4.まさかの再会(中)
外が薄暗いうちに寝台を這い出て、制服に着替える。
何をするでもなく小窓から見える朝靄のかかった景色をぼんやり眺めていると、玄関の戸が控えめに叩かれた。
「起きてる? 開けてもいいかしら」
「は、はいっ」
聞こえた声に慌てて玄関へと走る。
部屋の扉がゆっくりと開き、女性が顔を覗かせた。
わたしよりも少し年上くらいだろうか。大きな瞳が朗らかな印象を与えてくる、可愛らしい顔立ちをしたお人形さんみたいな人だ。
彼女が顔を傾けると、肩まである真っ黒な癖のない髪がさらりと揺れた。
たとえ敵意は感じられなくても、ここにいるということは、彼女も赤兎班の班員なのだろう。
わたしと向かい合った彼女は、姿勢を正して自信に満ちた笑顔で口を開いた。
「はじめまして、花歩といいます。赤兎班の所属で、後方支援を担当させていただいてます」
「あっ、えっと……、奥園朔と申します」
しどろもどろになりながらもなんとか返したわたしに、花歩さんは気さくに笑いかける。
「そんなに緊張しなくていいのよ。わたしだって、大層な肩書きをもらっているけど、やっていることは掃除とか、皆さんの生活面でのお世話ばかりだから。朔ちゃんも困ったことがあったら何でもわたしに相談してね」
「は……はい。よろしくお願い致します」
「とりあえず朝食を持ってきたから、中に運ぶわね」
そう言って花歩さんは一度廊下へと出る。
そして扉の近くに止められていた二段式の台車から、ご飯と味噌汁、おかずの入った皿を手際よく机に配膳した。
「食べられないものがあったら残して大丈夫だから。また今度、朔ちゃんの好きな料理とかも教えてね」
彼女はわたしの赤兎班における立場を知っているはずなのに、気を遣っているのかとても友好的に話しかけてくれる。
表情に後ろめたさはなく、警戒心が感じられない。
「はい。ありがとうございます」
「どういたしまして。こんなところに来て緊張してしまうのも無理はないわ。でも、あまりひとりで抱え込みすぎては駄目よ。すぐには無理でも、わたしとも、少しずつ打ち解けていければ嬉しいわ」
彼女は気さくで、……とても眩しい人だった。
*
柊さんの運転する車で、わたしは登校した。昨日と同様、後部座席に穂高さんと並んで座った。
学校に到着して車を降りる。朝礼まで時間に余裕があった。
教室に入って自分の席に座っていたものの、昨日のこともあって居心地が悪い。
こちらを横目に見ながら、ひそひそと話す小声があちこちから聞こえてくる。
昨日、学長に呼び出されて以降のことを、直接わたしに聞いてくる人がいないのは幸いだった。
質問されても、どう答えていいのかわたしにもわからない。
不意に教室が静かになった。
緊張を含んだ異様な空気を感じて顔を上げると、わたしの席の前に留美香が立っていた。
「あっ……」
反射的に自分の頭に触れる。
思い出した。髪の毛……、染めなきゃいけなかったんだ。
「……着いて来て」
有無を言わせぬ鋭い声。教室を出ていく留美香を急いで追いかけた。
留美香はいつも一緒にいる人たちを同行させていなかった。
二人で人のいない空き教室に入る。
廊下から微かに届く喧騒が、とても遠く感じられた。
留美香と向かい合ったわたしは、かける言葉が見つからず彼女の行動を待った。
怒りを含んだ強い視線が肌に突き刺さる。痛みに似た感覚が頬や首元を刺激して、顔をしかめないようになんとか耐えた。
腕を組んだ留美香が首を傾けて顎でわたしの顔を示す。
「髪、今日中にどうにかしなさいよ」
「うん。わかってる」
やっぱり、そのことだったか。
昨日はそれどころじゃなかったなんて言い訳、きっと通用しない。
留美香はどれぐらい、義父の件について知っているのだろう。
「……あなたは、鳳のことについて……、お義父さんから何か聞いているの?」
勇気を振り絞って、質問してみる。
「赤兎班」の名前は怖くて口にできなかった。
問いかけに、憮然と構えていた留美香の表情がみるみる険しくなってゆく。
「お父様のことを、あんたが父親と呼ぶ資格はないわ」
忌々しそうに吐き捨てて、彼女は窓の外に目をやった。
「お父様の疑いはすぐに晴れるわ」
その声には本人も自覚していない恐れと懇願の色が垣間見えた。
……そっか。そうよね。
実の父親が大変なことになっていて、娘が平気でいられるわけがないか。
「あんたは奥園にとってただの穀潰しなんだから、こういう時ぐらい役に立ちなさいよ」
「……うん」
「学校で、お父様のことを話したら容赦しないんだから」
言い捨てて、留美香は用事は済んだとばかりに足早に立ち去った。
ひとり残されたわたしは、ため息をついて肩を落とす。
納得した。留美香は義父の問題が学校に広まるのを恐れているんだ。
当然といえば当然か。日の元で知らぬ者はいないほどの大企業の社長に犯罪の疑惑なんて、たとえ冤罪だったとしてもその後に大きな傷を残しかねない。
父親の無実を、娘の留美香は心の底から信じている。絶対的な存在を盲信していれば、未来への不安は生まれないから。
そんな彼女の唯一の不穏因子は、わたし。
わたしが余計なことを口走らなければ、全ては丸く収まり、誰もが変わらない日常を過ごせるのだ。
しばらく空き教室で呆然としていると、廊下から足音が聞こえた。
足音は次第に大きくなり、ほどなくして入り口の引き戸を勢いよく開けて、三人の女子生徒が入ってきた。
彼女たちの顔には覚えがある。
留美香とよく一緒にいる人たちだ。
三人とも苛立ちと怒りを滲ませながらでこちらへと近づいてくる。
正面に立った女子たちの内面に、憤怒に隠した加虐への愉悦を覗き見てしまい、咄嗟に一歩後ろへと足を引いた。
真ん中の女子生徒の手に大きな鋏が握られているのを見つけてしまい、背中に嫌な汗が伝った。
「留美香、昨日言ってたわよね。その髪どうにかしろって。どうして言われたこともできないのかしら」
刺々しい口調で言い放ち、女子生徒たちがこちらににじり寄る。
素早く左右にいたふたりがわたしの隣に移り、両腕をそれぞれに掴まれた。
「動くと怪我するよー」
中央にいた女子生徒が背後に回った。
顔の横からぬっと突き出た鋏の、銀色に光る刃を視界の端でとらえてしまい、息を飲み込む。
「ふふっ」
怖気付いたわたしに彼女たちが失笑をくれる。
耳元で聞こえた笑い声に全身が総毛立った。
首筋や耳の近くの髪を、大きく開いた刃ですくわれる。
そのまま刃が閉じると、じょきりと音を立ててわたしの髪が床に落ちていった。
それが何回か続いた後、気が済んだのか鋏を持った女子生徒はわたしの正面に回り込んだ。
両腕を持たれ、力なく立ち尽くしているわたしの頭から足先までじっくりと観察して、彼女は満足そうにうんと頷く。
「さっぱりしてよかったじゃない。ありがとうは?」
絶句する私の首に、鋏が突きつけられた。
「ありがとうございます、でしょ?」
鋭利に尖った刃の切先が喉の皮膚に食い込む。
「……ありがとう、ございます」
なんとか声を振り絞った。
彼女たちはケタケタと笑いながら去っていった。
朝礼の五分前を知らせる鐘が鳴る。
教室には、戻れそうになかった。
朝礼が始まっても、わたしは空き教室にいた。
重い足を動かして掃除用具庫の扉を開ける。
箒で切られた髪をかき集め、塵取りを使ってごみ箱に捨てた。
肩を落として自分の髪が落ちていったごみ箱を見つめる。
ふと顔を上げる。教室の入り口に人がいるのに気付き、驚いて体が跳ねた。
いつの間にか至近距離に男子生徒が立っていた。
制服を模範的に着こなした、いかにも優等生といった身なりの彼。
警戒と恐怖から二歩、三歩と教室の中へと後ずさる。
知っている。彼も留美香の関係者だ。それも後ろに付き従う大勢ではなく、いつも彼女の隣を歩く立ち位置にいる。
物静かで目立たないながらも、留美香の傍に常に控える。友達というよりは、彼女のお目付役のような立場だと認識していた。
そんな人がわたしに、今度は……、どんな用事なの。
身を固くして動かないわたしを見て、彼は目を伏せ微かに首を横に振った。
「着いて来ればいい。その髪をどうにかしよう」
背中を向けた彼に従うべきか。
判断に困って動けないでいるわたしへと彼は振り返り、感情の読めない顔で再度口を開いた。
「警戒する気持ちもわかるが、その髪では人前に出られないだろう。朝礼が終わる前にここを移動したい」
急かしてくる彼にはわたしに対する同情心や哀れみはなく、明確な悪意も感じられなかった。
不揃いになった自分の髪に指を通す。
このままにできないのは、確かに彼の言う通りだ。
迷いながらも空き教室を出ると、彼は廊下を進み出す。
わたしの歩調に合わせてか、心なしかゆっくりとした歩みだった。
本館校舎の一階。
常時使用されている保健室の隣にある、第二保健室で丸椅子に座るよう指示された。
彼は壁についた押し戸を通り隣の保健室へと行ってしまう。
すぐに戻ってきたその手には、長めの布巾と散髪に使う円形の滑りの良い布、そして髪を切る専用の鋏が握られていた。
首に巻くようにと布巾を渡される。
その上に、中央に穴の空いた円形の布を大きく広げ、わたしの頭に通して全身を覆った。
手際良く準備を進めていく彼に戸惑いを隠せない。
「動くとさらに短くなるぞ」
「どうして、学校にこんなものが」
「校則違反者の長髪を問答無用で切るためだろう」
そんなものかと。納得できたような、そうでもないような……。
一時間目の授業が始まる鐘の音が響く。
沈黙の中、彼はひたすら鋏を動かした。
会話を切り出し辛い空気だ。
横目に見える彼の表情は真剣そのもので、悪意あっての行動だとはとても思えない。
大人しく任せてじっとしていると、しばらくして彼は側を離れた。
「こんなものか」
表情は変えずに頷いて近くの机に鋏を置く。
円形の布を取り払い、彼はわたしに壁にかかった鏡を見るよう促した。
こざっぱりとした短い髪になったわたしが鏡に映る。彼の腕前は確かだったようだ。
慌てて椅子から立ち上がり、後始末をする彼に頭を下げた。
「あの、ありがとうございます」
「礼を言う必要はない。そもそもの原因は留美香にある」
彼は使用した道具を持って保健室への戸を潜り、手ぶらになって戻ってきた。
「留美香の周りにいる人間は、留美香に気に入られようと必死だ。もしかすると、これからも今以上のことが起こるかもしれない」
彼の瞳に影が落ちる。ちらりとわたしを一瞥し、深いため息を吐き出した。
「……どうにかできればいいんだが」
それは、一体誰を心配しての言葉だろう。
留美香と親しい彼は、もしかしたら義父のことを知らされているかもしれない。
ほんの少しだけ、第三者から見た奥園家の現状を聞いてみようかと考えたけど、すぐに思い直した。
だめだ。出会って間もない人に安易に話せるような問題じゃない。
互いに何も喋らず、気まずい沈黙の時間が流れる。
話しかけるきっかけに困っていると、勢いよく第二保健室の扉が開かれた。
慌てた様子で入室してきたのは留美香だった。
「佐! どうしてこいつといるのよ!」
「留美香、授業中だろう。それにどうしてここが」
「雷也が教えてくれたのよ! そんなことどうでもいいでしょう」
佐、と呼んだ彼に詰め寄った留美香が、奥にいたわたしの短くなった髪を見て驚きに目を見開く。
「君の行動の結果だ。言動には気をつけろといつも言っているだろう」
「うるさいわね。わたしに指図しないで」
こちらを睨みつけ、留美香は彼の腕を掴んで出口へと引っ張る。
「行くわよ」
別れの挨拶を言う間もなく、二人は第二保健室を去って行った。
佐と呼ばれていた彼のおかげで、二時間目が始まる前に教室へ入ることができた。
授業をさぼって、さらには朝と違う髪型になって帰ってきたわたしに、学友たちは奇異の目を向けた。
放課後。
教えられた通りに学校の裏側に行くと、朝乗ってきた車に穂高さんと柊さんが待っていた。
わたしが乗り込むと、すぐに車は走り出す。
「髪の毛、どうしたの?」
隣に座る穂高さんに聞かれて、一瞬答えに迷う。
「その……、気分転換に。友達に、してもらって……」
「そっか。言ってくれたら美容室ぐらい行かせてあげるよ」
「……すみません」
当てつけと思われてしまっただろうか。
今日はとても、沈黙が痛い。