20.闇の寵愛(下)
太陽が沈み、夜の帷が下りた。
「——っ!?」
蔵の様子を見に来た恵理の夫は、中の異常を察して入り口で身を固くした。
扉の前にたたずむ男へと、静かに口を開く。
「照土家当主との交渉を要求します。呼んできていただけますね」
「……あ、……ああ」
動揺した男は小刻みに頷いて来た道を戻った。
屋敷がにわかに騒がしくなる。
しばらくすると、複数の気配がバタバタと足音を立てて蔵へと近づいてきた。
鎌を持つ手に力が入る。わたしの下で優磨がひぃ、と小さな悲鳴を上げた。
「なっ……、どうなってんだ!?」
「なんだこれはっ」
蔵の入り口周りが騒然とし始めたものの、誰も立ち入ろうとはしない。
真っ暗の蔵の中へ懐中電灯を向けるも一切の光は通らない、不可思議な現象に皆の足がすくんだ。
視覚は一切頼れない。しかし目は使い物にならないというのに、扉より外へ漏れ出る闇が、彼らに内部の情報を伝えていた。
彼らは蔵の中でわたしが何をしているかを、見えなくても鮮明に理解しているようだ。
生まれて初めての感覚なのだろう。わけがわからず、信じられないとばかりに集まった多くの者が自分の頭を抱えた。
そんな混乱をかき分けて恵理が前に出る。
「どいとくれ! 何よこれ……。なっ……優磨!!」
「入らないで」
うずくまる息子を目の当たりにして取り乱した恵理を低い声で制する。
「蔵に足を踏み入れたら、わたしはこの人の首を切ります」
「待ちなっ! 早まるんじゃないよ」
「それはあなた次第です」
優磨の髪を引っ張り顔を上げさせると、喉の奥から苦しそうなうめきが漏れ出た。
顔を青くした恵理が近くの男にすがる。
「おやめ! やめさせとくれよ!!」
すがられた男はどうしていいのかわからず、困惑して周りの者に助けを求めるが、皆があからさまに視線を逸らした。
痺れを切らした恵理は男を突き飛ばし、蔵の入り口に立つ。
「やめとくれ! 優磨を傷つけないでっ」
「助けたいなら言う通りにしてください」
努めてゆっくりと、恵理のいる方向を見据えてわたしは言葉を続けた。
「金輪際、わたしと母に関わらないで」
「わかった、わかったからっ」
「でしたら今すぐ次代の神代巫女を選出して、その者に母が書いたものと同じ誓約書を書かせ、ここに持ってきてください。誓約書と交換で、わたしはこの人を解放します」
外は水を打ったように静まり、恵理たちはぽかんと固まった。
こちらの要求が理解できなかったわけでもあるまい。
「あなたの母親が神代巫女になれたのだから、空木村に、他に候補がいないとは言わせません。口約束は信用できないので、今すぐこの場で、その身を空木村に捧げる神代巫女を決定してください」
言い放った言葉に蔵の前に集まった者たちは、こちらを注視していた目を次第に泳がせた。
やがて全員の目が、恵理に向けられる。
「……な、なに? ……いやよ。あたしは嫌よ!!」
女は蔵の入り口を背にして周囲に唾を飛ばす勢いで捲し立てた。
「あたしは照土の当主なんだよ。神代巫女の監督に回らなきゃならない立場なの! そのためのやり方を母からたくさん教わってきたんだから……」
口調がだんだんと弱くなる。
うろたえながら恵理は背後に目をやりわたしを窺ってきた。
「次代はいない、ということですね。残念ですが、交渉決裂です」
ならばわたしも覚悟を決めよう。
「ま、待って! ……そうよ、娘二人のうちのどっちかに継がせるから。今は高校の寮に入っていていないけど、卒業したら必ずっ!」
「そうですか。ではあなたの娘のどちらに継がせるかを決めて、その子をここに連れて来ればいい。そして誓約書を書かせてわたしに渡してください」
「だから、娘はこの村にいないんだって!」
「遠方からわたしを連れてくる行動力があるなら、どこからでも連れ戻せるでしょう。期限は夜明けまでです」
一切の譲歩を示さないこちらの姿勢に、集まった人たちだけでなく、わたしが背中に膝を置いた優磨も愕然とした。
声にならない声を上げ、体の震えが激しくなる。
その姿を哀れだと思えないわたしは、おそらくどこかがおかしくなってしまったのだろう。
「まあ、地面はとても冷たいようなので、時間切れまでこの人の体力がもつかは知りませんが。最悪凍死もありえるので、それも覚悟しておいてください」
睨み合いは続く。
やがて張り詰めた緊張感に慣れてきた者たちが、気まずそうに互いの顔を見合わせだした。
「……一旦、恵理さんが継ぐことにしたほうがいいんじゃないか?」
「そうだな。じゃないと優磨くんが……」
空気が変わった。
皆が口々に次代の神代巫女について検討を始めた。
これに慌てたのが恵理だ。
「馬鹿言ってんじゃないよ。あたしが神代巫女なんかになったら、照土家はどうすんの!?」
詰め寄られた男は居心地悪そうに視線を背ける。
「……つってもなあ。優磨くんも成人したし、照土の家には正樹さんもおるだろう?」
男の意見に反対する者はいない。——恵理以外には。
「あんたっ」
恵理は必死でそばにいた自身の夫に助けを求める。
すがられた男は口を開かず、妻へと首を横に振った。
額に手を当てた恵理が後ろへとよろめく。土気色の顔でこちらを見る彼女の視線を悠然と受け止めた。
母親の葛藤を目の当たりにし、とうとう優磨が泣き出した。
「……母さん、助けて。頼むから言う通りにして……。こいつ、人間じゃない。……バケモンだ……。俺……、ほんとに殺されるっ」
「……そうですね」
確かにわたしは人間じゃない。
でもそれはあなたたちも同じ。
欲深くて、自分のことしか考えてなくて、他人を簡単に踏みつけられる。
人間も妖も——やっぱりみんな、大して変わらない。
ここの人たちが神代巫女を使って自分の村を守りたいのと一緒。
わたしにも、たとえ誰かが不幸になるとわかっていても譲れないものがある。
大切なことなんて、人の数だけ変わってくるから。
当然、人の命にだって優劣はつけられる。
「目的のためならあなたの命を踏み潰せる。どうやらわたしはそんな化け物のようですが……、あなたに化け物呼ばわりされるいわれはありません」
ひゅっと、優磨の喉が鳴った。
「ま、待って! 頼むから落ち着いておくれっ」
外から懇願の声がかかる。
言われなくても落ち着いているし、おそらくこの場で一番冷静なのはわたしだと思う。
「わたしの要求は伝えました。後をどうするのかは、そちらで好きに決めてください」
……なんとかあの子を宥められないか。
やっぱり恵理さんが……、いや、でも。
この際、優磨くんを諦めるというのも……。
そうだなあ。あの子が第二子を産みさえすれば、照土家はそっちに……。
近場の者同士が口々に囁き合い、膠着状態のまま時間が過ぎる。
今のところ高校の寮にいるという恵理の娘を迎えに行く者はいないみたいだった。
おそらく、次に大きく動いた人によって、場の流れは決定する。
しかし現状は皆がその一歩を踏みとどまり、誰かに変化を願うばかりだ。
果たして恵理はどうするのか。
じっと待っていると屋敷の外から、風が吹いた。穏やかさの中にざわめきを含んだその風は、庭のくぐもった空気にかき消されることなく、わたしに彼らの存在を教えてくれた。
「……うそ」
微かに感じる見知った気配に目を見張る。
彼らがここに来られるはずがない。
だって、今は安定期の真っ只中で、御社も大変なことになっているのだ。
気配が鮮明になっていくにつれて目頭が熱くなった。
雪根さんと啓斗さん。二人とも無事だったんだ。……じゃあ、明将さんは?
わたしの戸惑いが伝わり、膝の下で優磨が身じろいだ。
直ぐに気を取り直し、髪を掴む手に力を込め直す。
揺らぎかけた自分を叱咤する。
そっちを気にするのは後でいい。
「なんだっ、あんたらは……」
「どいて!」
十人ほどの乱入者が、蔵の周りに集まった者たちの間を縫って近づいてくる。照土家の庭に騒がしさが増した。
「朔!」
「来ないで!!」
先頭を突き進み、勢いのまま蔵に飛び込みそうだった雪根さんを叫んで止める。
蔵の中に反響した声に外の人たちの喧騒も鎮まる。
雪根さんは無言で恵理を押し退けて、蔵の入り口に立った。
「誰であろうと、蔵に入ればこの人の首を切ります。状況が変わったところで、わたしは主張を変えるつもりはありません」
「……朔、もう大丈夫だよ」
屈んでわたしと目線の高さを合わせた彼は、そっと手を差し出す。
無理だ。わたしにその手は掴めない。
「なんなのさあんた。……早くっ、早く息子を助けとくれよ!」
「ちょっと邪魔しないで。あっち行ってて」
雪根さんにすがろうとした恵理を啓斗さんが遠ざけた。
その間も雪根さんはわたしを見つめ続ける。
「大丈夫じゃない。……終われません」
ゆっくりと首を横に振る。
助けが来たからよかったと、それで済ませてはいけない。
今ここでわたしが決着をつけなければ、いつまで経っても終われない。
「たった一日居ただけで、どうして母がこの村から逃げたのかがよくわかりました。わたしはずっと母に守られて、隠されて……何も知らずにぬくぬくと生きてきた」
わたしが受けているのは、無知の報いだ。
知ってしまったら、もう逃げてはいけない。
「わたしがここで断ち切らないと、空木村からは解放されないんです!」
雪根さん、啓斗さんにも、本当に言いたいのはこんなことじゃない。
来てくれたことが嬉しい。
無事でよかったって、伝えたいのに……。
ああもう。
やり遂げなければと、さっきまでみなぎっていた使命感が崩れかけている。
どうしてわたしの意志は、こんなにも弱いんだろう。
「うん。わかった」
あっさり頷いた雪根さんが、中腰の体勢から膝を曲げて入り口にしゃがみ込む。
「じゃあ、ひとまず俺にも教えてよ。朔はここにいる人たちに、何を求めているの? なんなら俺も手伝うよ?」
雪根さんは、びっくりするほどいつもの雪根さんだった。
彼にはわたしが鎌の刃を首にかけている男が見えていないの? いや、そんなはずはない。
証拠に蔵の周りの人たちは雪根さんへ奇異の目を向けている。空木村の人、後から乱入してきた人と関係なく……、啓斗さんまで。
張り詰めていた空気感が、形容し難いものに変わっていく。
誰かの一歩で状況が大きく変化するのは予想できたし、身構えてもいたけどこれは……。
「……照土家からの、次代の神代巫女の派出です」
毒気を抜かれながらも答えれば、雪根さんは綺麗な顔でにっこりと微笑んだ。
「ん、そっか」
しゃがんだ体勢のまま雪根さんが後ろを見上げる。
雪根さんと共に駆けつけた女性が、彼の視線を受けて呆れ半分に頷いた。
「よかった。そんな面倒なこと、要求しなくていいって」
「……誰もそうは言ってませんがね」
雪根さんを半眼で見下ろす女性がぼそりとぼやく。それを見事なまでに無視し、彼はわたしへと振り返った。
「まわりくどい方法を取らなくても、華闇の管轄に収まっていない土地は、消してしまったほうが手っ取り早いよ」
爆弾発言に空木村の者からどよめきが走る。
「それができる華闇の偉い人たちも一緒に来てるから、この村ももう、次代の神代巫女について悩まなくていい。朔も村の人たちも、両方万事解決だね」
妙案だと胸を張る雪根さんに、恵理が目を剥いて飛びかからんとする。
「ちょ、ちょっと! あんた何勝手にっ!!」
「はいはい。あちらの話が済むまでは黙ってましょうか」
雪根さんの同行者の女性に強引に宥められ、さらには女性の同行者たちに恵理は取り押さえられる。
「放しなさいっ、放せっつってんでしょ!!」
「お黙りなさい。闇の方の前でこんなに騒いで……、なんて嘆かわしいのかしら。あなたとは後ほど嫌というほどお話ししなければなりませんので、この場くらいは大人しくしていてもバチは当たりませんよ?」
女性のおっとりした声には、妙な威圧感があった。
それを恵理も感じたようで、急に口を閉ざして静かになる。
「ね? 後はあっちに任せて、一緒に帰ろ。みんな心配してるよ」
雪根さんが蔵へと一歩。しゃがんだ足を前に出す。
中へと伸ばされた手に、迷いながらも握っていた鎌を差し出した。
指先に雪根さんの手が触れた途端、蔵を満たしていた夜よりも重い闇の気配が遠ざかっていった。
ちかちかと、棚に置かれた懐中電灯に光が戻る。
扉の外からも無数の白い光が蔵の中に差し込んできた。
一瞬で距離を詰めた雪根さんが躊躇なく優磨の頭を足で地面に押し付ける。
「ちょっと目のやり場に困るね。暗くてよかった」
わたしの作務衣の襟元を正し、雪根さんが首から上を後ろに向けた。彼が陰になってくれているおかげで、わたしは外の明かりを直接目に入れずに済んだ。
「啓斗、その帽子朔に貸してあげてよ」
「え? 別にいいけど」
啓斗さんが頭の帽子を外して蔵の中へと投げる。雪根さんは難なくそれを掴み、わたしに目深く被せた。
「よく頑張ったね」
「……深淵のみんなが、助けてくれて……。安定期なのに……」
「うん。闇がすっごく重かった。それだけ朔のことが大事なんだよ」
帽子の上から頭を撫でられる。
気恥ずかしさに俯いて、優磨の存在を思い出す。
二人でうずくまる男の上を退くと、彼は青い顔をした父親に引きずられていった。
肩の力が抜けて手が下がった。
するとすぼまった袖口をころんと硬いものが地面に落ちた。
咄嗟にしゃがんで拾い上げる。
それは紐でわたしの手首に括り付けていた、母の守玉だった。
藍色の円環の石は、なぜか二つに割れていた。
固定できなくなった守玉をぎゅっと手の中に握る。
無くさないようにしないと。これは絶対、母に返さないといけない。
雪根さんに連れられて蔵の外に出る。
いつまでも雪根さんの背中に隠れているわけにはいかないので彼の隣に並んだ。袖口を軽く引っ張られ、後ろにいていいよと示してくれたけど、そういうわけにはいかない。
顔を出したわたしに例の女性は穏やかに微笑む。
彼女を始め、雪根さんと一緒に駆けつけた人たちは皆袴装束であることに、視覚の情報を得られて気づいた。
「どうやらそちらは穏便に解決できたようですね」
女性は姿勢を正し、深々とこの場にいる者たちへと頭を下げた。
「では、改めて自己紹介を。中央霊山より参りました、華闇総本山・監督署勤めの椿と申します」
「……華闇……。……監督署?」
誰かが鸚鵡のように復唱する。
「はい。この度は抜き打ちの監査のため、はるばる空木村まで参りました次第です。そういうことですので、照土家の皆様にはしばしわたくしどもにお付き合いいただきます」
ぱんっ——、と小気味いい音が弾ける。
両手を合わせた椿さんはよしと意気込んだ。
「ではさっそく、華闇が空木の神代巫女へと毎年拠出している謝礼金の、使い道がわかる帳簿をご提出いただきましょう」
なんの話だと村人たちが首を捻るなか、華闇の人に抑えられていた恵理は目を泳がせた。
「土地守りに代わり孤島や僻地の神事を執り行う神代巫女には、華闇から毎年結構な額の謝礼金が送られております。そちらが神代巫女の、日の元への貢献に対する褒賞として相応しい使われ方がされているか、我々が責任を持って調べさせていただきます」
「……お金?」
神代巫女がいれば、華闇からお金が貰えるの?
「はい。こちらへはお金の話をしに参りました」
なんというか……、華闇といえば神様とか日の元の秘密とか、神性なものを連想するのに。
そういうのを差し置いて一気に話が俗っぽくなった。
椿さんは気まずそうに顔を俯かせた恵理の前に立つ。
「神代巫女、直近三代が勤められていた年の分も含めてお願いいたします。空木村との連絡役を務める御社より総本山に提出された報告と、内容に差異がないかも確認しますので」
「……そんなの、いきなり言われても出せるわけ……」
「おや、おかしいですねえ。給付を受けるにあたっての帳簿の記載と保管は義務ですし、華闇から送られる謝礼金は、代理人の照土家が受け取り神代巫女へと渡されるてはずでは」
「……そうよ。だから帳簿とかも神代巫女の居殿に置いてあるから、うちにはないの」
「ではその神代巫女の居殿とやらにご案内願いますか。すみませんねえ、わたしとしたことが。確か現在は神代巫女は不在だったはずですし、帳簿の管理はてっきり照土でされているとばかり」
てへへと無邪気な態度と裏腹に容赦がない。
そんな椿さんにつられて、恵理も歪な誤魔化し笑いを浮かべた。
「今から……? もう夜だよ?」
「はい、今すぐにです。ご案内いただけますね」
疑問形ではなく、決定事項として迫る椿さんから逃げるように、恵理はきょろきょろとあちこちに視線を送る。
息子は腰を抜かしていて、そのそばに立つ夫は虚な表情で妻に否と首を振った。
なおも諦めきれないらしい恵理がわたしを指差し睨んだ。
「そ、そそ、その前にだよ。そこの娘を捕まえなくていいのかい!? そいつはうちの息子の首に鎌を突きつけて脅してきたんだよ!」
「あらあら、それは大変でしたね。しかしあいにく御社の外で起こった事件事故は例外を除き、鳳の管轄となりますので……。華闇には関与する権利がございません」
わざとらしく眉を寄せた椿さんは、次の瞬間花が咲いたように明るくなった。
「ああでも、そちらのお二人は鳳・赤兎班の班員ですので、彼女はもう身柄を確保されたも同然です。どうぞ安心して、わたしとの話に集中してください」
この我が道を行くやり方は、雪根さんに通じるものがある気がするのだけど……、わたしの思い過ごしだろうか。
年は二十代中ごろか。秀麗な女性はころころと朗らかに笑いながら、じわじわと獲物を追い詰めていく。
「そうですそうです、わたしとしたことが忘れていました。ここより遠く離れた土地ですが、皇都の御社にて発生した襲撃事件に空木村の関与が疑われております。こちらは華闇の管轄なので、後ほど関係者は調べさせていただきます。当然、御社からの連れ去り事件もです」
周囲の戸惑いに一瞬椿さんの目が鋭くなるも、直ぐに穏やかな表情に戻った。
彼女が静かに怒っているのは、きっと気のせいじゃない。
「……すご」
啓斗さんが感嘆の声を上げた。
「あの人、一樹さんの弟子のひとりなんだ。蛇みたいに執念深いから、この件に関しては容赦しないだろうね」
出てきた名前にはっとして雪根さんを見上げた。
「一樹さんはっ」
「一樹さんは無事。……花歩さんが、治してくれたから」
彼はそれ以上何も言わない。全てを教えられなくても、どうなったかは察せた。
よかったと、素直に胸を撫で下ろせない歯痒さに唇を噛み締めた。
「——執念云々に関して、あなたにだけは言われたくありませんがねえ」
椿さんがこちらを——というよりも、雪根さんを睨み付け、低めの声でぼそりと言った。
「後は我々の仕事となりますので、律は早くそちらのお嬢さんの身なりを整えてあげてはいかがですか。こんなに冷えるところをずっと素足で……。まったく、いつまで経ってもあなたは気が回りませんね」
「あんな感じでぐちぐち言うのが好きな口うるさい人だけど、腕は確かだから安心して任せて大丈夫だよ。邪魔したら悪いし俺たちはいこっか」
暖簾に腕押し。糠に釘。
小言を意に介さない雪根さんに、椿さんは目を見開き無言で怒りを露わにした。
殺伐とした空気に空木村も華闇も関係なく、居合わせた皆が固唾を飲む。
ここで平然としていられる雪根さんは、やっぱり只者じゃない。
気を鎮めようと椿さんが大きく息を吐き出した。
「……そうですね。あなたが視界の範囲内にいると非常に気が散るので、どこでも構いませんからさっさと消えてください」
「言われなくてもそうする。朔の靴、どこかな? ないなら車のつっかけを持ってくるよ」
「えっ、と……」
そういえばわたしは靴をいつから履いてないのだっけ。
座敷牢に入れられた時にはもう素足だった。ならばおそらく、ここに連れて来られた車の中で脱がされたんだ。
昨日の今日で捨てられているなんてことはないと思いたい。
き慣れた靴だから返してもらえたらありがたいと、その旨を伝えようとした時だった。
握っていた守玉が、ぱきぱきと割れた。
感触に驚き手を広げると、藍色の石は粉々に砕けていた。
「朔、それ」
「母の守玉です。……でも、どうして」
胸騒ぎがして周囲を見渡す。
山の方面に、おおよそ夜に似つかわしくない光がゆらめいていた。
「火事だー!!」
同じ方角から聞こえてきた叫び声に、ここにいるはずのない人の存在を確信して血の気が下がった。
————お母さん……?




