4.暗雲(上)
あまたの犠牲を払ってでも、叶えたい願いがある。
◇ ◇ ◇
信用の失墜。
日の元を脅かそうとする敵にまんまと利用された間抜けめと、ある者は彼を嘲笑する。
また別の者からは、お前は日の元を窮地に陥れたのだと激しく糾弾された。
責任を問われた末に奥園当主としての多くの権利を剥奪され、本邸での軟禁生活を強いられる。
なけなしの温情で留まった当主の立場も、約一年半後には筆頭分家の跡取りだった樋渡佐に引き渡すことが決定した。
見るものが見れば不名誉極まりない待遇だ。
しかし決定を粛々と受け入れた奥園礼司にとって、それらは取るに足らない些細な結果に過ぎなかった。
あえて反省点を挙げるなら、義理の娘はもう少し使いようがあったな——、というくらいか。
現在、奥園礼司は身柄の拘束前まで居住していた皇都中心部の別邸ではなく、郊外に古くから建つ奥園家の本邸にいる。
しかも鳳と分家から見張りが立てられ、外出もままならず、外と連絡を取ることも簡単には許されない。
これまでの多忙な日々とは打って変わった何もできない日常を、奥園礼司は密かに楽しんでいた。
彼はこうして穏やかに過ごせる日があと僅かしかないと十分に理解しているのだ。
——ご機嫌だね。こっちは散々だってのに。
使用人から知らせを受け、私室を出ようとした奥園礼司の脳内に直接声が響く。
次いで今しがた部屋を辞した使用人の男が断りもなく再び立ち入ってきた。先程とは別人のように目はうつろで焦点が定まっていない。
「わたしのせいではないでしょう。明らかにあなたの慢心が招いた結果です」
——君がもっとあの子と親睦を深めていたら、俺も楽ができたのになあ。
「そんなもの、結果論でしかありませんよ。愛里さんにすら、彼女は自分の秘密を打ち明けていなかったようですし」
使用人の半開きになった口は声を一切発していない。
それでも彼らの間では自然な会話が成り立っていた。
——朔ちゃんねえ……。もったいないけど、邪魔するなら消した方が後が楽かな。器としても惜しい子ではあるんだけど、もらったら深淵が黙ってないだろうしなあ。
「安定期に入れば、神々の領域からは威嚇程度しか地上に手出しできないのでは?」
——だよね。狙うならそこかな……。
「……うぅ……ぁ」
音なき声と重なるように使用人が苦痛のこもった呻きを発する。虚空を見つめる瞳は次第に充血し、肌の色が土気色になっていく。
限界が近い事を察した奥園礼司は眉を寄せた。
「まだ壊さないでくださいね。外に発覚すればあなたもわたしも共倒れです」
——はいはい。……でも、もうちょっといい隠れ蓑はないものかなあ。こんなガラクタだと回復もままならないよ。
彼が赤兎班の班長、宮城に削がれた力は膨大だ。僅かに残った神力をかき集め、ようやく生を保てている状態といっていい。
ふざけた態度を崩さない外つ国の神が、実は虫の息で今にも命が消えかかっていることを協力者である奥園礼司は知っていた。
自分と交わした契約が果たされていない段階で、この神に消えられては困る。
「器探しでしたら、わたしもお手伝いできるかもしれません。ちょうど今、きっかけを作ってくれそうな人たちが訪ねてきてますので」
——あれ? 来客って確か奥さん目的じゃなかった?
「妻は娘に会いに行ってしまいましたから。そういう時は夫が対応にあたるべきでしょう」
——なるほど。
扉を開けた奥園礼司は客間へと移動する。
使える駒は多ければ多いほどいい。頑固で融通の利かない、独特の価値観を持った者でも、あしらい方次第でどうとでもなる。
「お待たせしてすみません。愛里の夫の、奥園礼司と申します」
客間に踏み入れると同時、値踏みをする視線が集まった。
敵か味方かを見極めようとする客人たちに奥園礼司が朗らかな笑みを向ける。
「あいにく妻は出かけておりまして、お話はわたしがお伺いしましょう」
華闇の影響が及ばない、日の元の僻地より参じた者たちだ。
世間を知らない隔絶された地に住む彼らを上手く使えば、面白い事態を引き起こせるだろう。
◇ ◇ ◇
日の元は年に二度、春と秋に安定期が訪れる。その時期は島国周辺の荒れ狂う天候が穏やかになり、外つ国との交易が可能となる。
安定期は十日ほどで終わる。そして半年後まで再び日の元は外界から閉ざされるのだ。
それは気候の変化によって自然に起こる現象、というわけではない。
安定期とはすなわち、日の元を守護する神々の結界が一時的に弱まる時を示す。
宮城さんが言うに、期間中は天上と深淵、両方の神域と地上の境界が薄くなるのだという。そんな時に神界が地上へ過度な干渉をしては、三界の均衡を破壊しかねない。
そういった理由から安定期の期間中は、神の守護がなくなる。そのため華闇や、赤兎班をはじめとした鳳の特殊班が連携を強化して国の護る必要があった。
日中の風に冷たさを感じ始めたら、秋の安定期はもうすぐだ。
赤兎班の人たちはみんな準備に忙しそうにしていて、それは明将さんと雪根さんも例外ではなかった。
安定期が近づくにつれて学校への送迎は明将さんと雪根さんに定まらず、時間の空いた人がしてくれるようになっていった。
「憂鬱ね。ずっと楽しみにしていたのに、外つ国の品が届かないなんて」
「わたしもよ。お父様にお願いしてようやく注文が叶ったというのに」
「それもこれも……、ねえ」
ここ数日、校内を歩いているとそんな会話を耳にする機会が増えた。わざと声を大きくして、わたしに聞かせようとしているのだろう。
彼女たちの不満の原因は、奥園家の不祥事を受け、皇家が今期の外つ国との交易を見合わせる決定を下したことにある。
交易の中断には政治機関、皇の者から反対意見が出たようだが、最終的に鳳と華闇が皇家に賛同の意を示したことによって決定は覆らなかった。
外つ国より入る品は、近年宝飾品といった旧家向けの商品が数を増やしていた。穂高さん曰く、これは奥園礼司が当主になってからの傾向らしい。
貴重で美しい宝飾品を身につけることで、自身の力を誇示する者は少なからず存在する。
外つ国の宝飾品が届かないという知らせは、権力嗜好の強い一部の旧家に大きな衝撃を与えていた。
旧家の子息令嬢が集う皇立院にも、外つ国の品が届かないことに不満を抱える生徒はいるようだ。
しかしわたしに直接話しかけようとせず、遠巻きに愚痴を伝えてくるばかりだから放置している。彼ら彼女らにとって、これは憤りのぶつけ先に困った末の些細な憂さ晴らしなのだろう。
生徒の態度は留美香に対しても、腫れ物のような扱いになっているが、彼女は鬱憤を晴らす対象にはなっていない。
奥園礼司の娘という、学校内において最も非難を受けかねない立場にいるが、留美香は同時に次期奥園当主の妻となることが決定している。
一時の感情に任せて留美香に敵意を向けては、後々の利益を損なう。家の者に言われたのか生徒自身の判断なのかは定かでない。しかし留美香に表立って害をなす生徒がいないのは事実だった。
それよりも、旧家の生徒たちは奥園の次期当主である樋渡さんにおもねるのに忙しいようだ。
なかには自らこそが将来の伴侶に相応しいと言い出す女子まで現れる始末だとか。
あまり深く関わるまいと心がけていても、この手の話題は無関係とは言い切れずつい気にしてしまう。
……だからだろうか。
移動教室の際に廊下で留美香とすれ違った時、彼女に手を引かれても拒めなかったのは——。
「こっちよ。付いてきなさい」
留美香はわたしの手首を強く掴み、人気のない場所へと連れて行く。もうすぐ授業が始まるのだけれど、彼女に時間を気にする様子はない。
「樋渡さんはどうしたの」
「さあ? 女子にちやほやされて、鼻の下でも伸ばしてるんじゃないかしら」
階段を下り、上履きのまま外へ出て非常階段の陰へ。周囲から死角となったその場所で、留美香はわたしの手を離した。
「いい気味だと思ってるんでしょう。惨めなわたしを遠目に見て、さぞ気分よく過ごせているのでしょうね」
向き合った留美香は腕を組み、ふんと鼻を鳴らす。
「そんなこと、ないわ」
「まあいいわ。わたしはあんたの愉悦なんてどうだっていいもの。そんなことより、提案があるの」
自分で言い出したにも関わらず、あっさりと話題を変えてきた。
「あんたの現状、赤兎班の預かりだけど、わたしが代わってあげても構わなくてよ」
予想していなかった申し出に、思考が混乱する。何がどうなってそんな提案が成されるのか、留美香の考えに付いていけない。
「……どうして?」
「どうしてって、そんなこともわからないの? 奥園当主の娘であるわたしは今、監視下の生活を余儀なくされているの。現在の監視役は奥園分家が担っているけど、その役割を赤兎班が引き受けてもなんの問題もないはずよ」
春にわたしが赤兎班の預かりになったことを例に挙げ、留美香はさらに言い募る。
犯罪者というわけでもないのだから、置かれる境遇に意見する権利が自分にはあるのだと。
「……わたしの一存では決められない」
そう言うのが精一杯だった。留美香の要求に対して湧き上がったもやもやを、言葉にする余裕もない。
首を縦に振らないわたしに留美香が眉を寄せる。
「嘘つかないで。あんたはわたしと違って、家に帰りたいと望めばいつでも帰宅できるのでしょう? あんたが出ていきさえすれば、わたしの身の置き場の選択肢が、分家か赤兎班かの二つに増えるの」
「どうしてそこまで赤兎班にこだわるの? 分家の生活は不自由かもしれないけれど、赤兎班に移ったところで大して変わらないはずよ」
むしろ生活水準は、比べるまでもなく赤兎班の方が庶民寄りだ。
生活面の多くを花歩さんが助けてくれているとはいえ、大人数での共同生活を留美香が望む理由がわからない。
「多少の不自由なら目を瞑るわ」
だからいいでしょと言わんばかりに、留美香がわたしに了承を迫る。返答に困っていると大きなため息をつかれた。
「……有名な話よ。五年前に東郷家の三男が当主に逆らった挙句、制裁を恐れて鳳の赤兎班に逃げ込んだってのは」
東郷、という名前にはっとする。
それは確か、明将さんの家名だったはず……。
「旧家の役目を全うできない腰抜けでも、班長の許しさえあればあそこに所属できるのよ」
考える前に口が動いた。
「……明将さんは腰抜けなんかじゃない」
「そんなのどうでもいいわ。わたしが言いたいのはそこじゃないの」
憤りは軽く流される。
苛立つわたしとはまた別に、留美香も真剣だった。
「鳳、赤兎班の班長は、使い方次第では皇家に匹敵する権力を持っているわ。そんな彼に上手くおもねり気に入られたら、旧家ですらろくに手出しができない、最強の後ろ盾が手に入るのよ」
不敵な笑みを浮かべ、彼女はさらに続けた。
「東郷家の三男はね、かつて赤兎班に所属したことで処罰を回避することに成功したわ。そうやってあそこが利用された前例があるの。わたしが同じことをしようとして何が悪いのかしら?」
「だったら自分で宮城さんに売り込めばいいでしょう」
「どこまで頭が回らないの。ほんと馬鹿ね。わたしには赤兎班の班長と長く話せる機会がそもそもないから、あんたに譲れって言ってるのよ」
従って当然と言わんばかりの口ぶりだ。
仕方がないか。わたしはこれまでずっと、留美香の命令に逆らうことがなかった。
「……いや」
「どうしてよ」
首を振って拒絶を示せば、唸るように返された。
「あそこはそんな、甘い場所じゃない」
「甘いかどうか、それを決めるのはわたしよ。行ってみないとわからないじゃない」
あの場所を譲りたくない。時間をかけてやっと得られた信頼を取られたくない。そう思うのは、わがままだろうか。
母だってわたしの帰還を望んでいる。
それにも関わらず赤兎班に居続けて……、彼の側にいたいと望む。
下心があっての拒否である。
後ろめたさが言葉を潰し、正当な理由が思いつかない。
「留美香」
低い声が耳に入る。
はっとして振り向くと、息を切らせた樋渡さんの姿があった。
留美香が嫌そうに舌打ちする。
「時間切れね。今の話、ちゃんと伝えておいてちょうだい」
わたしの横を通り過ぎて校舎へ戻ろうとした留美香の手を樋渡さんが掴んだ。
「何を話していた」
「うるさいわね。佐には関係ないことよ」
留美香は掴まれた手を振りほどき、さっさと行ってしまった。
わたしを一瞥した樋渡さんは軽く頭を下げ、後を追いかけた。
「校内であろうとひとりで出歩くな」
「わたしに指図しないで」
「今のお前は……、……危険……」
言い合いながら遠ざかっていく二人を見送り、大きく息を吐いた。
情けない。
わたしが赤兎班に留まりたい理由は、正義感とか、使命感とかからきているわけじゃなくて。私欲に溢れた、個人的な理由でしかないのだ。
これじゃあ申し出を強く拒絶できるはずがない。
留美香の希望を宮城さんに伝えるかどうか。そこでもまた迷ってしまっている。
自己嫌悪に陥り再び深いため息をつく。
次の授業はとっくに始まっていた。
心のもやもやが晴れないまま、その日の授業を終えた。
留美香の望みを誰かに告げるべきなのか、赤兎本部に帰ってからもずっと迷っていた。
そもそも赤兎班の後ろ盾を得て、留美香はどうしたいのだろうか。もっと、ちゃんと詳しく聞いておくべきだった。
こんなの宮城さんに話すまでもないと思う反面、報告を怠り後々取り返しのつかない事態になったらどうしようという不安もある。
悩んだ末、夕食時に明将さんと雪根さんに相談しようとしたけれど、今日に限って彼らは仕事で不在だった。
安定期に向けて赤兎本部は日を追うごとに慌ただしくなっている。
機会をなかなか見つけられないでいるわたしの元に、就寝前になって穂高さんが訪ねてきた。
背広姿の彼の顔には疲れが滲んでいて、今しがた本部に戻ってきたのだろうとすぐにわかった。
「こっちの都合で悪いんだけど、明日、三十分早めに出られるかな? 俺と柊が朝一番に鳳本部へ向かうから、途中で朔ちゃんを学校に降ろそうと思うんだ」
「わかりました。こちらは大丈夫です」
「助かるよ」
穂高さんはほっとして腕時計を確認する。
その仕草に、わたしは開きかけた口を閉じた。
彼から感じるのは、疲労と焦燥、そして微かな苛立ちだ。多分だけど、穂高さんはまだ今日の仕事が終わっていない。
こちらの話で時間を消費するのは、申し訳ない気がしてしまう。
わたしの逡巡に穂高さんが目敏く気付く。
「どうしたの?」
鋭い口調に自然と背筋が伸びた。
「いえっ……」
なんでもないと誤魔化すには、後ろめたさが強すぎた。
かといって忙しい彼を引き留めるのは気が引ける。
「そんなに逼迫したことではないので、明日の登校中に話します」
なんとか彼らにかける迷惑が最小限になる答えを導き出したつもりだ。
恐る恐る穂高さんを見上げると、彼の空気が丸くなった。
「了解。おやすみ」
「おやすみなさい。……お疲れ様です」
立ち去る穂高さんを見送り部屋へ戻る。
照明の消えた暗闇の中では、自分の心臓がどくどくと動いているのがよく目立った。
迷って、考えて……。たったひとつの発言をするだけでこんなに緊張するなんてどうかしている。
でも、多分だけど、今回のわたしは間違えていない。
奇妙な達成感から興奮してしまい、夜はしばらく眠れそうになかった。
翌朝。
「うちは託児所でも、ましてや避難所でもないよ」
学校へと向かう車中で一連の出来事を報告したら、穂高さんに一蹴された。
安堵の気持ちは表に出さず、神妙な面持ちで頷く。
「君と奥園留美香の立場は全く別物だからね。朔ちゃんなら通る話が、彼女も同様に通用するなんてことはありえないよ。そして君には赤兎班の方針に口出しする権限は与えられていない」
「ですよね」
はっきりと言い切られて安心した。
悩むまでもなかった。穂高さんの言う通り、どんなに留美香が懇願してきても、わたしは赤兎班へ意見できる立場じゃない。
「利益のない者を庇護下に置けるほど、宮城さんも暇ではないからね」
なんて事のないような呟きが心に深く刺さった。
……どうすれば、わたしはもっと役に立てるのかな。
「次に彼女が同じことを要求してきたなら、赤兎班への言伝は朔ちゃんではなく樋渡を通すように言えばいい」
「わかりました。そうします」
せめてこれ以上彼らに迷惑をかける行動は避けよう。
こんな些細なことで、忙しい人たちの手を煩わせてはいけない。
穂高さんは腕を組み、座席の背もたれに身を預け遠いめをする。
「まあ彼女も身の危険を感じているのかもしれないけれど……、それはうちの管轄じゃないからね」
先程の厳しい口調とは打って変わって、声音に同情が滲む。
言葉の意図を汲み取ろうとして穂高さんの顔をまじまじと見つめてしまい、彼に苦笑された。
「立場の揺らいだ旧家の……しかも直系の子息令嬢というのは何かと狙われやすいんだよ。行方不明にでもして秘密裏に身柄を確保できればいくらでも使い道がある。手に入れたい輩は結構多いよ。なにせ貴重な血筋だからね」
「……人間の?」
「そういうこと。奥園の嫌疑は晴れていないし、一連の騒動は収束したとは言い難い。混乱を利用して拐かすとしたら、今が絶好の機会だろう」
旧家の連中の、人間の血への固執を甘く見てはいけないと彼は皮肉げに嘲笑する。とてもとても、対象を蔑む笑い方だった。
「同情はするけど、だからといって俺たちにできることはないからね。奥園留美香の身柄については奥園の分家が請け負った。それが全てだよ」
割り切った発言に改めて気付かされる。
赤兎が守護しているのは皇や、ましてや旧家でもなく、日の元という国そのものなんだ。
そして彼らは……、国を護るためなら個人を簡単に切り捨てる。
わたしもいざという時、例外にはならないだろう。
それでいい。
……そうであってほしい。




