16.愛里の娘(上)
あははっ
悔しさと悲しみがぐちゃぐちゃに混ざり合う。押し寄せた感情は、峠を越えると急激に凪いでいった。
集中しすぎて熱を持ち始めた頭は多くの思考を放棄し、与えられた役目の遂行を優先する。
空が薄暗くなり始めたころ、深淵の神々を祀る闇泉は、黒い穢れを纏うただの泉になった。
「お疲れ様です。まさかここまで完璧に補助をしていただけるとは……、とても助かりました」
一樹さんの合図で泉への集中をといた。
顔の汗をぬぐい、火照った頬に手を当てて冷やす。長時間俯いていたため首の後ろが痛い。
立ち上がり、目蓋をきつく閉じては開くのを繰り返して目の緊張をほぐす。
もう、ここに来たところで、みんなを近くに感じることはできない。
やるせなさが疲労感を凌駕して、虚しさに唇を噛み締めた。
「あなたは立派に手を尽くしました。これ以上はわたしたちにできることはありません」
「……はい」
慰めの言葉が重い。こうなってしまった原因は、わたしの母にあって、深淵のみんなにも申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
対岸の一樹さんがこちらへと戻ってくる。
「浄化には長い年月を要するでしょう。こちらで再び深淵をお祀りできるか、今はなんとも言えません」
「そう、ですか」
「ひとまず表へ戻りましょう。まだまだすべきことは山積みです」
生い茂る木々に挟まれた石畳の道を進み出した一樹さんの後ろを、とぼとぼとついていく。
途中何度も立ち止まり、穢れた泉へと振り返った。
そんなわたしをみかねて一樹さんも足を止める。
「気になりますか?」
「……っ、すみません」
小走りで開いた距離を埋める。追いついても一樹さんは先を行かず、困り顔でわたしと向き合った。
「わたし個人としましては、泉の穢れにお母様が関わってしまったというあなたの罪の意識につけ込み、償いを求めるならば華闇本山へ行くことをお勧めしたいのですが……、今のあなたに対してはさすがに憚られますね」
「え……と……」
「たとえ親兄弟のしたことであろうと、他人の罪を肩代わりできるほど、朔さんは偉くありませんよ」
「……そうですね。すみません」
思い上がりもいいところだ。わたしが華闇に貢献したとして、母が御社に害を成した事実は変えられない。でも……。
「もしも……、もしもですが、わたしが華闇で偉くなれたら、母の罪を背負うことはできますか?」
「……そうきましたか」
一樹さんは苦笑で誤魔化す。確約できない。その反応が十分な答えだった。
これから母はどんな裁きを受けるのか。どうにかして母の罪は軽くならないか。
母のために、わたしにできることはないのか……。ずっとそればかり考えてしまう。
闇泉を穢され、深淵にまで危険をもたらしかけた。
親といえど敵なんだと、割り切れたらどんなに楽だったか。
こんなことになったのに、母を憎みきれない。わたしは……、今でも母が好きなんだ。
「華闇の、中央霊山にお越しいただけるのなら、こちらはいつでも歓迎しますよ。しかし、現在赤兎班に身を置いてらっしゃる朔さんの場合は、宮城様の説得が非常に難しいでしょうね」
「宮城さん……ですか?」
「本当に……。あなたも律も、できることなら華闇で力を奮っていただきたいのに……、宮城様は毎度毎度、強欲であらせられる」
これは、冗談と捉えていいのかな。
将来有望な華闇の人材を片っ端から持っていこうとするとか、この地に詰めていると職務に関係なく赤兎班の応援に駆り出そうとしてくる——とか。彼のこぼす宮城さんへの不満はきりがなかった。
温厚な一樹さんでも、相当鬱憤が溜まっているみたいだ。
一樹さんは雪根さんが華闇にいた頃、後見人として面倒を見ていたという。
雪根さんは鳳の赤兎班へ、なんの知らせもなく突然移籍してしまったのだ。これについては本気で怒っていいと思う。
しかし仕事で一樹さんと顔を合わせるのは気まずいと、以前雪根さんは言っていたけど、わたしが見た感じ、ふたりの仲はそんなに悪いものではない気がした。
「一樹さんは、雪根さんに華闇へ戻ってきてほしいのですか?」
「ええ、当然です」
即答だった。
「もしあの聞かん坊が赤兎班で問題を起こし、宮城様より苦情が入れば、すぐにでも馳せ参じ首根を掴んで華闇本山へ連れ戻す所存です」
準備はできていますと言わんばかりの用意された台詞に、この場にいない雪根さんの自由っぷりを改めて実感する。
本当、雪根さんはどうしてこれだけ思ってくれる人がいるのに華闇を抜けて、赤兎班へ移ったのだろう。
一樹さんいわく、「家族との縁を切りたいから」という理由で華闇総本山の門を叩いた雪根さんは、入門の理由が私情に溢れていながらも修練に挑む態度は真面目だったらしい。
華闇内でも抜きん出た実力を持っていたにも関わらず、突然連絡もなしに赤兎班へ行ってしまったというから、一樹さんが連れ戻したいと望む気持ちも納得できた。
雪根さんは本当に、自由で不思議な人だ。
「それはさておき、ひとまず戻りましょう。律も含めてこれまで誰もこちらの様子を確認に来ないのは気掛かりです」
一樹さんの言う通りだ。
明将さんたちも、御社の人たちも、無事だといいのだけど。
力を使った影響で目の奥がずきずきと痛む。
体は多少熱っぽくはあったけど、疲労困憊とまではいかない。
少しは鍛えられてきたのかなと、回らない頭でぼんやり考えつつ、左右を木々が茂る石畳を一樹さんの背中に続いた。
暗くなりかけた細道で木々の境目から建物の影が見えてきた頃合いで、腐臭が鼻をかすめた。
何気なく後ろを振り返る。進んできた道には時間帯も相まって暗い影が差し、ここからでは泉を確認することはできなかった。
穢れの残滓が体に移っていたら嫌だなと、念のため服の袖の匂いを嗅ぎつつ一樹さんへと体の向きを戻す。
立ち止まったことで開いてしまった距離を埋めるため、小走りになったその時——、右側の茂みが揺れた。
がさがさ、がさがさ……、と。音は次第に大きくなり、複数の何かがこちらへと接近してくる。
気付いた一樹さんも足を止めて山の斜面へと体を向けた。
足音と共に山中より姿を表したのは、六人の男だった。皆、シャツやズボンといった簡素な服を身につけていて、すぐに御社の関係者でないと理解した。
非常事態に突如現れた人たちに、一樹さんも警戒心を隠せない。
「どなたでしょうか。この山は山道と境内以外、一般の方の立ち入りは禁じられております」
慎重に言葉を紡ぐ一樹さんに、先頭に立つ男がぎょろりと目を向ける。
「——ああ、君が土地守りだね」
男の声を耳にした瞬間、全身に悪寒が走った。
聞こえてきた声は知らないものだ。
だけどわたしは、この声で喋っているモノを知っている。
こちらの反応を待たず、ソレは木々の間より飛び出す。
刹那、男は手に持つ刃物を一樹さんの腹部に突き立てた。
どすりと、嫌な音がした。頭の中で警鐘が鳴り響く。
一樹さんの背中から、鋭利な刃が突き出ている。彼の食いしばった口からぽたぽたと血が流れ落ちた。
一樹さんの正面に立ち、柄を握るこの男。かつてより薄く、今にも消えてしまいそうだけど、間違いようがないこの気配は——。
「……須藤雷也」
その名前を呟くと、男はこちらに首を回した。
「違うよ、朔ちゃん。この入れ物はそんな名前じゃなかったはずだよ」
胃を鷲掴みにされたような痛みとともに全身の血が下がる。
先頭の男に続いてぞろぞろと他の男たちがこちらへ近づいてくるが、それを気にしていられない。
「いっ、一樹さん!」
「……っ、来てはいけない!」
駆け寄ろうとしたわたしを止めて、一樹さんは自身を刺した男の手を掴む。
「おおっと」
「——っ、逃げなさいっ」
逃げる? でも、どこに? ……一樹さんを置いて?
御社の居住区へと続く道は男の仲間に塞がれた。
闇泉へ行けばいい? それとも山の中?
思考がこんがらがり、足を動かすのが遅れた。
迷いの代償は、体の側面にくらった強い衝撃だった。
一樹さんを刺した男に同行していたひとりに突進されたのだと、体が倒れてから気づく。
背中が木にぶつかり、肺が悲鳴を上げた。
震える足を叱咤する。立ち上がって、早く逃げないと。
「愛里の娘だろう?」
「……え?」
「間違いない。面影がちゃんとある」
「ああ本当だ。顔がそっくりだ」
周囲を囲んだ男たちが口々に言い合う。
愛里、なぜここで母の名前が——?
わたしを突き飛ばした男がにやりと笑い、しゃがんで目線を合わせてきた。
片手に持った刃渡りの短い刃物を首に突きつけられる。
「……っ」
「おとなしくしておけ。悪いようにはせん」
別の男がわたしの横に回った。顔に布を巻かれて、視界が真っ暗になる。
腕を引いて立たされ、後ろ手に手首を縛られた。
どういうこと。何が起こっているの。
「……い、一樹さんっ」
名前を呼んでも、反応は返ってこない。微弱な気配だけが、彼が生きていることを知らせてくれた。
「口も縛れ。大声出されると面倒だ」
両頬を強い力で挟まれ、強制的に口が開いた。口の中に布が押し込められる。反射でえずいたのを無視し、布を噛まされ言葉を封じられた。
ぐっと腹部が圧迫し、足が地面から浮いた。誰かに担がれたんだ。
「連れていくぞ」
「いいよ。そういう約束だったしね。じゃあね、朔ちゃん。楽しかったけど、もう君とは会いたくないかな」
どかどかと容赦のない振動が体を襲った。山を下りているのか。
一樹さんの気配が遠ざかる。
このままじゃいけない。
「んぅ——っ!」
「くそっ」
なんとかして逃れようと必死にもがけば、担いでいた男が体勢を崩した。男の肩からずり落ち、体が地面に強打した。斜面を転がり落ちる。
木の根の出っ張りに衝突して体が止まった。
早く。立って、走って、逃げないと。
焦る気持ちに反して、体は思うように動いてくれない。
「ったく、おとなしくしてろっつってんだよ!」
間近で男の怒鳴り声を聞いた次の瞬間、鳩尾に激痛が走る。
それを最後に、意識が暗転した。
◇ ◇ ◇
境内の端に建つ社務所の一室で花歩はひとり、そっと窓にかかった日避け布に隙間を作り外を窺った。
社務所の周囲に待機していた袴装束の人たちの様子が慌ただしい。何かあったのだろうか。
敵を食い止めるためにと山の下へ行った明将たちはまだ戻らない。
花歩のいる部屋の、廊下を挟んだ隣にある広間では、逃げ遅れた参拝者たちが不安そうに身を寄せ合っている。誰もがかたく口を閉ざすのは、参道に出現した化け物を目の当たりにしたからだ。
参拝を終えて石の階段を下っていた数人は、助けが間に合わず蟲の餌食となってしまった。
御社が建つ山の結界が破られてから、かなりの時間が経過している。
蟲と呼ばれる化け物が未だに境内へ現れていないのだから、明将たちが寸前のところで侵入を防いでくれているのだと思いたい。
山の下では命懸けの戦いが繰り広げられているというのに、社務所の中は不気味なまでに静かだった。
朔と一樹は境内のさらに奥へ行ったきり戻らない。
時間だけがゆっくりと、だが確実に過ぎていく。
ただ待つしかできないもどかしさに苛まれながら、花歩は部屋の隅で膝を抱えた。
日が暮れて外が暗くなってきた。
社務所の表側がにわかに騒がしい。
花歩が立ち上がり窓の外を見ると、袴装束の者たちがこれまで以上にうろたえながら社務所の正面へ走っていった。
気になった花歩は部屋の扉を少しだけ開く。
「……一樹さんっ、一樹さん!」
必死の呼び声に、返事はない。
社務所の廊下に担架で運ばれた一樹の姿に花歩は絶句した。
腹の部分の衣服がぬめりを帯びて変色した一樹は、暗い廊下でもわかるぐらいに顔から生気が失われていた。
「早く病院にっ」
「……無理だ。今からでは……、もう間に合わない」
絶望する袴装束の者たちの間を抜けて、花歩は一樹の顔のそばに膝をついた。
口元へ手をかざすと、微かな吐息が感じられた。
まだ、生きている!
「——っ、こちらの方を、部屋に運んでください」
一樹を助ける方法を、花歩は知っていた。
誰かに教わったわけでもない。
何度過去の経験が白紙に戻ろうとも、他者の傷の癒やし方を花歩は最初から覚えている。
同時にこの身にはもう、その力がごく僅かしか残されていないことも、感覚でわかっていた。
力を使って一樹を治せば、器の中が空っぽになる。
今の花歩は記憶を失い、目を覚ましてから日が浅い。
そんな花歩に明将は「もう人を癒す力は使うな」と口を酸っぱくして言いふくめてきた。
過去の自分が絶大な信用を寄せていた明将の言うことだ。
彼に従おうと決めていたのに、いざ消えかかる命を目の当たりにするといとも簡単に決意が揺らいだ。
明将たちや、朔だって。危険を承知で自分にできることを必死に頑張っている。
だったらわたしも……。わたしなら、この人を救うことができる。
救える命があるのに、何もしないでいるなど耐えられなかった。
「早く!」
花歩の気迫に押され、袴装束の者たちが一樹を花歩のいた部屋へ運び込む。
時間がない。
覚悟を決めて一樹の横に腰を下ろす。
迷っている場合じゃないというのに、自身を心配する明将の顔が頭に浮かんだ。
彼は、無事だろうか……。
この人に力を使えば、わたしは眠りにつく。
次は、いつ目を覚ますだろう。
起きた時に明将がいなかったらと思うと、寂しさが込み上げる。
でもどうせ、わたしはこの寂しさも忘れてしまう。なら、いっか。
……でも、願うならばひとつだけ……。
花歩は様子を見守る袴装束の男を見上げ、小さく口を開いた。
「赤兎班の、明将という人が戻ってきたら、伝えてください。……わたしの日記を、一冊目の最初の頁だけ残して、あとは全部燃やしてほしいと。……どうか、お願いします」
これが最後。
もうあなたを悲しませない。
次に目を覚ましたら、そこからの人生はあなたのために生きると誓う。
だから、今回だけは許して。
花歩が一樹に手をかざす。
真っ白な淡い光が一樹の腹部を包んだ。
わたしも、あなたの役に立ちたいの——……。
◇ ◇ ◇




