13.穢れ(上)
報われなくて構わない。
ただ、あなたに報いたい。
夜だというのに、なんだか闇が薄い。
日を追うごとに辿れなくなっていた深淵のみんなの気配が、今夜は完全に消えてしまった。
寝台に腰掛けしばし呆然と天井を眺めていたが、やがてひとつの結論に至る。
遅れていた安定期が始まったのだ。
これから半月の間、天井と深淵の守護は消え、日の元を囲う海と空が穏やかになる。
年に二度、外つ国との交易が可能となるこの期間は、同時に外つ国が唯一日の元に干渉できる機会でもある。
招かざる客の侵入に備え、鳳の防衛系の班は要所に駆り出され、安定期が終わるまでは油断のできない日々が続く。
多くの民にとって安定期とは、日の元近郊の海と空が穏やかになり外つ国と交易できる貴重な時期、その程度の認識でしかない。
わたしにとっての安定期も、その間は妖たちが普段よりも比較的活発になるかなと思うぐらいのものだった。
たとえ神界の干渉が制限されていたとしても、闇に意識を向ければ深淵の気配を感じ取ることができていたからだ。
夜にみんなが側にいてくれる安心は、平常時も安定期も同じだった。少し前までは——。
心を置いてけぼりにして、わたしはどんどん大人になっていく。
今となっては半年前には確かに感じ取れていた、みんなの気配が探れない。
注意の方向を深淵から周囲へと切り替える。
階下にいる人の動きはしっかりと知覚できた。
地上に対する気配の感度は変わらない。
闇の世界との繋がりだけが、わたしの中から失われようとしている。
手を伸ばしても掴めない。
いつかはこうなると、ずっと前からわかっていた。
でも、いざその時に直面して、今更覚悟の足りなさを思い知る。
みんなを近くに感じられないのが、不安で、寂しくて、今はどうしようもなく悲しい。
告白なんて、夢のまた夢だった。
気持ちを伝えなくてよかったと、心から思う。
彼と顔を合わせづらくなるのは嫌だし、気を遣ってほしくもない。
考えてみたらわたしの好意はどこまでも一方的なものだ。
両思いになりたいとか、彼と思いを通じ合って何かがしたいという未来の展望もなかった。
ただ明将さんが好きで、彼の役に立ちたくて。
この思いは、彼の心を知った今でも変わらなくて……。
好き「だった」と、過去のこととしてそう簡単に割り切れそうにない。
想い続けるなら、隠さないといけない。
この気持ちを誰かに悟られるようなら、わたしは赤兎班にいないほうがいい。
一晩眠ったぐらいでは憂鬱な気分は払拭されなかった。
朝の冷え込みが一段と増して、布団を出るのが億劫になる。
台所で顔を洗う。水道の冷たさのおかげでいくぶんか目が覚めた。
身支度を済ませて、どんよりした気分で厨房へ向かった。
朝食の準備は慌ただしくて、花歩さんに後ろめたさを覚える余裕がない。集中していると気が紛れて助かった。
しかしその反動か、ひと段落ついて花歩さんと二人、厨房で朝ご飯を食べている時の心境は複雑だった。
何も知らず、いつもと変わらず朗らかに笑う花歩さんに、わたしもちゃんと自然な笑顔を返せただろうか。
花歩さんは何も悪くない。
このやるせなさと、言葉にできない憤りを彼女に向けるのは間違いだ。
朝食を食べ終え、学校へ行く準備をするために一度部屋へと戻る。
班員が集まり始めた食堂を後にした時、どっと肩の力が抜けた。
時間になって三階から一階へと階段を下った。
緊張しつつ早足で廊下を進むと、玄関の前には雪根さんと啓斗さんが立っていた。
「おはよう」
「おはようございます」
昨日の車中の会話で、わたしの気持ちを勘付かれていないかと不安だったけど、雪根さんの屈託のない笑顔にほっとした。
背広を着こなす雪根さんとは違い、今日の啓斗さんは軽装だった。ズボンに紺の綿シャツを合わせ、頭には深く帽子を被っている。
普段とは違う格好に見入っていると、啓斗さんは恥ずかしそうに横を向いた。
「外に出るなら、極力顔を見られない方がいいからね。有事の場合は仕方ないけど」
「本日は、啓斗さんが?」
「嫌だった?」
拗ね気味に聞き返され、そうではないと首を横に振る。
「そんなことはありません。……ただ、雪根さんと啓斗さんの組み合わせが珍しかったので」
赤兎本部で話しているとこはよく見かけるけれど、任務で二人が組んでいるのをわたしは未だに見たことがなかった。
送迎をしてもらうのもこれが初めてだ。
仕事に真面目で他人にも自分にも厳しい啓斗さんに対して、雪根さんは仕事は程よく手を抜いてこなす印象がある。
これに関しては穂高さんあたりが、あえて二人を任務では遠ざけているのじゃないかと勘繰っていた。
わたしを学校へ送るのは赤兎班の任務とまた別、ということだろうか。
「確かに、この組み合わせってかなり珍しいね」
わたしの感想に雪根さんが同意する。
「夜勤明けでアキはまだ寝てるから、啓斗がちょうど暇そうだったし引っ張ってきたんだ。基本、外出は二人以上じゃなきゃ駄目だから」
「基本じゃなくて原則だよ。それに俺は別に暇じゃないよ。本部内でも仕事は山積みだからね」
へぇー……と、雪根さんが適当に聞き流したら、啓斗さんの顔つきが険しくなる。
おそらく明将さんなら雪根さんの素っ気ない態度も気にしない。
こういった部分の相性が、啓斗さんと雪根さんはあまり良くないのだと思う。
「だいたい、雪根さんもアキさんと一緒に待機組みで夜通し警戒に当たってたはずじゃないの? なんでそんなに朝から元気なのさ」
「不足の事態の連絡待ちに二人もいらないでしょ。後半はアキに任せて俺は仮眠してたから」
あっけらかんと言い放つ雪根さんに、啓斗さんの開いた口が塞がらない。
わたしも目を丸くして反応に困った。内部のことに意見できる立場じゃないとわかっているけど、本当にそれでよかったのか。
「固まってないで出発するよ。だらだらしてたら朔が遅刻してしまう」
雪根さんがさっさと玄関を抜けてしまう。
わたしと啓斗さんはお互いに顔を見合わせ、慌てて彼の後を追いかけた。
「安定期、始まったね」
学校へと向かう道中、運転席の雪根さんが呟いた。
「……すみません」
忙しい時期に送迎の負担を強いているのが申し訳なくて俯く。そんなわたしに雪根さんは「違う違う」と軽く否定した。
「朔を責めてるんじゃないよ。今回の安定期は華闇が管轄の祓い屋を総動員しているから、妖の関係で赤兎班は動かなくていいし、通常の任務としては比較的楽ができてる。……その分、変則的な事態に備えないといけないのだけど」
変則的な事態。それだけである程度言わんとしていることは汲み取れた。
赤兎班は日の元の神の加護が薄まる時を狙って、外つ国の神が動き出すと予想しているのだ。
「いつ来るかわからないものをじっと待つのは精神的にもきついし、こういった気分転換は大事だよ」
「雪根さんの場合、仕事と気分転換の配分がおかしくなってると思うのは俺だけ?」
「さあ? 少なくとも最低限のことはやってるから、文句を言われる筋合いはないよ」
「……なんか基本が不真面目なんだよねぇ」
「そこは要領がいいって言ってほしいかな」
啓斗さんの小言をのらりくらりと雪根さんがいなす。
性格は違えどなんだかんだでこの二人、それなりに仲良しな気がしてきた。
「話が脱線したけど、俺が言いたかったのは朔のこと」
赤信号で車を停めて、雪根さんは後部座席に顔を向けた。
「赤兎班を手伝ってくれるのはありがたいし嬉しいけど、朔も見返りはちゃんと要求しないとだめだよ。宮城さんは安定期に関わらず年中忙しそうにしてるから、落ち着くのを待ってたらいつまで経っても何も貰えないよ」
「それは……、欲しいものがまだ、決まってなくて……」
宮城さんにも報酬を考えておけとは言われたけれど、現段階で特に望むものは思いつかず、この話はずっと保留になっている。
「お金はだめなの?」
「表向きの朔と赤兎班の関係性があるからね。班の資金を動かしたら面倒くさいところが突っかかってくる。ああでも、宮城さん個人の懐から出してもらうのはありかも」
「それはちょっと、畏れ多いです……」
「そう? あの人たぶんすごい額の資産持ってるよ? それにお金はたくさんあっても困ることはないだろうし」
「ここに宮城さんがいないからって、そういうことが言える雪根さんが怖いよ。……宮城さんの前でも普通に言ってしまいそうなのがもっと怖いけど……」
これには啓斗さんに激しく同意する。
雪根さんも宮城さんについて知らない訳ではないだろうに。
あの人に金銭をせびるなんて、わたしには怖くてできない。
そもそもわたしは見返りが欲しくて赤兎班に協力したわけじゃない。自分が赤兎班にいることの意味を求めて、勝手に役に立とうとしているだけなのだ。
高価な物はいらない。もらっても使い道に困る。
宮城さんに望むことなんてとても思いつきそうになかった。
*
「——ねえ」
「あっ」
朝礼までの時間を教室で過ごしていると、留美香が訪ねてきた。
はっと驚くわたしに彼女は表情を険しくする。
「なに?」
「なにもない……けど、元気そうでよかった」
「思ってもないこと言わなくていいわよ。とにかく一緒に来なさい」
言うだけ言って留美香はさっさと行ってしまう。
教室の出入り口に樋渡さんの姿があって胸を撫で下ろした。今回は留美香と二人きりというわけじゃないみたい。
わたしと留美香と、樋渡さんと。三人で空き教室へ立ち入る。
最後に入室した樋渡さんは扉の前で傍観姿勢をとり、こちらへは口を挟まないと態度で示した。
彼の疲れと呆れのにじむ顔からは、どことなく諦めが伝わってくる。
わたしの正面に立つ留美香が腕を組み、口を開いた。
「それで、赤兎班にわたしの希望は伝えてくれたのでしょうね」
話はそのことか。
以前に聞いたのは、わたしと交代して留美香が赤兎班の預かりになりたいという希望だった。
あれから色々あって、この話はすっかり流れてしまったと思っていた。
「赤兎班の人は、新たに誰かを預かる余裕はないって言ってた」
正確には「うちは託児所じゃない」だけど。ここで正直に告げて感情を逆撫でする必要はないだろう。
しかし言い方を変えたところで留美香が不機嫌になるのは容易に想像できた。
「なにそれ。あんた、おかしな伝え方をしたんじゃないでしょうね」
案の定、彼女は眉間に皺を寄せてこちらを睨んでくる。
「どうせ自分が奥園の分家に身を寄せたくないからって、わたしの邪魔をしてるんでしょ」
「そんなことない。留美香の言ったことは、班の人にちゃんと伝えたわ」
義父のいる家に帰りたくないのは本当。分家の庇護下に入るのを拒んでいるのも当たっている。それでも留美香の望みはできるだけ客観的に穂高さんに報告したつもりだ。
「はっ、どうだか。……もういい、わたしが直接赤兎班の班長と交渉するわ。いいでしょう、佐?」
今にも赤兎本部へ出発しかねない留美香の勢いに、さすがに焦る。
「待って! 赤兎班の人たちは今とても忙しくて、それどころじゃないの。行くならせめて安定期が終わってからにして」
「そっちの事情なんて知らないわよ。機会を窺っていたら、いつまでもわたしの願いは叶わない」
自分本位な主張に、カッと頭に血がのぼる。
「これ以上、赤兎班の人たちに迷惑をかけるわけにはいかない。奥園家の関係で、どれだけ彼らを危険に晒したと思ってるの」
退出しようとする留美香を引き止める。掴んだ手は忌々しそうに振り払われた。
「奥園って言っても、わたしは関係ないじゃない! 捕まるようなことは何もしてないわよ」
「罪がないから、順風満帆な日常を潰した赤兎班に自分の未来を補償しろというの? 奥園の件で彼らに責任を押し付けるのは間違ってる」
ふんっと、留美香が鼻を鳴らした。
「むかつくわね。自分は守られた場所にいるからって、上から目線で偉そうに。何様のつもり?」
「……わたしが気に食わないなら、赤兎班の人たちに迷惑をかけようとせずに、これからもそうやって、鬱憤はわたしにぶつければいいじゃない」
当てつけよろしく、そこまでして赤兎班にこだわらなくていいはずだ。
留美香が赤兎班に問題を持ち込まなくなるなら、鬱憤はわたしが引き受ける。
しかし留美香にとってこの提案は不服だったようで、苦々しい顔でわたしを睨んだ。
「……あんたはいつもそうよね」
唸るような声が耳に届く。
「いつも、……いっつも! 嫌なことの原因を全部自分の中に抱え込んで、自分が我慢すればいいって。そうすればほかに迷惑がかからないからって正当化して、なんでもかんでも逃げてばっかり」
苛立ちと憎しみのこもった言葉をぶつけられ、言い返せず立ち尽くす。
口を閉ざしたわたしへと、留美香は前のめりになってさらに続けた。
「何もかも、起こること全部、自分に原因があるんだって思っておけばそりゃあ楽でしょうね。他人に変化を求めて衝突する必要がないのだから! そんな奴にわたしの幸せを邪魔されたくないわ!」
「留美香」
「ほっといて! 言わせなさいよ!!」
樋渡さんが窘めるも、感情的になった留美香は止まらない。近づこうとした樋渡さんを跳ね除けるように振り回した手で、勢いよくわたしを指さした。
「あんたのその、自分は不幸だからなんでも許されるって態度が、ずっとずっと大嫌いなのよ! 幸せを掴む努力はしないくせに、人の足ばかり引っ張って」
「そんなこと……ない」
「嘘よ! あんたはどうせ、みんなが自分と同じかそれ以下の境遇にならなきゃ、自分の不幸はなくならないって、本気で思ってるでしょ」
違うと、首を振って否定する。
否定しておきながら、無数の言葉の刃がぐさぐさと心に刺さった。
息を荒くする留美香は感情が抑え込めず涙目になっている。
「冗談じゃないわ。誰があんたの幸せのために不幸になってやるものですか。世界中の人間がみんな自分の境遇に嘆いていたとしても、わたしは一緒に嘆いてなんてやらない。他人の不幸自慢なんてどうでもいいのよ」
わたしに突きつけていた手で、留美香は自分の胸元を叩く。
「わたしは、わたしの手で幸せを掴むの! それをあんたなんかに邪魔されたくないわ!」
叫び声がこだまして、しんと教室が静まり返る。
廊下から聞こえる喧騒がいつも以上に大きく目立った。
わたしも留美香も、樋渡さんも。この場にいる誰もが動けずただ立ち尽くした。
留美香が鼻をすする。彼女の目からぼろぼろと涙が零れた。
「……大っ嫌いよ、あんたなんて。どうしていつも、あんたばっかり……」
嗚咽を漏らす留美香を前にしてじくじくと胸が痛むのと同時に、思考がすうっと冷めていく。
幸せのためにひたすら突き進むことが、間違いだとは思わない。
だけどやっぱり、この主張をわたしは受け入れられない。
「言いたいことはそれで終わり?」
発した声は自分でも驚くほど抑揚がなかった。
留美香が涙で潤んだ目を丸くする。
泣き顔に同情を抱けなくなった辺り、わたしも相当赤兎班に染まってしまった。
おそらくわたしと留美香の価値観は、どこまで行っても平行線のまま交わらない。下手に相手を尊重して仲良しを目指すよりも、関わらない道を選択したほうがお互い平和に生きていける。それぐらい、わたしたちは違うんだ。
「人を踏みつけてでも幸せになりたいなら、勝手にすればいいと思う。でも……」
あなたの個人的な幸福論のために、彼らを利用するのは許さない。
「国のため犠牲になる覚悟がないなら、やっぱり留美香はあそこに近づくべきじゃない」
赤兎班の人たちは、任務に命をかけている。
たとえ任期を終えた後に、それぞれが求める幸せがあったとしても、彼らが日の元のために危険を冒していることに変わりはない。
「……なによ。あんただって、赤兎の班員たちに守られて、のうのうと過ごしているんでしょう! わかったみたいに大口叩いてんじゃないわよっ」
「……うん」
わたしは彼らに守ってもらっている。
だからこそ、もしも「その時」がきたならば、迷ってはいけない。
「わたしも、命をかけられる」
別にわたしは国に尽くしたいわけじゃない。
ただ大切な人たちを守るためなら、なんだってすると決めただけ。
わたしの宣言に、留美香の唇が震えた。
「……う……うるさい。うるさいうるさい! かっこつけてんじゃないわよ!!」
「留美香!」
激昂してわたしに掴みかかろうとした留美香を樋渡さんが羽交締めにする。
「あんたも、分家も! みんなしてっ! 役目のために命を惜しむなって、そればっかり!」
「落ち着け、彼女に当たるな」
「ねえ、わたしが間違ってるの? わたしは……、わたしは死にたくなかった。……生きていたいって望むのは、おかしいことなの!?」
留美香が膝から崩れ落ちた。床に手をつき声を上げて泣き出した彼女の背中に、樋渡さんが手を置いた。
「すまない。朝礼が始まる、君はもう行ってくれ。謝罪は後日、正式に」
この場を収めようとする彼に、その必要はないと首を振る。
「お互いに相容れなくても、わたしは双方に間違いがあるとは思ってませんので。そんなことよりも、留美香をお願いします」
返事を待たずに頭を下げて、空き教室を後にする。
留美香にもちゃんと、大切に思ってくれる人が傍にいる。ならばその人に任せるのが最善だろう。
死にたくないって気持ちが理解できないわけじゃない。
だけど……、やっぱりわたしは、大切な人たちを犠牲にしてまで生き延びたいとは思えなかった。




