上)
幸せにならなきゃいけない。
◇ ◇ ◇
弟が死んだ。
従姉妹の恵理に手を引かれて散歩に行ったきり、夜になっても帰ってこなかった。
夕方ひとりで帰宅した恵理は、わたしの弟などとは出かけていないと主張した。
行方不明になった弟は、三日後に川の下流で遺体となって見つかった。
享年四歳。ひとりで川遊びをしていたら誤って流されたのだろうと、弟の死は事故として処理された。
田植えの時期だから、恵理と弟が共に歩いている姿を目撃した人がいるはずだ。そう考えて、その日のことを聞いて回った。
しかし村人は硬く口を閉ざし、証言者は誰一人として現れなかった。
わたしは叔母にこれ以上おかしな噂を広めるなと叱られ、罰として一晩蔵に閉じ込められた。
照土愛里。
わたしの名前は、生まれるずっと前から決まっていた。
お前は空木村の神代巫女を継ぐ者だと。照土家はそのためにお前を養育しているのだと、わたしは幼い頃より何度も言い聞かされてきた。
村をまとめる当代の神代巫女である母は勤めに忙しく、子供を育てる余裕がない。
そういった理由から、わたしと弟は赤子の時より母の妹が当主を務める、照土の家で育てられた。
わたしは母と言葉を交わしたことがない。
いつも年中行事で村人たちが集まる儀式の際、神事を執り行う母を遠くから見ているだけだった。
母はわたしたちの母でなく、村のために在る。
だから絶対に彼女の邪魔をしてはいけないと、母に会いに行くのは叔母に厳しく禁じられていた。
たとえ遠い存在であっても、わたしには母がいる。
いずれはわたしが、母の跡を継いで神代巫女になるのだ。その意識だけがわたしにとって会えない母との、唯一の繋がりだった。
照土の家にはわたしと同じ歳の恵理がいた。当主である叔母の娘だ。
仕方がないのかもしれないが、神代巫女の子であるわたしと弟が照土の家で受ける待遇と、娘の恵理の待遇には明らかな格差があった。
扱いの差は家の中だけにとどまらない。
村人は恵理を総出で可愛がり、わたしに対していつも冷たい。
弟への対応はどこかよそよそしかった。
そして「ねえちゃん、ねえちゃん」とわたしに懐いていた弟が死んでからというもの、村人たちは以前にも増して恵理の顔色を窺うようになった。
中学卒業までは照土家で奉公人と一緒に育ち、高校は恵理とともに山を超えた先にある街の寮に入った。
高校でも恵理には召使いとみなされ、その扱いは徐々に同級生たちへと伝播していく。
使いっ走りに甘んじるわたしに、寮母さんはあまりいい顔をしなかった。
「自分のことは自分でさせなきゃ」と口を酸っぱくして言われたけれど、恵理の命令は絶対だ。背けば空木村に帰った時、叔母に折檻される。
逆らうという選択肢は、最初からなかった。
そんなわたしに転機が訪れる。
高校一年の冬、寮でぼや騒ぎが発生したのだ。
火元となったのは恵理の部屋で、出荷の原因は煙草の不始末だった。
消火のために大人たちが立ち入った部屋からは、恵理が隠してあった飲みかけの酒瓶が見つかった。
普段の素行の悪さに加えて飲酒と喫煙が決定打となり、恵理は高校を退学になる。
恵理が学校を去るとき、叔母はわたしも一緒に高校を辞めさせようとした。
しかし寮母さんと学校関係者が連携してくれて、わたしは高校に残ることができた。
照土家は神代巫女に次ぐ空木村の絶対的な支配者だ。そんな彼らの影響力も、村の外の世界ではほとんど通じないことを知れた。
恵理がいなくなってからの高校生活はこれまでにないほど自由だった。
わたしの行動を遮る者はおらず、勉強に集中できた。
寮母さんも、率先して寮の手伝いをするわたしを可愛がってくれた。息子が使っていたという参考書や、使いさしでまだ白紙が残っている帳面を譲ってもらうこともあった。
知らないことが知れるのは楽しい。
遊びよりも、とにかく勉強に打ち込んだ。
成績は右肩上がりになり、一年の最終考査で学年一位を取ってからというもの、同級生は誰もわたしをからかわなくなった。
ひたすらに勉強して、勉強して……。
高校三年の進路相談の時に、先生に皇都にある皇立院大学の地方推薦を受けないかと勧められた。
毎年一人、各地方で選出された成績優秀者は、皇立院大学に推薦で入学できる制度がある。
成績の維持が条件ではあるが、地方推薦者は大学四年間の学費も免除される。
大変名誉なことなので、学校側としてもぜひ推薦を受けてほしいとのことだった。
正直、どうすればいいのかわからなかった。
高校を卒業したら、わたしは村に戻り神代巫女としての修練を受ける心づもりでいたからだ。
皇都の大学に興味がないと言えば嘘になる。しかし課せられた役目を放棄してまで、大学に進学するのは躊躇われた。
学校側に素直にわたしの気持ちを伝えたら、先生たちはこの時代に日の元の未来を担う若者の可能性を、村の因習で潰すべきでない。保護者に説得してやると息巻いた。
神代巫女の後継を外へ出すのを渋る者と、先生の勧めに賛同する者——、空木村の意見は二つに割れた。
皇都の大学に推薦されるほど優秀な子が空木村から輩出されれば村としても鼻が高い。そう思う村人たちが意外と多かったのには驚いた。
期日の直前まで悩んだけれど、最後はわたしも大学への進学を希望した。
そのころには反対者が少数になっており、当代の神代巫女であるわたしの母はまだまだ元気だから、行っても大丈夫だという意見が大半を占めていた。
村人の意見を無碍にできず、最終的に叔母の許可が降りた。
大学に行ってもう少しの間、照土の家から解放されたい。そんな下心も確かにあった。
だけどなにより自分の優秀さが目に見える結果として得られたことで、立派に育ったわたしのことを会えない母に認めて欲しかった。
高校を卒業し、皇都へ旅立つ日を指折り待つ。
そんなある日の早朝、わたしは家を抜け出しこっそり母へ会いに行った。
母は神代巫女の居殿で暮らしている。
集落の端、照土家の別邸の敷地を通らなければ行き着けないところだ。
別邸の裏手には神代巫女が村人の前で舞うためのお堂があり、そこから細道を山へ入れば、母が寝食をする居殿があるはずだった。
照土家の別邸は本家に近い親族が住み、村人が神聖な神代巫女へ悪さをしないように四六時中見張っている。
居殿へは正規の道ではなく、朝の薄暗い山道を遠回りした。
神代巫女が住まう——居殿。
名前の仰々しさから、わたしはとても大きくて見た目も素晴らしい建物を予想していた。
しかし聞いていた場所にあったのは、木のない開かれた土地にぽつりと建つ、木板で組み立てられた小さな小屋だけだった。
本当に、母はここで暮らしているのか。
戸惑いながら木の陰に隠れて様子を窺っていると、小屋の扉が開き白装束の女性が出てきた。
神事の時に遠目でしか見たことがない。
しかし間違えるはずがない。
あの人は神代巫女、——わたしの母だ。
「あ……、あのっ」
木々の間から飛び出したわたしを母は表情のない顔で一瞥する。そして何も言わず、そのまま山奥へ行こうとした。
「あっ、お母さん……」
呼びかけても、母は振り返ってくれない。
「お母さんっ、……あのね、わたし……、皇都の大学に行くの」
くじけそうになる自分を叱咤して、言葉を紡ぐ。すると母の足が止まった。
話に興味を持ってくれた。希望が芽生えて、さらに口を開いた。
「高校の勉強を頑張って、地方でひとりだけ選ばれる、推薦がもらえたんだ」
母がゆっくり振り返る。
大きく開かれた目が、わたしを見つめた。
「……あいり?」
「うん」
弾かれたように母がわたしの元へ走り、わたしも母へと足を動かす。
母はその細い腕から想像できない強い力でわたしを抱きしめた。
やっと会えた。母にわたしを見てもらえた。
話したいことがたくさんあるのに、用意してきた言葉が出てこない。
「村を出るんだね?」
間近で聞けた母の声に、感極まって頷いた。
でもちゃんと、大学を卒業したら戻ってくる。
わたしも母のような、立派な神代巫女かじろみこになるからと言おうとした。
母が抱擁を解き、真剣な表情でわたしの両頬に手をそえた。額がくっつくほどに顔が接近し、驚きで言葉が引っ込んだ。
充血した目でわたしを凝視しながら、母は喉の奥から声をひねり出した。
「いいかい、よくお聞き。村を出たら、絶対に、二度と空木に帰ってきてはいけないよ」
「……え?」
どういうことかと聞き返すより先に、母は早口で続ける。
「もうここにも来ちゃいけない。誰が見ているかわからないからね。……わかったらお行き」
呆然とするわたしを置いて、母は山の奥へと行ってしまった。
もっと喜んでもらえると思っていたのに。
期待はずれ。なんて言い方は良くないとわかっている。
母には母の事情があるのだ。忙しいところを邪魔してしまったのかもしれない。
そう何度も自分に言い聞かせた。
そうでも思わないと、やってられなかった。
大学進学のため村を出る前日、わたしは再び密かに居殿を訪ねた。
母は不在だったので、持参した便箋と封筒を小屋に置いて「もしよかったら手紙をください」と書き置きを残して立ち去った。
封筒にはあらかじめ切手を貼って、わたしがこれからお世話になる下宿先の住所を記入しておいた。
前回会いに行った時、母はわたしを抱きしめてくれた。嫌われているわけじゃないと思う。
人前で会うのが憚られるなら、手紙で母とやりとりできないかと考えたのだ。
翌日、恵理に最後まで嫌味を言われながら、わたしは空木村を発った。
*
皇都での暮らしは全てが新しい体験だった。
大学へ通い、わたしの世界はさらに広がっていった。
空木村でいうところの照土家を頂点とした、階級社会は大学内でも見られたものの、わたしを田舎の出身だからと表立って差別する者はいなかった。
それでも学内の派閥や同級生の繋がり、旧家の影響力など、新たに直面する社会の仕組みに最初は苦労した。
幸いにも皇都育ちの世話焼きな友人に恵まれ、彼女の紹介で男性とのお付き合いも経験できた。
大学内でも民俗学の教授と仲を深めた。わたしは教授に空木村の生活様式や村の社会体制、神代巫女について話す代わりに、教授から地方と都市部の暮らしの違いを教えてもらった。
大学生活はとても有意義で、忙しい日々はあっという間に過ぎていく。
皇都でたくさんのことを知れば知るほど、いずれ空木村に帰らなければならない事実が苦痛になっていった。村を出るときに書かされた誓約書が、今となっては恨めしい。卒業後の就職先に迷う友人たちが、とても羨ましかった。
大学三年に進学した春、空木村から手紙が届いた。
既視感のある封筒に書かれた差出人は叔母の名前で、文字を見ただけで気分が沈んだ。
読まないわけにもいかないので嫌々ながらも封を切る。
封筒には手紙の他に何かが入っているようで、下のほうに厚みがあった。
開け口を逆さにすると、ころんと石が落ちてきた。円環の形をした、艶のある藍色の石。真ん中に空いた穴には組紐が通されている。
何の石かわからず首を捻りつつ、手紙を開く。
——愛里へ。
その一言から始まった手紙を書いたのは、叔母ではなく母だった。
既視感の正体に気がついた。
そうだ、思い出した。これは自分が母の住む小屋に置いてきた封筒と便箋だ。
送り主が母だとわかり、急に背筋がぴんと伸びた。
どきどきしながら、母の書いた文字に目を通す。
最初に綴られていたのは、叔母の名を騙った理由だった。
母の名前で送ると、わたしの元へ届かない可能性があるからだと書かれていた。
それに続いて、母はわたしに神代巫女の実態を教えてくれた。
神代巫女は照土家の繁栄と空木村を存続するために在る、村の統治者とは名ばかりの奴隷である。
村の神事の執行と、次代の神代巫女の血を残す役目を課せられ、何代にも渡り照土家によって管理されてきた。
母はずっと、神代巫女の在り方に疑問を持っていた。
だからわたしが産まれて間も無く、母は一度、照土の屋敷からわたしを攫って村を逃げ出したことがあるらしい。
その時、山ひとつ超えた先にある華闇の御社を頼ろうと戸を叩いた。
しかし出てきた土地守りは、「神代巫女の土地に華闇は干渉できない」と言って、母と赤子だったわたしを照土家へと引き渡したそうだ。
神と人を繋げる華闇は、神代巫女が治める土地に関心がないと母は綴っていた。
手紙には照土家についても書いてあった。
空木村を治める照土家は、神代巫女の産んだ第二子が代々の当主となり、神代巫女を管理する役目に就くのが古来からの慣例だった。
しかし母の産んだわたしの弟——優也の事故死によって状況が変わり、次の照土家の当主は恵理となった。
唐突に理解する。
優也が存命なら彼が次代の照土家当主になり、恵理は他家へ嫁ぐはずだった。
だからあの女は照土家の恩恵欲しさに優也を殺したのだ。
しかも恵理の母親である叔母も、娘の犯行を知っていながら、口裏を合わせて事件をもみ消した。
手紙を読み進めるにつれ、頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。
これを知って自分にどうしろと?
母がこれを寄越した意図がわからず、手紙の文字が涙で滲んだ。
隙間なく言葉が敷き詰められた便箋をめくる。
三枚目には、もしもわたしが村の外に生きる場所を見つけられたなら、二度と村へは帰ってくるなと。あの時母に直接言われた言葉を彷彿させる文章が記されていた。
自分は健康面でも問題なく、当面は神代巫女としての勤めを果たせる。自分が神代巫女の座に収まっているうちは、村の者も焦ってわたしを連れ戻そうとはしないだろう。
その間に村の外で生きるすべを見つければいい。
何があっても、絶対に空木村へ近づいてはいけない——と。
……だけどもし、村の外の空気がわたしに合わず、ひとりで生きることが難しいなら、その時は村に帰ってこい。
空木村には少なくとも、わたしが存在する意義がある。何かを考える必要もなく、村の中では生きていける——とも。
母親らしいことは何もできない。
お前に与えてやれるのは時間だけだ。
自分は少しでも神代巫女として長生きしてみせる。
だからお前はその間に、たくさん考えて、己の力で幸せを掴みなさい。
同封したお守りは肌身離さず持っていろ。
必ずお前を守ってくれる。
——訃報を聞いても決して戻るな。
母の手紙はその一文で締め括られていた。
わたしはどうするべきなのか。
当然のように敷かれていた、神代巫女になるための道ががらがらと崩れていく。
皇都で過ごすようになってから、わたしが照土家で受けた扱いに疑問を持つようになったのも事実だ。
すぐそこに実の母がいるのに、会わせてすらもらえない。
照土家を中心とした村の在り方は外から見ればどこか歪で、都市の常識からかけ離れていた。
空木村の空気は他と違う。
漠然と抱いていた違和感は母の手紙によって明瞭になり、わたしはまた選択を迫られた。
大学卒業後、誓約書通りに空木村へ帰るか、否か。
誓約書とはいえ、あれは公的なものでない。
破ったところで法的に裁かれることもなければ、村の外では紙切れ同然の価値しかないのだ。
監視がいない今なら、未来をわたしの意思で決められる。
皇都での生活は、村より楽しい。
神代巫女の誓約さえなければ、あんな村に帰りたいと思えない。それぐらいに、大学生活は充実していた。
藍色の石と一緒に、母の手紙を握りしめる。
母は村や照土の繁栄よりも、わたしの自由を求めている。
ならば選択に、迷いはなかった。
◇ ◇ ◇




