8.幸せの在処(中)
体は眠りを欲する。しかし不安を抱えた頭は思考を止めず、答えのない問いかけが延々と浮かび続けた。
そうこうしているうちに肉体の疲労が勝り、意識は夜の闇に溶けていった。
闇に包まれてうつらうつら。
浅い眠りと覚醒を繰り返す。
夜半を過ぎ、目を覚ますごとに夜の気配が薄らいでいく。
夢かうつつか……。
誰かが声を殺して泣いている。
爆発しそうなやるせなさを抱え込み、後悔に苛まれて途方に暮れる。
この感情はわたしの胸の内に潜むものか、それとも……。
気になって体を起こす。
倦怠感は依然として残るが、頭痛は幾分かましになった。
部屋は変わらず暗いものの、日避け布を掛け忘れた小窓から、微かに白ずみかかった空が見える。
日が昇らない早朝。皆が寝静まる本部の建物内に、動いている気配はなかった。
こういう時につい周囲を探ってしまうから、体の回復が遅くなるのでは……?
無意識にしてしまった探索で目の奥がつんと痛みだし、自分に呆れながらこめかみを指で揉みほぐした。
俯いた顔に掛かった髪を手櫛ですく。髪の毛の埃っぽさが気になって、再び横になるのを諦め寝台から立ち上がる。
今なら浴室も空いているだろう。
着替えを用意して部屋を出た。
夜の任務に行ったらしい雪根さんたちは帰ってきているのだろうか。そんなことを考えながら静かに階段を下りる。
下の階が近づくにつれて廊下に人の気配を察知した。少しの緊張が走る。たとえ親しい人であろうと、この時間に顔を合わせるのはなんとなく気まずい。
かといって後ろめたいこともないのに部屋に戻るのもおかしい気がして、覚悟を決めて一階まで下りきった。
階段から恐る恐る、左右に伸びる廊下を確かめる。
気配の正体はすぐに見つけられた。階段を下りて廊下を左に曲がった先にある医務室の前に人がいたのだ。
その人は扉にもたれかかり、膝を抱えてうずくまっていた。
彼は本来医務室の中に……、それも寝台で寝ていなければならないはずで……。
この状況、見なかったことにはさすがにできなくて、彼——啓斗さんの元へ歩み寄った。
悲壮感漂うどんよりとした空気に、なんと声をかけたらいいか迷う。
啓斗さんは眠っているのか。膝に顔を埋めてぴくりとも動かないので、わたしに気付いているかも判別できない。
ひとり沈黙に耐えかね腰を屈めて啓斗さんを窺った。
「おはようございます。お体は大丈夫ですか……?」
静まり返った廊下では控え目に発したつもりの声も予想以上に響いた。
彼の膝を抱く手にぐっと力が入る。
「……その、中に入りませんか? ここにいたら体が冷えてしまいそうですし……」
秋が深まるにつれて日に日に寒さは増している。
このままでは風邪をひいてしまいかねない。
啓斗さんが起きているのはわかった。
わたしの声が届いていても反応しないということはつまり、話したい気分じゃないのだろう。
もしかしたら、彼は誰かを待っているのかもしれない。
「いきなり声をかけて……、驚かせてすみません。わたしは行きますので、お大事になさってくださいね」
しつこくしても迷惑だろうとその場を去ろうとした。
当初の目的であった浴室方面へと足を向けたその時、啓斗さんの頭が動くのを横目に見た。
ゆっくりと顔が上がる。
彼の泣き腫らしたなきはらした目にぎょっとして歩みを止めた。
「……何してるの? こんな時間に……、こんなとこで」
それはわたしが言いたい台詞だけど……。
極限まで震えた声に、下手に刺激してはいけないと悟る。
彼の心は決壊寸前で、感情をうまく制御できてない。そんな状態で虚勢を張ろうとするから、さらに無理を重ねてしまっている。
「昨日、お風呂に入らずに寝てしまったので、浴室をお借りしようと思って」
努めてゆっくりと、落ち着いた口調で話す。
啓斗さんは気まずそうに目を背け、眉間に皺を寄せた。
「……ふうん。…………さっさと行けば……?」
「啓斗さんは、誰かと待ち合わせですか?」
「……別に。……誰も待ってない、……けど……」
だんだんと声が小さくなる。
ちらちらとわたしの顔を盗み見る様子は、まるで怒られるのを怖がる子供みたいだ。
彼を怯えさせないように、膝を曲げて目線の高さを合わせた。
「でしたら、せめて室内に入りませんか? 廊下は寒いですし……、啓斗さんが風邪をひいてしまいそうで、心配なんです」
空振りを承知で手を差し出してみる。
啓斗さんはためらいながらも、わたしの手に自らの手を重ねた。彼の手のひらは外気に体温を奪われて、とても冷たかった。
医務室に入ると啓斗さんは逃げるように寝台の布団へと潜り込み、わたしに背中を向けてしまった。
その様子は拒絶というより、自己嫌悪からくる居た堪れなさを強く感じた。
わたしに気を遣われるのは自尊心が傷付くのだろう。
心配だけど、だからといってわたしはずかずかと心の内に踏み入っていい立場じゃない。
「啓斗さんが良くなって、ほっとしてます」
こんな言葉、気休めにもならないかもしれないけど。
「車中でお聞きした伝言は、宮城さんに伝えてません。……おそらく、元気になった啓斗さんが直接言った方が、宮城さんは喜ばれると思いますよ」
啓斗さんは動かない。元より返事は期待していないし、わたしの声が子守唄になるならそれでもいい。
「……おやすみなさい」
眠りを妨げないように、そっと医務室を立ち去ろうとした。
音を立てないよう扉の取っ手に手を掛けたその時、啓斗さんが布団の中で動いた。
「……死ねばよかったのにって思ってない?」
そしてこのとんでも発言ときた。
どうしてそうなるの? とか。
そもそも死んでほしい人を必死で助けようとはしない。——とか。
いろんな反論が頭を駆け巡るが、その前にまず……。
「…………わたしの話、聞こえてましたか……?」
啓斗さんが良くなってほっとしたって、今さっき言ったけど……、そんなに信用がないのかな……。
「啓斗さんの傷が治って、良かったと思います。……花歩さんの、治癒の力の代償はお聞きしていますが……、それでも、啓斗さんが生きていることがわたしは嬉しいです」
もぞもぞと。寝台の上の小さな体が寝返りを打つ。
わたしの方へと体を向け直し、彼は布団を口元まで手繰り寄せた。
「……俺……」
か細い声に取っ手から手を離す。話を聞く体勢を取ると、啓斗さんの布団を掴む手に力が入った。
「俺、さあ……。外の……、大陸の人間なんだ」
震える声で打ち明けられた内容を完全に理解するまでに、数秒の時間を要した。
わたしが驚に目を見開くのと連動して、啓斗さんは今にも泣きそうな顔で自嘲的な笑みを深めていった。
「怖い? なら逃げていいよ」
「……いえ、驚きましたが……、啓斗さんは、怖くないです」
彼が外つ国の出身だったとして、見た目も気配も日の元の民と全く違いがない。言葉だって通じている。
秘密を打ち明けたことでわたしがどんな態度になるのか。怯えをひた隠す彼を、怖いだなんて思うはずがない。
「大陸は争いの絶えない場所だと聞いていたので、血の気の多い人ばかりだと勝手に思い込んでましたが……。すみません、偏見でした」
「争いが絶えないのは本当だよ。……俺の生まれた村も、敵に攻められて全部焼かれてなくなったから」
淡々と紡がれる凄惨な過去に言葉を失う。
なんと返していいのかわからず立ち尽くすわたしに、啓斗さんはさらに続けた。
「住む場所がなくなって、敵に追われて家族で逃げた。逃げて逃げて、大陸の端まで追い詰められて、どうしようもなくなって……、最後は生き残った人たちで船に乗って日の元を目指した」
「……ですが、日の元を囲む海域は……」
「うん。知ってた。多分だめだろうって、みんなわかってたと思う。でも陸地にいても殺されるだけだったし……、もう、奇跡に縋るしかなかったんだ」
ぼんやりとした、彼の虚な瞳に影が落ちる。
「……だけどやっぱりだめだった。荒れ狂った海で船は沈んで……、俺だけが日の元の海岸に打ち上げられてた」
他の人はどうなったかなんて、聞くまでもない。
日の元の結界に阻まれ、船もろとも海の底へと沈んだのだ。
「そこから宮城さんに引き取られて、穂高さんの家に預けられた。穂高家の人に日の元の言葉とか、常識とか、いろいろ教えてもらった。……それで、日の元の言葉がわかるようになってから、知ったんだけど」
啓斗さんは一度強く唇を噛んだ。
「俺……、大陸の人間は日の元で発見された場合、すぐに処分されるのが普通なんだって。だけどたまたま、宮城さんが俺を見つけてくれて『七歳に達していなければ産土がどこであれ神の守護下に入れる。荒れた海を日の元まで生きて渡れたのは、日の元の神々の許しを得た証だ』って皇を説得してくれたから、俺は殺されずに済んだ」
大陸から日の元を目指した船の中で、子供は自分だけだったと啓斗さんは振り返った。
「……赤兎班にいる人は、俺のこと、普通に人として見てくれる」
「普通に、人ではないのですか? 少なくともわたしには、啓斗さんと日の元の民の違いは判別できません」
むしろ妖の本性を秘めたわたしたちの方が、外つ国出身の啓斗さんからしたら化け物に思えるのではないか。
なにより啓斗さんが日の元で生きることを宮城さんが許したなら、それが全てだと思う。
特殊な出自に対する不安はわからなくもないけど、わたしの顔色を見てそこまで怯えるほどのものなのか。
そんな疑問を抱いたわたしは、自分の生きる国——日の元における啓斗さんの立場を、深く考えられていなかった。
「……日の元には、外つ国の人間を保護する法律はないから……。この国で、俺に何をしても、誰も罪には問われない。日の元の法は、日の元の民を守るために存在している」
「そんな……、啓斗さんは赤兎班の一員として、日の元のために働いているんですよ?」
「それは宮城さんのおかげ。実際俺には戸籍もないし、皇も鳳の上層部も、俺を正式な班員として認めてない。赤兎班でこうして暮らせているのは、全部宮城さんが後ろ盾になってくれているからで……」
弱々しい声に紛れて、医務室の扉が微かに開いた。
啓斗さんは気付いていない。
わたしもそちらはあえて見逃し、話に相槌を打った。
「この国で俺の生きれる場所は、赤兎班にしかないけど。ここのみんなは俺のこと家族みたいに接してくれて……、自分が異質なことを忘れるぐらい居心地がいいんだ。任務が命懸けとか、生活が不自由だとか……、そんなのどうでもいい」
人によっては不当な扱いだと嘆く現状を、啓斗さんは受け入れている。
無欲なわけじゃない。諦めとも違う。彼にとって、宮城さんのいる赤兎班は、命を捧げるに値する場所となっているのだ。
「……俺、ここが好きだよ。日の元に来れて、宮城さんに会えてよかった。……だから、俺も宮城さんたちのために頑張ろうって思うのに、いつも上手くいかなくて、迷惑ばっかりかけて……」
啓斗さんは布団の中で膝を曲げて身を小さくした。
相槌をやめて次の言葉を待つ。「そんなことはない」なんて、気休めにもならない安易な慰めは言えなかった。
「……花歩さんさ、力を使って人を治すと、その後いつも眠ってしまうんだけど……。回数を重ねるごとに、起きるまでの時間が長くなってる。最初のころは、何日も眠り続けるなんてことなかったのに……」
啓斗さんの表情が歪む。唇が震え、目から流れた涙を乱暴に拭い、その手で彼は自らの頭を抱えた。
「……だからっ、病院でいいって言ったのにっ。失敗したの、俺なんだから……っ」
布団の中に顔を埋め、啓斗さんは悲痛に叫んだ。
「俺のせいで、花歩さんがもう目を覚まさないなんてやだよっ」
自責の念に苛まれた彼の号哭は、わたしの胸中にも深く突き刺さった。
自分のせいで——。
誰かを犠牲にしてまで、自分に生きる価値があるのかと。何度も問いかけ、その度に無力さを思い知る。
心が押し潰されそうなのに、それでも助けてくれた人たちを思うと、このまま潰れるわけにはいかない。
そうしているうちに悩みが肥大して、この先どうやって生きればいいのか、目的を見失ってしまう。
迷子の心で霧の中を彷徨う、途方もない気分が痛いほどに伝わってくる。
「……誰も、啓斗さんを助けたことを後悔していないはずです。わたしも生きていてくださることが嬉しいんです」
日の元に辿り着いた啓斗さんを引き取った、宮城さん。
明将さんは負傷した啓斗さんを病院ではなく、確実に助かる赤兎本部へ運ぶことを選択した。
花歩さんだって、自分の記憶と引き換えにしても啓斗さんを救う道を選んだのだ。
「病み上がりですし、今は何も考えずに眠って、ゆっくり休みませんか? 生きていれば、いつか受けた恩をお返しできる日が来るはずです」
「……本当に?」
「確証はありませんが……、わたしはそうだと信じて、自分にできることを探してみようと思ってます」
懐疑的な視線を向けられ、ちょっとした悪戯心が湧き上がる。
「助けられたことが不服というなら、いっそのこと明将さんに正直にぶつけてみてはいかがですか? 新参者の予想でしかありませんが、あの人は啓斗けいとさんの気持ちをちゃんと受け止めてくださるかと」
我ながら無責任な提案だ。
啓斗さんは不服を隠そうともせず、口をへの字に曲げた。
「……やだよ。絶対怒るし……、ボコボコに言い返されるの、わかりきってるもん……」
いじけた口調がおかしくて笑みがこぼれる。彼らの信頼関係は側で見ていてとても心地良かった。
「いいよ。もう寝る。休めばいいんでしょ」
啓斗さんは恥ずかしそうに早口で告げると布団を頭まで上げて隠れてしまった。
わたしが笑ったのがばれてしまったようだ。
気まずさや、ぎすぎすした空気はない。ついでにさっきまであった悲壮感も消えていたので、結果的にはよかったのかもしれない。
「はい。おやすみなさい」
「……や、あの……」
立ち去ろうとしたらためらいがちに布団から頭が出てきた。
恥ずかしそうに見上げてくる啓斗さんに足を止める。
「暗いの、……あんまり好きじゃないから……。もう少し明るくなるか、……寝るまで一緒にいてくれない……?」
「……わたしでよろしければ」
部屋の外に意識を向けるが、廊下の気配に動く様子はなかった。
わたしはここにいても問題ないと受け止め、啓斗さんのいる寝台へと歩を進める。
「……なんか、ごめん」
「とんでもないです」
しっかり者の啓斗さんの、年下らしい一面が見れたのが嬉しかった。




