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19.闇の寵愛(中)





      ◇  ◇  ◇





宮城の執務室で、雪根と明将、そして啓斗の三人は昨日行方不明となった朔の行き先を知らされた。


やっぱりかと思う反面、死者が出る規模の非常事態に便乗してまで朔を奪わんとする、空木村の者たちの神経を疑う。

助けに行ったとして穏便に連れ戻せるとは誰も思っていなかった。



「鳳の地区担当班の空木村駐在員は信用できないから連絡は入れねえ。代わりに動かせる適当な班を見繕い、鳳の本部経由で空木村の包囲を要請しておく。こっちはあくまで平和的に済ませられなかった場合の保険だ」



宮城がちらりと穂高に目配せする。

視線を受けた穂高は自然な所作で「承知いたしました」と腰を折り、鳳本部への連絡は彼が行うことで決まった。



「空木村の、特に神代巫女に関わる裏の部分については、華闇が嬉々として叩くだろう。俺たちが今回連携するのはそっちだが、うちの目的はあくまで朔の救出だ。ほかの面倒事は華闇に押し付けて構わない」



ならば朔の保護も華闇に頼めばいいのでは? というのが愚問であると、雪根たちは既に知っている。

全てを華闇に任せてしまうと、保護対象である朔まで華闇の総本山へ連れて行かれかねない。


赤兎班と華闇と。協力し合う仲ではあるが、それとこれとは話が別。宮城同様、華闇も優秀な人材確保に貪欲なのだ。



「安定期の真っ只中でうちも人員に余裕がない。助けに行きたいなら前たちでなんとかしろ。だが間違っても単独で動くな」


「……わかりました」



事務机を挟んで宮城の前に立っていた雪根は、隣に立つ明将に顔を向けた。



「アキは来なくていいよ。こっちの人手不足も深刻でしょ。俺一人で行ってくる」


「お前今の班長の話聞いてねえだろ」



間髪入れずに突っ込まれるが、雪根は平然と返す。



「華闇とは連携するよ。単独では動かない。だからアキは、花歩さんのそばにいてあげればいいよ」



花歩の名前を出されて明将が唸る。



「……俺がここにいたところで、花歩が目を覚ますわけでもない。何でもかんでも自分ひとりで解決しようとするんじゃねえ」



いつもの明将なら「いいから行くぞ」と雪根の主張を聞き流して執務室を退出しただろう。

しかしながら今日の彼は虫の居所が悪かった。



「朔が攫われたことに責任を感じているのが自分だけだと思うな」



地を這うような声で反撃され、明将から視線を逸らす。雪根もまた、精神的に余裕がなかった。



「……その正義感が朔を苦しめるんだよ」



堪えきれず吐き捨てた言葉は明将の耳にしっかり届き、二人の間の空気がぴりつく。



「わけわかんねえこと言ってんじゃねえ。仕事に私情を挟むのもいい加減にしろ」


「アキこそ、大切なものを守りたいなら、今度こそ花歩さんのそばを離れちゃいけない。何でもかんでも自分で解決しようとしてるのはアキのほうだろ」


「雪根、それぐらいにしておこうか。宮城さんの前だよ」



止めに入った穂高に対しても、雪根は矛先を向ける。



「非常事態の単独行動は特例で許されるでしょう。空木村には俺一人で向かっても問題ないはずです」


「それはあくまで宮城さんの許可があればの話だ。お前が自分で決めていいことじゃない」



にべもなく言い切られ、不機嫌に閉口した雪根を宮城が笑った。



「必死だな。そんなにわかりやすくていいのか?」



部屋に漂う緊張感などなんのその。決定権を握る男が楽しそうに雪根をからかうものだから話が進まない。



「……宮城さんには関係ない」


「雪根」



ぼそりとこぼした悪態を穂高が咎める。

そのまま説教になだれ込みそうなところを、啓斗が雪根の前に出ることで止めた。



「宮城さん、俺が雪根さんと行ってきます! アキさんは留守番。それでもいいでしょ」


「啓斗まで、勝手に進めようとすんじゃねえ」



明将の抗議を無視して啓斗が宮城にすがる。



「皇都の外なら、多少顔を見られても平気だよね?」


「まあな」



宮城の首肯を得て、啓斗は明将と向き合った。



「雪根さんはいつものだけど……、多分、今のアキさんは冷静じゃないよ。花歩さんのことも、朔のことも……、全部自分のせいだと思って無茶しようとしてる」



諭されて明将は口をつぐむ。そんなことはないと、なりふり構わず反論しない程度の理性は残っていた。


沈黙が落ちた室内に、宮城が指で机を小突く音が響いた。



「いいだろう。雪根と行ってこい。東郷は本部に待機。華闇との連携は啓斗に任せる」


「宮城さん」



明将は反対しようとしたが、宮城は決定を覆さなかった。



「東郷、お前まで暴走してどうする。こっちでこき使ってやるから納得しろ」


「……、はい」



渋りながらも承知した明将に、宮城がそれでいいと頷く。そして頬杖をつき鋭く雪根を見上げた。



「お前もだ雪根。これ以上の譲歩は認めねえ」


「……了解です」



こちらも渋々といった具合に了承をみせた。

聞き分けの悪い若輩組に呆れつつ、穂高は啓斗の頭に手を伸ばした。



「頼んだぞ」


「ちょっと、いつまでも子供扱いしないでよ」



穂高にわしゃわしゃと髪を撫でられた啓斗は、大げさに嫌がり距離を取る。



「失礼します。啓斗、行くよ」


「あっ、ちょっと待ってよ。——行ってきます!」



話しは終わったとばかりに足早に退出した雪根の後を、啓斗が慌てて追いかけた。







車の点検と遠出の準備を終えて、二人は車内に乗り込んだ。

運転席でシートベルトを掛ける雪根に、助手席に座った啓斗も倣う。



「雪根さんは、朔のこと好きなの?」



車の鍵を回そうとしたところで、ふと啓斗が質問してきた。



「そうだよ。それが?」



当然のように言い切り、雪根はエンジンを作動させる。重低音と共に車内が小刻みに振動を始めた。


深く座った座席で、啓斗の背中が背もたれをずり落ちていく。



「……勝てる気がしないや」



不貞腐れた呟きに、雪根は隣の席を一瞥した。



「当たり前。俺だってこれ以上負けたくない」



宣言して、後部座席に置かれた道路地図に手を伸ばす。

分厚い地図は雪根の手から啓斗の膝に投げ置かれた。



「空木村までの道の把握と、給油地点を何箇所か見繕っておいて」



手短に言い、雪根は車を走らせる。

赤兎本部の駐車場を出たあたりで啓斗は姿勢を正し、気持ちを改めた。

地図の索引を開き空木村を探す。



「了解。華闇と合流できそうな場所も探しておくから、ちゃんとそこで車停めてよ」



念を押すが雪根は前を見たまま反応を返さない。

これは絶対にわざとだ。



「停まらなかったら朔に言いつけるからね!」


「……わかったよ」



今度は雪根が不貞腐れる番となった。








      ◇  ◇  ◇









施錠された分厚くて重い蔵の扉はぴくりとも動かず、隙間もないので外の様子は窺えない。

扉を背にした左側、物置きの棚が前に置かれた窓には板張りがされていた。釘で打ち付けられているのだろう。手を伸ばして爪をかけ、引っ張ったところで板は剥がれそうになかった。


階段を慎重に二階へと登る。木製の足場は湿気のためか脆くなり、足を踏み締めるたびに若干の沈みを感じた。

二階は下より狭く、物が少なかった。

壁にあった小窓は一階と同様板張りがされていた。

髪の毛に何かが引っかかった。感触からして、おそらく蜘蛛の巣だ。

特に目ぼしい物はなさそうなので、早々に階段を下った。


恵理たちはわたしを蔵に閉じ込めたら暗闇に怯えて心が折れるとでも思ったのか。

閉塞感は確かにあるが、ここにいれば神代巫女になれと詰め寄られることもない。カビ臭さに慣れてしまえば、人のいない蔵の中は存外快適だった。


一寸先も見えない闇の中。視覚は頼りにならないから意識を集中させて気配を探り、手を使って中をあちこち物色する。


蔵には武器になりそうなものが沢山置かれていた。鍬や鎌、移植籠手といった農具にはじまり、鉄筋の棒に、陶器の置物がずらりと。

反抗的な者を閉じ込めるにはあまりふさわしい場所じゃない。


舐められているというよりも、蔵の中でわたしがここまで動けることを恵理は想定していないのだろう。



かつての母は、こんな真っ暗な場所に一人ぼっちで閉じ込められて何を思ったのだろう。

この村に、母に味方してくれる人はいなかったのか。

暗闇に恐怖はないが、母を思うと寂しさが込み上げた。



使えそうな物の場所は把握するだけにして、手元に移動はさせないでおく。長期戦になった場合、暗い場所が平気だと恵理たちに悟られてはいざという時に不利になりかねない。


鍬や鎌で戦うのも現実的ではない。村人たちに人海戦術でこられたら勝ち目がないし、自分の体力を過信してはいけない。


頭の中から地図の記憶を引っ張り出す。

空木村は山の中にぽつんと存在する僻地の集落だ。ここから脱出できたとして、一番近い町まで村の者に見つからずに辿り着けるか——?


状況的に難題が多い。

人の目を盗んで、どこかで電話をかけて助けを呼ぶのが賢明か。


もしくは誰かを、人質にするとか……。


浮かんだ案はすぐに却下した。

たとえ計画したところで、いざその時が来たら怖気付く自分が簡単に予想できてしまったからだ。


昨日、一樹さんが刃物で刺された。つい先日は啓斗さんが蟲によって重症を負った。

あの光景を、わたしはきっと一生忘れられない。人の命を軽く扱うのはためらわれた。


逃げ出そうにも妙案が浮かばず考え込んでいると、にわかに外が騒がしくなった。

何かあったのかと板張りがされた窓に近づき、耳をすませる。


庭で誰かが話しているようだ。

人の気配がする場所に集中すれば微かに声が聞こえてきた。



「……なんてことをしてくれたんだ!」



気を荒くして憤る男と、もう一人は恵理の夫だ。

二人はわたしのいる蔵へと近づいてくる。



「朝一番に皇都の御社から連絡があったぞ。あんたらに御社襲撃の疑惑がかけられているらしいが……、まさか本当に、土地守りに手を出したんじゃないだろうな」


「濡れ衣だ。御社を襲撃した賊など俺らは知らん」



恵理の夫が、蔵の壁一枚挟んだところにもたれかかった。



「……ならばなぜ、あちらの土地守りはこの村の名を挙げた」


「俺が知るか。まあ、守里と共にいた御社の人間を、協力者が手にかけてはいたが……、あれは皇都にある旧家の使用人だ。俺たち空木村とは関係ない」



こんこん、と。恵理の夫に窓を小突かれてどきっとした。



「守里はここで反省中だ。神代巫女は取り返した。もう俺たちが皇都へ足を運ぶことはないんだ。万が一調査が及んだとしても、誓って俺たちは皇都の土地守りに何もしていない」


「……信じるぞ」


「ああ。あとはこれまで通りに上手くやってくれたらいい。来年以降、空木村の神事は守里が執り行う。華闇の上にはそう報告しておけば問題ない。年明けが楽しみだ」



上機嫌に、恵理の夫は喉の奥で笑う。

もう一人の男は懐疑的であったが、それでも話を信じる以外の道はないようで、肩を落として不安そうに帰っていった。


恵理の夫は、わたしが聞き耳を立てていたことを知っているのか。


聞かれたところでどうしようもないと楽観視しているだけ?


それとも、わざと今の話を聞かせたの?



一樹さんが刺された現場には、あの男も居合わせたというのに。あれを目の当たりにしておきながら、どうして平然としていられるのか、不思議でならない。


確かにあの時御社で、この村の者たちは一樹さんに何もしていない。



……助けようとすらしなかった。



なぜ? 一樹さんは空木村と関係ないから?


関係がなければ、目の前で人が殺されても、普通にしていられるの?



この村の人たちにとって、一樹さんの命はとても軽い。

命は平等かもしれない。だけど各々の主観によって、価値は変動する。

大切だと思うものはみんな違う。だから当然といえば当然のことだ。


——人の命は軽く扱ってはいけない。


つい先ほど行き着いたばかりの答えが早くも揺らぐ。



わたしはこの村の人たちを、赤兎班の人たちや一樹さん、母と同等にみていいの——?





脱出方法を思案すべきなのに、上手く考えがまとまらない。


胸に燻る村への嫌悪感がまともな策をかき消してしまう。


こんな時、明将さんはどうするだろう。

彼ならきっと、どんな手を使ってでも花歩さんの元へ戻ろうとする。


ここにいるのがわたしでなく母だったら?

母も絶対に、村の思い通りになんてならない。


わたしの周りにいる人たちはみんな、ちゃんと「自分」を持っている。

そんな彼らに頑張って追いつこうとしていても……わたしはまた……悩んで、迷ってる。



「……だめだなあ」



いつまでたっても優柔不断な性格を変えられない。

二階へと続く階段に腰掛け、膝を抱えて俯く。


これからどう動くべきか。

答えは一向に出ないまま、じっと変化を待ち続けた。


時折蔵の近くを通る人はいるものの、誰かが扉を開けることもなく。

だんだんと、真っ暗な世界にさらなる闇の気配が上乗せされていった。


日没が近い。

時間の経過を意識するとお腹が空いてきた。空腹がこの程度で済んでいるのだから、朝食を食べておいて本当によかった。






      *






人が来たのは、空腹を自覚してすぐのことだった。

蔵の前で止まった何者かに立ち去る気配がないので、警戒して階段から立ち上がる。

すると錠前の落ちる鈍い音が聞こえ、ゆっくりと重い扉が開かれた。


蔵の中に外の光が差し込む。日中より幾分ましとはいえ、朱色の光線が太陽の存在を知らせてくる。外はまだこんなに明るかったのか。早く夜になってほしい。


扉は両開きの片側を全開の状態で固定された。

懐中電灯の光を向けられ、眩しさに手で顔を隠す。


逆光で見えないが、入ってきたのは知った気配だ。

今朝、恵理の隣にいた、彼女の息子。名前は……、確か優磨だったはず。



「わたしに何かご用でしょうか?」



こちらから声をかけると照土優磨はつまらなそうに肩をすくめた。



「なんだよ。全然堪えてねえじゃん。母さんは夕方には心が折れてるって。泣いて縋って謝ってくるって言ってたのに」



拗ねたような口調でぶつぶつと言って、優磨は電源が入った状態の懐中電灯を棚に置いた。

そして薄暗いなかこちらへと足を踏み出す。



「……何をしに来たのか、答えてください」


「はっ、ほんっとに生意気だな。自分の立場、わかってる? 神代巫女が照土の家の者に反抗したらだめだろ」


「わたしは神代巫女にはなりません」


「へえ、まだそんなこと言ってんだ」



にじり寄る男と距離を取るためあとずさる。

しかしすぐに背中が棚に当たってしまった。



「そう怖がるなって。ちょっと味見するだけじゃん。来年の予行練習だと思って付き合えよ」


「……何を言っているのか理解しかねます」


「ああ? 知らされてねえのか? こっちはすんげー楽しみにしてたってのに」



優磨がわたしの後ろにある棚に手をつき身を屈め、顔を近づけてきた。



「守里の前だから、あんたの母親は愛里か。愛里は娘に何も教えなかったのか。ほんっとに使えねえ。……まあいい」



にやりと笑い、男はわたしの耳元でさらに囁く。



「神代巫女を身篭らせるなら二月がいい。年末年始の大事な神事を身重で疎かにされたらたまらないからな」



どういう意味か。なんの話か。

意図を掴みかねるわたしに、優磨は得意げに説明を始めた。



神代巫女を継いだ者が第二子を産むまでのあいだ、空木村では毎年二月に秘祭が執り行われる。

祭りの期間中、村で成人した男たちが毎晩、神代巫女の元へ通うのだ。


年末年始は祭事が多い。

身重の体では動けない。

ならば子供は秋に生まれるのが望ましい。


だから秘祭は二月にある。


神代巫女が身籠ればその年は福年とされ、昔からその年の村の豊作が約束された。


臨月になれば神代巫女は照土家の本邸に移される。

ちょうど、昨晩わたしが入れられた座敷牢で出産し、すぐに赤子は照土家に取り上げられる。

そして神代巫女はお役目に戻り、照土家が次代の神代巫女を育てるのだ。


何代も何代も、そうやって空木村は神代巫女と共に在り続けてきたのだ——と。



それがこれからわたしが神代巫女としてたどる未来だと、男は言った。




わけがわからない。

ここは本当に日の元なの? 天上と深淵に守られた、これまでわたしの生きてきたところと、同じ国なのか。


動揺するわたしを前にして、優磨は勝ち誇ったように笑った。笑い方は恵理にそっくりだ。



「どうせその体を一番に抱くのは俺なんだ。だったら来年の二月まで待つ必要はない」



頬から首へ、男の指が這う。全身が総毛立ち息が止まった。

動けずにいると、作務衣の襟元を大きく開かれた。



「あんたも、既成事実があったほうが村に留まりやすいだろ?」



優磨の息が耳をかすめ、頭の中の揺らぎが止まった。思考がみるみる冴え渡っていく。


神代巫女は空木村の存続に欠かせない存在で。

華闇に代わり神事を執り行う、空木村にとっては大切に、厳重に、管理すべき——「物」。


彼らにとって神代巫女はあくまでも道具で、血縁であっても人の扱いはしないんだ。



空木村に関わるなとわたしに訴えた母は、身をもってこれを知っていた。

知っていながら全部自分で背負って、必死にわたしと逃げようとしてくれた。


何度も引っ越して、仕事を変えて……。


だけど、たとえ権力のある旧家に嫁いだとしても、わたしたちは神代巫女の宿命に縛られたまま。



空木村があるから。


照土の者がいるから。


この村のせいで、母の人生はめちゃくちゃになった。



襟元から入り込んだ手が肩を直接掴んできた。

顔の前に男の顔が広がる。

唇と唇が触れ合う直前、頭同様に胸の奥がすっと冷めた。



こんな村、わたしはいらない。





「——消えてしまえばいい」





湧き上がった怒りに呼応するように、懐中電灯の光が消えた。

帷が下りるにはまだ早い。それなのに、開きっぱなしの扉から差し込んでいた光が閉ざされる。



「あ?」



異変に気づいた優磨が屈んでいた身を起こす。

本能的な恐怖からか、慌てた様子で出口へと進もうとするが、走っても走っても、目的の扉に到着できない。


真っ暗な闇に、さらに重い黒が重なる。



「なっ……なん——……」



言葉が、そして音がこの場所から消えた。


わたしにとっては久しぶりの感覚だった。

だけど心なしかいつもより闇が薄い。

深淵に来たというよりも、地上の一部——蔵の中が深淵と混ざっているのだろう。


急に目線が低くなった気がする。自分が二本の足で立てているのかわからない。

この違和感は、受け入れなければならないものだ。わたしは人であり、……妖でもあるのだから。

足に力を入れて見えない地面を踏み締めた。


黒がどんな色も塗りつぶしてしまう、闇の世界。


わたしの足元に、人か妖かあやふやな気配が蹲っていた。

小さな存在は闇の重さに耐えられず、ただただ震えている。


それに手を伸ばそうとした時——。

世界か、空間か、地上と深淵の境界か。目に見えない何かが軋んだ。


はっとして顔を上げる。そうだ、安定期に深淵の干渉は危ういんだった。



——ありがとう。でも、お願いだから無茶はやめて!



 声は発せず、意思を直接みんなに伝える。



 ——平気よ。この程度、なんてことない。



どこまでも続く黒い虚空へと言葉を投げた。

すると霧が晴れるようにじわじわと闇が薄らいでいった。


世界が元に戻るのをじっと待つが、懐中電灯は依然として消えたまま。外の光も蔵の中へは届かない。



「……あのねえ」



闇は薄まったが、深淵の気配は完全に消えそうにない。

これが譲歩だと言わんばかりの圧力はわたしの気のせいなんだろうけど、みんなはこれ以上引こうとしなかった。



「ふふっ、……ありがとう」



みんな大好き。

こんなの、感謝の言葉しか出てこないよ。


よほど深淵の闇が恐ろしかったのだろう。優磨は蔵の中央で頭を抱えて動かない。


蔵の扉は開いている。外に人の気配はない。

夜はすぐそこに迫っている。闇に乗じれば、わたしは逃げられるかもしれない。



逃げて、空木村を出る。

逃げて、なんとか皇都へ帰って……。


ふと扉へと踏み出そうとした足が止まった。

優磨をじっと見下ろし、本当にそれでいいのかと考え直す。


逃げても彼らはまた追いかけてくる。

このままじゃ終われない。

いつか同じことを繰り返してしまう。



わたしも母も、自由になれない。



——わたしがここで、終わらせないと……。



倉庫の隅、木桶の中に入れられていた鎌を手に持ち、照土優磨に歩み寄る。


決意は既に固まっていた。



「……なんだよ、これ……。こんなの、……化け物じゃねえか。……聞いてねえぞ…………っ」



ぶつぶつと独り言をこぼす男の髪を引っ張り、顔を上げさせる。



「ひぃぃっ」


「動かないで」



優磨の背中に膝を付き、はっきりと告げる。

彼の悲鳴が止まった。



「見えないでしょうから説明します。今あなたの首には、そこに置いてあった鎌の刃がかけられています。少しでも抵抗を見せたら、わたしはあなたの首を切る」



首に弧を描く刃を軽く当てると、喉仏がごくりと動いた。



「質問に答えてください。今ここにあなたがいることを、家の人は知っているのですか」


「そっ……、そう、……母さんが、行けって……」


「そうですか」



だったらそのうち誰かが様子を見に来るかもしれない。



「覚悟してください。あなたが生きてこの蔵を出られるのは、わたしと母がこの村から解放された時だけです」



いざというとき、わたしは彼を殺せるのかと、自分自身に問いかける。

明確な答えはわからない。だけど、絶対に無理だとは思えなかった。


命を奪う行為すら、譲れない目的があればためらいも消える。



わたしの欲深さは、この人たちとなんら変わらない。







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