14.穢れ(中)
◇ ◇ ◇
樋渡は空き教室の床で項垂れる留美香を見下ろし、複雑そうに顔を歪めた。
犠牲のうえで生きることに怯える朔と、是が非でも生にしがみつく留美香。両者ともに極端だ。
わかり合えないからこそ、いがみ合わないように距離を置こうとする朔のほうが幾分か平和的かもしれないが、彼女も思いのほか頑固な性格のようだ。
生まれつきの性分か、育ちが影響しているのかは定かでないが、留美香の言う通り朔は人との関わりによって発生する感情の摩擦を回避しようとする傾向が強い。
他者と張り合うぐらいなら、自分が我慢して身を引く。
言い方を変えれば、物事に対して執着が薄いのだ。
——違うか。
分析を改め、樋渡は力なく首を振った。
何があったかは知らないが、おそらく朔は自分のことが嫌いで、自分の存在そのものに懐疑的なのだろう。
だから自らの命以外に対価として差し出せるものを、彼女は見出せないのだ。
危うい心を案ずるも、樋渡が朔にしてやれることはない。
彼女は奥園の庇護を拒絶し、離れた。ならばこちらも割り切るべきだ。
留美香の正面へ移動して、樋渡も床に膝を付いた。
「留美香の思い描く幸せとは、具体的にどういったものなんだ?」
問いかけに反応は返ってこない。
「抽象的な要求ばかりでは、この先の行動を決められないだろう」
構わず続ける樋渡に苛立ち、留美香が床に爪を立てた。
「……うるさいわね。ほっといてよ」
「そういうわけにはいかない」
「今更なのよ! あんたも、分家の連中もみんな、わたしを見捨てたくせに!!」
「そうだな」
本家と分家の対立により、幼い留美香はひとりになった。
樋渡家をはじめ、奥園分家は当主が掌握した本家に取り残された留美香の救出を諦めた。
当時子供だった樋渡には、留美香に近づくだけの力がなかった。
だが、機は熟した。
「次はない。もう絶対に留美香を独りにさせない」
幸いというべきか、本家のうるさい年寄り連中は奥園礼司が始末してくれた。
今回の本家の失態を糾弾するのに、樋渡家は赤兎班に率先して協力して、鳳からの信用を勝ち取った。
耐えに耐えて、ようやく得られた好機だ。
「全ては叶えてやれないかもしれないが、留美香の描く幸せに、少しでも近づけるように努めると約束する。必ず、守ってみせる」
朝礼の開始を知らせる鐘が鳴った。
「……うるさい。……佐のくせに……。さっさと行きなさいよ」
「そんなので人前に出るのか」
涙でぐしゃぐしゃになった顔を指摘され、留美香の頬が真っ赤になる。
「わたしはいいのっ。ほっといてよ!」
「……少し待ってろ」
立ち上がった樋渡は廊下に出て、手早く向かいの水場で手ぬぐいを濡らした。
空き教室に戻ると、水気を帯びて冷たくなった手拭いを留美香に差し出す。
「……っ、戻ってくるなら戻ってくるって言いなさいよ!」
「待ってろと言っただろ」
「伝わってないのよ!」
泣き喚きながらも留美香は樋渡から手拭いを荒く奪い取る。
手拭いで顔を隠した留美香はそのままうつむき、鼻をすすった。ひっく、ひっくと、次第に嗚咽が大きくなっていく。
「……ど、こにも、……行かない、で、よ」
不規則な息継ぎの合間、途切れ途切れに聞こえた言葉に樋渡は目を伏せ、深く頷いた。
「ああ。行かないさ」
今度は最後まで、そばにいる。
◇ ◇ ◇
——言ってしまった。
教室に戻り席につく。両手を額に押し当てて、自己嫌悪に項垂れる顔を支えた。
今しがたの言動を思い返せば後悔がどっと押し寄せる。あんなこと、言わなくてよかったのだ。
他人を諭せるほど、わたしだって正しいわけじゃない。
おそらくあの場は最初から樋渡さんを頼るのが正解だった。
冷静になれば簡単に思いつけるのに……、ムキになってもいいことなんてひとつもない。
知っていたけど、面と向かっての「大嫌い」は心に刺さる。
結局わたしは、奥園の姓になった時からいずれ家を出ることを前提に生きて、新しくできた姉妹と仲良くなろうとはしなかった。
どちらともが歩み寄りを拒否した時点で、関係性が深まるはずがない。
いがみ合い、本気で傷つけ合わなかったのが不幸中の幸いだ。
たらればの可能性をいくら考えたところで、わたしには留美香と手を取り合う未来が想像できない。
思いのほか薄情な自分を嘆く気にもなれなかった。
最初から、そしてこの先も、わたしと留美香は家族になれない。
それぞれにとって大切に思うもの、大切な人、大切な場所が全く違うのだ。
一日の授業が終わり、終礼後すぐに教室を後にした。
送迎車の待機場所へ急げば、見慣れた迎えの車がすでに止まっていた。
運転席の雪根さんと、後部座席には明将さん。
緊張を誤魔化すため足の動きを早めた。
「おかえり。そんなに急がなくても大丈夫だよ」
「……すみません、お疲れ様です。いつもありがとうございます」
「お疲れさん」
後ろの座席に乗り込む。雪根さんが車を出発させた。
走行中、隣に座る明将さんは眠たそうに大きなあくびを繰り返す。
相当疲れが溜まっているのだろう。
横の車窓に頭を預け、うとうとと船を漕ぎ始めた。
車内に会話はない。
ちらりと運転席から振り返った雪根さんが、苦笑しながら人差し指を唇の前で立てた。
このまま寝かせてあげたいという意図を汲み、はにかんで小さく頷く。
そうだ。たとえ思いが通じ合わなくてもいいんだ。
できることなら、今がこれからも続いてほしい。
わたしは明将さんに好きになって欲しいわけじゃなくて、わたしが彼が好きだという、この気持ちを胸に秘めているだけで十分幸せなんだ。
*
あたり一面真っ黒の世界。
はっとして後ろを振り返る。
周囲はどこもかしこも漆黒に覆われていて目を見張った。
夜、寝台の上で横になり、気がついたらここにいた。
深淵に来れたのかと期待したが、頬を撫でる冷たい風がそれを否定する。
完全な闇の世界に風は吹かない。
だとしたらここはどこか。
自分は夢を見ているのだとなんとなく予想はつくが、感覚が妙に鮮明だ。
夢だと認識できているのもふまえて、これがただの夢だとは思えない。
何もない場所で、風上から微かに笑い声が聞こえる。声質からして女性の声だ。
高音の高笑いは、時間が経つほどに大きくなっていった。
——どうして。
嫌な予感がして声のする方向へと歩き出す。
わたしが近づくと、女性の笑い声は遠ざかり、やがて完全に消えた。
今の声に聞き覚えがあったのは、これがわたしの見ている夢だからに違いない。そう自分に言い聞かせて、彼女がいたであろう場所まで進んだ。
正直なところ、声の主の姿を見られなかったことに、心の底からほっとした。
だってこんな場所で彼女と会って、どんな顔をしたらいのか、夢だとしても心境的に困ってしまう。
さっきまで彼女がいたであろう場所には水が溜まっていた。
大人ふたりが手を広げて並んだぐらいの直径のそれは、風によって表面が揺れている。中は真っ黒で、どれくらいの深さかはわからない。
しばらく足元の水溜りを眺めていると、変化が起き始めた。
黒々と艶を帯びた水たまりに、じわじわと虹色の鈍い光が現れる。油の膜が張られたようなそれは、徐々に水面全体へと広がっていった。
これは、いけないものだ。
虹色の光が蟲を想起させ、頭の中に警鐘が響いた。
ぼこぼこと、沸騰したように黒い水が大きな泡を吹く。
そのひとつひとつ、泡の膜が破裂するたびに異臭が漂ってきた。
どこからともなく、黒の世界にあの高笑いが響く。
わたしのよく知るこの声は——。
体がびくりと跳ねて飛び起きる。
朝はまだ遠い、真っ暗な部屋。
わたしが眠っていたのはいつもと変わらない場所だった。
今のは一体、何だったのだろう。
じっとりと滲んだ汗を拭う。
夢を見た。それは間違いない。
だけど、夢の内容があまりにも不気味で、覚醒した今も細部まで記憶に残っているのが気になった。
それに、あの声は……。
「……お母さん?」
まさかそんなはずはないと浮かんだ思考を否定しながら、無意識に枕元に置いていた守玉へと手を伸ばす。
「……?」
円環の輪郭を指でなぞると、滑らかなはずの石に馴染みのない引っ掛かりがあった。
胸騒ぎがする。
眩しさを覚悟して部屋の明かりをつけた。
どうしても、守玉の状態を自分の目で確かめておきたかった。
光に目が慣れたとき、背筋に悪寒が走った。
込み上げる不安に言葉が出てこない。
母から預かった藍色の守玉には、深いヒビが入っていた。
眠れないまま起床の時間を迎えた。
あの夢はわたしの不安が体現したものなのか、それとも悪いことが起こる予兆なのかの判断がつかず、もやもやしているうちに朝の時間は過ぎていった。
嫌なことが立て続けに起こると、どこかに原因を押し付けたくなるのが人のサガだ。幽霊だったり、誰かの呪いや権力者の陰謀論、——神様の祟りといったぐあいに……。
最近の気疲れが夢になって現れた、わたしの思いすごしならそれでいい。
だけどもし、夢に意味があったとしたら、あれは何を示すのだろう。
授業に全く身が入らず、夢のことばかり考えてしまう。
狂ったように高笑う女性は、母の声だった。
意識が覚醒してもはっきり頭に残っている。似ているとか、そんな気がするという漠然とした一致でなく、あれは母が笑っていたのだと確信していた。
とても愉快そうで、だけどどこか投げやりな、わたしが聞いたことのない笑い方だった。
夢の中、真っ黒な世界にぽつんとあった、黒い水溜まりも気になる。
制服のスカートの内袋に入った守玉を、生地の上から握る。
毎日暇さえあれば眺めていた藍色の石。大切に扱っていたし、これまで地面に落としたりどこかにぶつけたりはしていない。それなのに、いつヒビが入ったのだろう。
スカート越しに守玉の形を指でなぞっていると、ふと雪根さんの言葉を思い出した。
暗い色の守玉は、深淵の気質を宿している。
深淵と似て非なる、真っ黒な夢の世界。
そこで聞こえた母の笑い声。
足元に見た、黒い水の——……。
「…………あっ」
唐突に夢と現実が重なって、ひとつの答えに辿り着く。
——あの黒い水溜まりは、御社の闇泉だ。
理解と同時に足元からぞわぞわと悪寒が湧き上がってきた。
いてもたってもいられず、授業中であるのを承知して席をたつ。
「すみません。具合が悪いので、保健室へ行ってきます」
言うが早いか、先生が許可するのを待たずに鞄を持って教室を出た。
なんで、どうしてもっと早くに結び付けられなかったのだろう。
闇泉にもしものことがあったらわたしは——。
当然保健室には行かない。人のいない空き教室で鞄から携帯電話を取り出し、震える指で母の電話番号を押した。
「ただいま、電話に出ることができません。後ほどお掛け直しください」
事務的な機械の音声に焦りが増幅する。
電話を切り、数分の逡巡の末再び母にかけてみる。結果は同じだった。
仕事が忙しいから電話に気付かないだけ? ……本当に?
胸の奥にもやもやが溜まる。
杞憂であってほしいと願い、それを確かめたくて今度は電話帳から別の人を選択して決定を押した。
忙しくて出られないかもしれないと、なかば期待半分にかけた相手は一度目の呼び出し音が消える前に繋がった。
「どうした」
宮城さんの低い声に緊張が走る。
「赤兎班に協力したことへの報酬を、使わせてください」
「落ち着け。まず、何があった」
問いかけに対し、返答に困る。
「……何も」
「お前は何もなしに、俺に電話してくる奴じゃないだろ。根拠は後回しでいいから不安になってるその理由と、お前が報酬を使って何をどうしたいのか端的に教えろ」
なおも言葉に詰まっていると、電話口からため息が聞こえてきた。
「それで、まずは何があったんだ」
「…………夢を、見て——」
ただの思い過ごしかもしれないと前置いて、昨晩見た夢について宮城さんに伝えた。
「——悪夢か。根拠が弱いな」
「だからこそ、報酬としてお願いしたいんです。わたしを一樹さんの御社の、闇泉に行かせてください」
教室の壁に設置された拡声器から、授業終了の鐘が響く。昼休みが始まった。
宮城さんの返事を待つうちに、廊下が少しずつ騒がしくなる。
「……わかった。少し待ってろ」
電話越しの声が遠くに聞こえる。おそらく宮城さんはそばにいる誰かと話している。
数十秒後、電話口からがさごそと音がした。
「朔ちゃん、聞こえる?」
「っ、はい!」
声が変わった。穂高さんだ。
「皇立院に待機中の鳳の班に送ってもらえるように要請するから、今から校門近くにある警備員の待機小屋へ向かえるかな。うちの誰かを御社に向かわせるから、現地で合流して。間違っても一人で乗り込んだらだめだよ」
「ありがとうございます!」
「不思議な報酬の使い方だね。朔ちゃんが満足するならそれでいいけど」
むしろこれが持て余した借りの最適な使い道ではないか。
もう一度穂高さんにお礼を言って電話を切る。
校舎を飛び出し校門へと走った。
皇立院に待機していた鳳の人に送ってもらい、御社が建つ小高い山の、麓の駐車場で車を降りた。
帰魂祭の時ほどではないが、平日の昼間に関わらず駐車場には多くの車が停まっている。御社へと続く道にもちらほらと人の姿が見られた。
田畑の間にある細道を急ぐ。
山に入る階段の前では明将さんと雪根さん、さらには啓斗さんに花歩さんもが待っていた。
「朔」
わたしに気付いた雪根さんが手を振ってくる。四人の視線がこちらに集まった。
思いのほか人数が多かったのと、赤兎本部の外に花歩さんがいることに驚く。今更だけど、わたしはとんでもないお願いをしてしまったのではないか。
「お待たせしました。……その、わがままを言ってすみません」
「宮城さんと約束してたんでしょ? だったらこの程度わがままでもなんでもないよ」
「ですが……、花歩さんにまで、来ていただくことになるなんて」
「俺と律が外に出るとなると、本部が手薄になるからな。だったら啓斗も連れて、花歩も御社に来たほうが安全だろう」
言いながら明将さんは御社へと続く階段を見上げる。
「華闇の管轄内は、旧家もそう簡単に手出しできない。ここには土地守りの護手もいるから、万が一が起こっても戦力として期待できる」
「わたしも御社参りへは行きたいと思っていたから、ちょうどよかったわ」
花歩さんの気遣いに心がざわつく。
そんな場合じゃないかもしれない……と、焦燥に駆られるわたしと彼らの間には明らかな温度差があった。
「とりあえず行こうか。一樹さんにも連絡が入ってるはずだよ」
雪根さんに促され、石の階段を上る。
「人、多いね」
御社を目的に行き交う人たちを物珍しそうに見回し、啓斗さんがこぼした。
「安定期が始まったからね。神界の加護が薄まった影響で不安定になる人は多いよ。そういった人たちは、無意識に御社を目指す傾向があるから、日を追うごとにもっと増えていくんじゃないかな」
「……参拝者のふりして変なのが紛れ込むとかは、あったりするの?」
警戒心から疑ってかかる啓斗さんの質問に、雪根さんは「んー……」と首を捻って考える。
「御社っていうのは、地上の中でも神域に最も近い場所だから。華闇の結界もあるし、基本的に蟲みたいなのは侵入できない。人を使うって手もあるけど、日の元の民には小さい頃から刷り込みがされてるからなぁ」
「刷り込みって?」
「お前は外でなんつー言い方してんだ。もう御社の敷地内だぞ」
きょとんとした啓斗さんとは反対に、明将さんは焦り顔で雪根さんを嗜めた。
しかし当の本人は気にした様子がない。
「この程度で神様は怒らないよ。刷り込みってのは生まれた時から植え付けられてる、信仰心の土台になる思想のこと。それがあるから日の元の民は神様を信じているし、御社という神聖な場所で悪さをしようと思わない。——普通はね」
雪根さんは肩をすくめ、境内へと続く表門を見上げた。
「罰当たりって言葉があるように、神様に対する畏怖の念は多くの人の行動を縛ることに成功しているけど、道を外れる人はどこにでもいる。慢心せずに参拝者も含めて用心しておくべきだと思うよ」
「御社内で不祥事とか、命知らずにも程があるだろ」
「常識的に考えればね。でも、朔が嫌な予感がしてるってのなら、何が起こってもおかしくない」
「……確かにな」
参拝者の列は、表門の開かれた大扉を越えたところが最後尾となっていた。
ここにきた目的は華殿へのお参りでないので、列には並ばず横を通って境内に踏み入れる。
前方より、袴装束の一樹さんがこちらへ歩いてくるのを発見した。
「こんにちは。宮城様より、お話は伺っています」
品のあるお辞儀をする一樹さんに、慌ててわたしも頭を下げる。
「お忙しいところすみません」
「とんでもございません。どうかお気になさらないでください」
安定期は華闇の管轄も慌ただしくなると、赤兎の本部で聞いていた。
一樹さんはそんな多忙さを一切態度に出さず、わたしたちを境内の奥へと誘った。




