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6.暗雲(下)




怖い。でも、やるしかない。

危険を承知で立ち上がり、車の陰から顔を出す。

刹那、目に入った光景に、なけなしの勇気はいとも簡単に消し飛んだ。


一方通行の道を逆走して一台の車が送迎車の待機場所へと侵入してきた。車は女子生徒の父親が乗っていた車の行く手を阻むようにして止まった。

それはわたしにとって、馴染みの深い乗用車だ。


運転席に座る明将さんがわたしに気づいて責めるように睨む。なぜ逃げてないのかと言いたげな視線だった。

彼の憤りに安心感が込み上げ、泣きそうになるのをぐっと堪えた。


後部座席の扉が開き、啓斗さんが飛び出すように車を降りた。彼は勢いをそのままに留美香たちの元へ一直線に走った。



「近づけるな」



男の指示を受けて部下たちは啓斗さんに立ち塞がる

彼らは樋渡さんや警備員よりも、新たに現れた邪魔者を脅威とみなしたらしい。その直感は当たっていた。


たとえ敵が刃物を所持していても啓斗さんは怯まない。

一対複数という不利な状況をものともせず、無駄のない動きで敵の武器を払い落とし容赦なく急所を攻撃する。

実戦における経験値の差は明白だった。


車道に車を放置して明将さんがこちらに走ってきた。



「なんでお前は避難してないんだ」


「ごめんなさい。でも……、気をつけてください! 蟲の気配は、あの人からしています」



大きく叫んだ声は啓斗さんにも届いた。彼は咄嗟に男たちから距離を取った。

明将さんは乱闘の現場を眺めて顔を顰める。



「……擬態しているのか?」


「いいえ、彼は人です。気配からしても、それは間違いないはず。ですが……」



あの男の内側を探れば探るほど、入り混じった感覚に混乱をきたす。



「人なのに、蟲の感じも紛れていて……、よくわかりません」


「……そういうことか」



眉間に皺を寄せ、明将さんが唸るように呟く。



「事情はわかった。配下の連中にも、あいつと同じ異常はあるか?」


「……いいえ。隠そうとはしていますが、彼らも主人の命令に戸惑っています」


「なるほど。頭をどうにかできればいいと」



明将さんの手がわたしに伸びる。額を軽く小突かれた。



「これ以上は探ろうとするな。また熱出して倒れるぞ」


「……はい」



言われて自分の頭がずきずきと痛み出していることを自覚した。



「安全な場所まで下がってろ」


「……放して、いやっ……。放しなさいよ!」



留美香の声がして目を向ける。

全身を捻ってもがいた留美香はついに男の拘束を解いた。しかしふらついた足では自由がきかず、地面に転倒してしまう。


すぐさま樋渡さんが留美香の元へと駆けつける。尻餅をついた留美香を起こそうとするが、腰が抜けたのか立ち上がれそうになかった。

遠目でわかるほどに、留美香の膝は震えていた。


男が感情のない瞳で留美香と樋渡さんを見下ろす。



「くそっ」



悪態をつきながらも明将さんが走った。

啓斗さんが男と樋渡さんたちの間に立つが、男は全く啓斗さんを意に介さない。冷たい表情のまま留美香へと手を差し出した。



「行くぞ」



従って当然とばかりの口調が、辺りの空気と摩擦を生む。主人の様子のおかしさに、部下たちは不安そうに互いの目を見合わせた。



「……いやよ……、どうしてあんたなんかと……」



留美香の精一杯の虚勢に男の空気が変わった。



「そうか」



鷹揚に頷き、懐へと手を伸ばす。

男が黒光りする拳銃を取り出したのが見えて、その場に緊張が走った。



「ならば死ね」



言うが早いか、男は銃口を自身の肩に向けた。



「……何だ?」



自らの行動に首を捻り、拳銃を手にする本人が驚きに目を見開く。

そして彼の右手は持ち主の意思を無視して、抗う間も無くその引き金を引いた。



——パンッ!



乾いた破裂音。遅れてこだまする叫び声。痛みにもがきながら、男は地面に倒れた。


一体何が起こっているのか。敵も仲間も関係なく、皆が事態に追いつけず、奇行に走った男を注視する。



「お父様、いや——っ!」



わたしのそばで歩道に膝をついた女子生徒が悲鳴をあげた。



「————!!」



女子生徒の甲高い声を男の絶叫がかき消す。

痛みにのたうつ男から感じる、蟲の気配が強まっていく。

立ち込める腐臭に吐き気が込み上げた。



「——あっ、がぁっ!」



男は苦痛に身を捩るがそれも長くは続かず、やがて全身が痙攣し始めた。

血で赤く染まった肩口が次第に大きく膨れ上がり、シャツの繊維が破ける。

そして銃口の傷を広げ、男の体内から透明の蟲が姿を現した。


蟲の体は血を弾き、表面が虹色に怪しく蠢く。巨大な蜂の形をしたその化け物が、空に羽ばたこうと羽を広げた。



「啓斗!」



明将さんの声に啓斗さんがはっとして刃を抜いた。


しかし短刀で切り裂くよりも早く、蜂は上空へと飛び上がった。

すぐに体勢を整えた啓斗さんは投擲武器に切り替える。千枚通しに似た切っ先の尖った武器を、空中で停止している蜂に目掛けて投げつけた。

武器は蜂の羽根を掠め、失墜したところに短刀で止めを刺す。


蜂は一匹ではなかった。

啓斗さんが上空の蜂を相手にしている間に、男の傷口より二匹目の蜂が顔を出した。


蜂は完全に外へ出る前に、明将さんに始末される。そしして、三匹目も。


しかしいくら倒しても蟲の気配は消えてくれない。

そうして肩口の傷に気を取られていると、失神した男の太腿部分の衣服に血が滲んだ。



「——っ、まだっ」



着衣の繊維を内側から噛みちぎり、ひっそりと太腿より這い出た蜂が空を翔ぶ。

そしてその蜂は一直線に留美香を目指した。


突如として時間の流れる感覚が遅くなる。

咄嗟に留美香の前へと滑り込んだ啓斗さんに、巨大な蜂が襲った。

蜂は飛行中に胴から腹にかけてをくの字に折り曲げ、鋭く尖った針を前方へと持っていく。


蜂の針が、啓斗さんの脇腹を刺した。

啓斗さんは足を踏み締め、歯を食いしばる。手にした短刀で蜂の頭に横から突き刺すが、なおも蟲は動きを止めない。


一度針を抜き、再度啓斗さんの腹部へと突き立てる。


男の傷口より這い出ようとした四匹目の蜂を始末し、明将さんはすぐに啓斗さんにまとわりつく蜂の胸部と腹部の境目を切り裂いた。

青い炎をあげて蜂が燃える。最後はちりも残らなかった。


ふらつき倒れかかった啓斗さんを明将さんが支える。

刺された腹部のシャツが赤く染まっていく。咳き込んだ啓斗さんの口から血が溢れた。



「他は!?」



明将さんの大声に時間の感覚が戻る。



「——っ、ありません! 蟲は、もういません!」


「車の荷台に救急箱がある。晒さらしと毛布を頼む!」


「はいっ」


赤兎班の車へと走り、言われた物を持って啓斗さんの元へと急ぐ。途中、黒い乗用車が送迎用の待機場所へ入ってきたのが見えた。

遠くから聞こえる緊急車両の警報音も徐々に近づいているようだ。



「これはお前が持っとけ」



明将さんは樋渡さんに拳銃を押し付けた。空いた手で啓斗さんの傷を服の上から晒で巻いて縛る。

蟲を宿し倒れた男は息はまだあるが、命は今にも途絶えそうだった。主人に起こった惨事に部下の男たちは戦意を完全に喪失し、所在なさげに佇むばかりだ。



「……アキさんっ」



啓斗さんが痛みに呻きながらも明将さんに縋る。



「病院で、……いいよ」


「黙ってろ。すぐに助けてやる」


「……本部は……、やめて……」



処置を施す明将さんの手が一瞬止まった。



「こんな時に寝言抜かすんじゃねえ」


「……でも……」



今にも泣き出しそうな啓斗さんを、明将さんは無視して毛布でくるんだ。

黒い乗用車から降り立った、四人の作業着姿の人たちがこちらに駆けつけてくる。



「連絡をくれた赤兎班だな」



明将さんは彼らの作業着に刺繍された鳳の紋章を見上げて深く頷く。



「灰墨班だな。蟲の駆除は完了したが、一名刺された。こいつはうちでなんとかするから、悪いが後の処理を頼む」


「承知した。ちなみに種別は何だったんだ?」



明将さんが道に倒れる男へと視線を移すと、作業着姿の彼らもそれに倣った。



「寄生蜂だ」


「……了解。縁者も調べる必要があるな。そちらも我々で引き継ごう」


「助かる」



状況を把握した彼らの苦々しげな表情が、その蟲の厄介さを物語っていた。




灰墨班のひとりに手伝ってもらい、明将さんは啓斗さんを車へと運んで後部座席に寝かせた。座席の足元にわたしが入り、運転中の啓斗さんの体を支えることになった。

発進した車の中で、明将さんはハンドルを握りながら携帯電話の拡声機能を使って電話をかけた。



「どうだった?」



声を聞くに、電話の相手は穂高さんだ。



「東郷です。啓斗が蟲に刺されました。腹部を二ヶ所、……おそらく毒持ちです。今、急ぎ車で本部に向かっていると花歩に伝えてください」



早口で言い切った明将さんとは反対に、穂高さんの返しには間があった。



「彼女は否とは言わないだろうけど、アキはそれでいいんだね?」


「……これが最後です。もう無理はさせません」



苦悩に満ちた声音に、啓斗さんの呻き声が重なる。



「そう、わかった。花歩ちゃんには言っておくよ」


「現場は灰墨班に引き継ぎました」


「了解。そっちはうちからも班員を送る」



明将さんたちの話し声を背中に感じながら、啓斗さんの額に浮かんだ汗を拭った。

座席に横たわる彼の腹部にぞわぞわとした違和感を感じ毛布をめくると、晒に血が滲んでいた。でも、違和感の正体は傷口じゃない。


感覚を研ぎ澄ませ、嫌な気配の大元を探った。

腐臭を錯覚する気配は蟲の特徴と一致する。

腹部の刺し傷も重症だけど、啓斗さんを蝕むものが他にもある。


傷を負った場所からじわじわと、精神や啓斗さんが持つ力を食い尽くし、全身を巡ろうとしている、粘着質の何か。

目では見えない。感覚で捉えたそれが良くないものなのは本能的に理解できた。


すぐにでも止めないと。


焦るより先に体が動き、晒越しに啓斗さんの傷口に手をかざした。

気脈に乗って啓斗さんの肉体を侵食するどろどろを、自分の手で絡み取るところを想像する。


誰かに教わったわけではないけど、わたしはその方法を知っていた。

こうすれば嫌な気配を留められるという、漠然とした感覚だった。


わたしには浄化や治癒の力はない。その代わり気配に対しては人より敏感だ。

どろどろした悪いものの核は、まるで意思があるかのように啓斗さんの頭を目指したがっている。それを食い止め、侵食を阻止する。


次第に目の奥が痛みだす。

視界がぼやけて今どの辺りを走っているのか把握できない。明将さんの声がはるか遠くに聞こえた。


ふと、そんなわたしの手を啓斗さんが掴んだ。



「……あの、さ」



弱々しい声。冷たい人肌の感触に、意識が現実へと戻される。



「……宮城……さんに……さ。おれ……幸せだった、……って、……伝えて」



荒い息遣いの間に紡がれた言葉。

目頭がかっと熱くなり、頭に急激に血が昇る。



「それはちゃんと自分の口で、直接あの人に言ってください!」



啓斗さんの手を握り返す。



「絶対に助かります! だから終わりみたいな言い方しないでっ」



握った手はそのままに、毒の進行を止める作業を再開する。

死なせてたまるかと。半ばやけになっていた。






赤兎本部に到着した車は玄関前に横付けされた。



「花歩は!?」


「医務室だ。早く——……」



啓斗さんは駐車場で待機していた班員にすぐさま担架に乗せられ、建物内へと運ばれていった。

道中で彼の意識は朦朧としていき、呼吸もか細くなっていた。


不安で不安でたまらない。花歩さんの力で啓斗さんが助かることを、ひたすらに祈るしかなかった。


座席の足元から這い出るように車を降りる。

全力疾走した直後みたいに息が切れて、こめかみの奥がずきずきと痛んだ。


うまく思考が組み立てられない頭で、啓斗さんの血がついた両手を眺める。



どうしてこうなった?


わたしが蟲の出現を知らせたから……?


留美香を狙ったあの男は生きているのだろうか。


現場はあの後どうなったの? 学校は——?



ぐるぐる、ぐるぐる。疑問が浮かんでは消えていく。

啓斗さんが蜂に刺された瞬間が、何度も脳裏で繰り返された。



「……、そっか……」



どうして、こんな単純なことに気づけなかったのだろう。

誰かに守られたら、自分の代わりに誰かが危険にさらされてしまうんだ。

守ってもらえるから安心だ、なんて。傲慢も甚だしい。



ぐるぐる、ぐるぐる。


連れ去られそうになる留美香。


必死に防ぐ、樋渡さん。


人の体内に潜む蟲の気配は探知できても、わたしは危険性までは探れなかった。




わたしは。


ただただ無力だ。









     ◇  ◇  ◇






奥園邸の私室にて。

肘掛けのついた革張りの椅子に座り、頬杖を付く奥園礼司は共犯者よりもたらされた報告に眉を寄せた。



「面倒なことをしてくれましたね」


——植えつけていた卵が孵化して勝手に育っただけじゃん。ただの事故だよ。俺のせいじゃない。



外つ国の神は飄々とうそぶく。

神に責任を問うても仕方がない。彼らにとってこの程度の出来事は不測の事態にもならないのだから。

眉間の皺を揉みながら、奥園礼司はわざとらしくため息を漏らした。



「他に、因子を孕んだ者はどれだけいるのですか?」


——さあ? 君を訪ねてきたお客さんでは時々遊んだけど、誰に何をしたかなんて覚えてないよ。


「……左様ですか」



少々頭の痛いことになった。

奥園と懇意にしていた家の者を蟲が食い荒らしたとなれば、彼らはまたこちらへの疑念を深めてくるだろう。


蟲と自分を繋げる証拠はない。

追及を知らぬ存ぜぬのらりくらりとはぐらかす自信はあるが、赤兎班をはじめ、鳳が騒ぐ口実を与えてしまった。


監視はさらに強化され、この先ますます動きづらくなる。



本当に、面倒なことこのうえない。







       ◇  ◇  ◇






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