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9.幸せの在処(下)





寝台の縁に腰掛け、夜明けを待つ。

医務室の小窓から、じわじわと朝の光が日避け布に滲んできた。



「……朔は、昼間よりも暗い夜のほうが好きなんだよね?」


「どちらがいいかと問われたら、そうなります」



光の眩しさに慣れてきたとはいえ、わたしはやっぱり静かな闇が好きだ。



「暗闇を怖がる人は好きじゃない?」


「まさか」



その理屈でいくと、わたしはほとんどの人を嫌いにならなくてはいけなくなる。



「先が見えない状態に恐怖を抱くのは、当然のことでしょう。わからないものが怖いのは、わたしだって同じです」



たまたまわたしは、暗闇の中でも情報を把握できる感覚を持っていた。真っ暗な状態で見えなくても多くを知ることができる。だから暗闇も怖くない。ただそれだけだ。



「暗闇が怖いだけじゃないということは、共感いただけたらいいなと思いますが……」



別段、無理をしてまで夜を好きになって欲しいとは望まない。

わたしだって日中に無理矢理外に連れ出されたら、光への苦手意識が増してしまうだろう。


啓斗さんがもぞもぞと寝返りをうった。仰向けになった彼はぼんやりとした視線をわたしに向けた。



「知ってる? 天上と深淵は、神様同士、互いの世界に直接の干渉はできないんだって。天上の神様が深淵に行けば、存在そのものが消滅する。深淵の神様も、天上では生きられない」


「……初めて知りました」



言われてみればそうなのかと納得できた。


天上と深淵は世界として互いに相容れない。

ならば日の元の建国神話で出てくる、天上と深淵の神様が愛し合う事例はかなり特殊なことなのだろう。——それこそ二つの神域の緩衝地帯とされる、地上にでも赴かない限り実現の余地がない。



わたしはそんなことをぼんやりと考えていたけれど、啓斗さんが伝えたい内容は、全く見当違いのものだった。



「——だから大陸の天上の神様は、神託で人間を動かして闇を……深淵を潰すんだ」



大陸は日の元の妖にとって眩しすぎると、以前宮城さんが言っていた。

大陸を支配する神の主権は天上にあり、闇を司る深淵は悪とみなされ淘汰されている——と。


知識として記憶していた内容が、啓斗さんの言葉でさらに現実味を帯びる。



「……俺も、日の元に来るまでは深淵にいるのは魔物だと思ってた。——今は違うからね」



不安そうに付け足した彼に、わかっていると強く頷く。



「でもちょっと……、大切なんだってわかっていても、まだ夜は怖い。……それでも、静かで暗い夜のほうが、ゆっくり休めるんだ……」



天井を見上げる啓斗さんの目蓋が次第に重くなる。



「……外つ国の夜は、こんなに暗くない。……静かでもなかった……」



朝の光でうっすらと室内が見え始めている。

天井の模様も、目を凝らせばはっきりと窺えた。

わたしにとってこれはもう明るいうちに分類される。


大陸の人々は闇を淘汰して、どうやって安息を得るのだろう。

なんだかとても生きづらそうですね……とは、あまりにも主観が入りすぎた感想なので言うのをやめた。





やがて穏やかな寝息が聞こえてきた。

しばらくは様子を見ていたが、気持ちよさそうに眠る啓斗さんにほっとして、起こさないよう慎重に立ち上がった。


音を立てないように気をつけつつ、扉の取っ手を回す。廊下にはもう、人の姿はなかった。


ぞわぞわ……と。二階に意識を向ければ、少ないながらも人が起き出した気配が感じ取れる。

一階へ来た当初の目的を済ませるため、足元の非常灯が消えた廊下を浴室へと急いだ。


手早く体を清めて髪を洗い、部屋に戻る。

朝食を済ませた後は普段と違う平日が始まった。



学校がしばらく休校のため、赤兎班の人たちに送迎をしてもらう必要がなくなった。忙しい彼らの仕事が減ったのは不幸中の幸いだ。


することがなくなってひとりで考えるのは、今朝方話した啓斗さんについてだ。

冷静になって思えば、わたしは彼のとんでもない秘密を知ってしまったのではないか。


日の元の真実といい、外では口にできない極秘事項がどんどん蓄積されていく。

他者に漏らす気はないけど、わたしがここまで知ってしまって大丈夫なのかと心配になる。


これもあの人の策略なのかと、疑ってしまうのも無理はないと思う。


そして完全に、わたしは術中に嵌ってしまっている。


赤兎班のこと。啓斗さんのこと。……わたしのこと。


自分がどうしたいのか。何をすべきなのか……。


行動を起こさない言い訳をあれこれ探してきたけれど、自分の中で答えはとっくに決まっていた。



「…………もぅ……」



頭を抱えて大きくため息を吐く。悶々と悩んでも埒があかない。

意を決して部屋を出た。


忙しいようだったら、話がある旨を誰かに伝えておこう。


呼び出しを受ける前に、宮城さんにはわたしから会いに行くべきだ。






不在であってほしい。できればもう少し心の準備がしたいと、弱気になっている時ほど望み通りにいかないのはお決まりだ。


執務室の扉を叩けば、宮城さんはすんなりとわたしを中へ通した。

わたしがここに来ることは既に予測していたのだろう。確信的な笑みが何もかもを物語っていた。


同室で書類を仕分けする穂高さんの視線が痛い。

それでも上司に忠実である穂高さんは、こちらに注意を払いつつ自身の仕事に専念していた。


椅子に腰掛ける宮城さんと執務室の机を挟んで向かい合う。



「どうした。身の危険に晒されて、自分の家が恋しくなったか」



どうせこっちの心境はお見通しのくせに。

宮城さんは意地が悪い。


手のひらの上で踊らされているのは承知のうえ。

彼の思惑とわたしの希望は一致しているのだから、反抗的になっても意味がない。



「わたしに何か、お手伝いできることはありますか?」


「うちには入らないんじゃなかったのか」


「正式な所属、という意味では抵抗があります。ですが現状わたしはここで厄介になっている身です。ただの居候でいたくないので、よければ皆さんのお役に立てることがありましたら教えてください」



雑事でもなんでもいい。わたしにできることならやるつもりだ。


赤兎班の人たちに守ってもらい、彼らを危険な目に合わせてまで生きる勇気はないけど、わたしの力が少しでも役立てるなら、自分にできることをしたい。


結果的に傷付いて、わたしが駄目になっても、それはわたしの弱さが原因だ。誰のせいでもない。

それに部屋に閉じこもってじっとしていたところで、赤兎班の人たちの危険はなくならないのだから。



「……何もせずにいるのが、一番後悔しそうなので」



正直怖いし、母を思えば後ろめたい気分になる。

それでも、間接的にでも大切な人を守れるなら、頑張りたい。


宮城さんは頬杖をつき、机の上の書類に目を落とす。薄く笑う口元が、彼の上機嫌を教えてくれた。



「秘密は厳守だ」


「承知しています」



啓斗さんの出自だって誰かに話すつもりはさらさらない。



「いい時に来てくれたな。ちょうどお前に頼みたかった仕事があるんだ」



そう言って、彼は手元の用紙をわたしに見せた。









     ◇  ◇  ◇






「——では、本日はこのように」


「ああ。よろしく頼むよ」



本社へ出勤する前、夫である奥園礼司にその日の動向を伝えるのが、愛里にとっての日課であった。


奥園の取り仕切る貿易社は、経営の主体を本家から分家へと引き渡す作業が急速に進められている。

奥園礼司が本邸に軟禁されている現状、会社で直接分家の者とやり取りをして、引き継ぎの業務に勤しんでいるのは社長の右腕である愛里だった。


愛里の奥園礼司に対する事務的な話し方は、結婚してからも継続されている。唯一変更点を挙げるなら、建前のために呼び名を「社長」から「礼司さん」に変えたぐらいか。


そもそも二人の間に恋愛感情は微塵もなく、結婚に至ったのも互いにとってそれが最善だったからにすぎない。

偽装のために人前で愛を囁き合うことはあれど、それが本心でないのは彼らの共通の認識だった。


しかし恋情はなくても、愛里は奥園礼司に忠実だ。


有能な部下として恩人に報いようとする仮の妻の姿勢を、奥園礼司はとても気に入っていた。


でも、彼女は苛立ちや鬱屈感を腹の底に抑え込んでいる。

本人は隠しているつもりだろうが、彼女の顔には日に日に疲労の色が濃くなっていた。


揉め事は最小限に抑え、分家への経営の引き継ぎを円滑に行うようにと、奥園礼司は愛里に指示した。


命令通りあの騒動以降、愛里は社内に残る本家の支持者と分家の間に立ち、禍根が残らないよう双方の顔を立てつつ業務の移行に尽力している。

その手腕は見事なものだと、愛里の評価は別の筋からも奥園礼司の耳に入っていた。


そして愛里にとって、その高評価こそが苛立ちの最たる原因だと、奥園礼司はしっかりと把握済みだ。


当然といえば当然だ。

結婚当初、当主をたぶらかした売女だ、所詮は遺産目的だと散々陰口を叩いてきた分家の者たちに、今更仕事ぶりを評価されても嬉しくはない。

急に手のひらを返し業務で彼女を頼ろうとする者たちが、気位の高い愛里には気に食わないのだろう。


思うところがあろうと愛里が粛々と仕事をこなすのは、ひとえに奥園礼司の意向を汲んで動いているからに他ならない。






「愛里さん」


「なんでしょう」



本社へ赴こうとする愛里を奥園礼司が呼び止めた。

愛里は姿勢を正し彼と向き合う。



「離縁しようか」


「……なぜ?」



唐突な提案に目を見開いて驚愕する愛里だったが、次第に見せる感情を驚きから困惑に変えていく。

捨て犬を彷彿させる哀感を帯びた彼女に合わせるように、奥園礼司も寂しそうに苦笑した。



「わたしは……、何かあなたの気に障ることをいたしましたか?」


「そうじゃない。君はこれまでわたしの傍でよく尽くしてくれた。……だが、ここから先、わたしと共に泥舟に沈むことはない」


「おっしゃる意味を理解しかねます。たとえ当主の座を退く日が来ても、あなたの未来が完全に断たれるわけではないはずです」


「近いうちに鳳は再びわたしを捕らえにかかるだろう。……わたしとて、簡単に諦めるつもりはないが、これ以上あなたを巻き込むのは気が引けてね」



必死に離縁を思い止まらせようと前のめりになっていた愛里は硬直し、顔色を変えた。


彼女は馬鹿ではない。盲信的な部分もあるが、主人の意図を察する能力は人一倍優れている。


仄めかした内容は正確に受け取ってもらえたようだ。

奥園礼司は椅子の背もたれに深く身を預け、のんびりと天井を仰いだ。



「これまで何度も妥協点は模索してきた。しかしどう足掻いても、わたしの正義と日の元の正義は相容れない位置に存在しているらしい。……わたしが少数派なのは十分承知している。あなたの理解を期待するのも、それこそ高望みというものだ」



手にした書類を両手で強く抱きしめ、愛里は唇を震わせる。

それを横目に見ながら、男はさらに続けた。



「わたしには、国に背いてでも成し遂げたい夢がある。鳳との衝突が避けられなくなった今、愛里さんはここを去るべきだ。今なら何も知らなかったで済まされる」



奥園礼司はあくまでも、突き放すのは彼女のためだと主張する。その態度が相手の良心をぐさぐさと刺激することを、十分理解したうえでの言動だ。



「それにわたしと離縁したほうが、朔もあなたの元へ戻りやすいだろう」



極め付けに愛里が誰よりも愛する娘の名を出せば、彼女は眉を寄せて泣きそうになった。

安全への誘惑を振り払うように小さく首を横に振る。迷いを映す愛里の瞳には、それでもなお奥園礼司に対する恩が垣間見れた。



「……あの日、どうしようもなかったわたしたちを助けてくださったのは、あなたです」


「そうだね。あの時の愛里さんは必死だったから、力になりたかったんだ。まさかこんなことになるとは……、我が儘をどうか許してほしい」


「いいえ、いいえっ」



目に涙を溜めて愛里は必死に否定した。



「華闇も、皇も……、鳳だって、わたしにはなんの救いにもならなかった。……あれが日の元の正義だというのなら、わたしはとうの昔に正義に見放されています!」



過去に受けた理不尽への憤りは、平穏を手にしたぐらいでなくならない。

愛里の胸の内に隠された日の元への憎しみは根深く、そこがとても魅力的なのだ。


悲しみで流れた一筋の涙が床に落ちた。

次の雫は頬をつたう前に愛里自身によって拭われる。

それが、彼女の決意が固まるまでに要した時間だった。



「どうか、恩に報いさせてください」



奥園礼司をまっすぐに見つめ、愛里はさらに言った。



「わたしにできることがあれば、教えてください。……わたしはあなたに、最後までついていきます」



闘志をみなぎらせる愛里に対し、椅子に座る男は無言で目を伏せた。



期待以上の忠誠心。


ああ、だから彼女は素晴らしい。



深刻な表情でたっぷりと間を置き、心を決めた愛里に応えるべく顔をあげる。



ならば——と。



奥園礼司は忠実なしもべに協力を仰いだ。







     ◇  ◇  ◇






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