2.ほのかな恋心(上)
自覚したら最後。
半年前までなんとなくあった、夜に深淵に行けそうな予兆は、ここのところ全く感じられなくなっていた。
生活が大きく変化して精神的に余裕がなかったのも原因だろうけど、理由はそれだけじゃない。
別れの時が近づいているのは、もうずっと前からわかっていたことだ。
「……あっ」
気がつくと、真っ黒の世界にぽつんとひとり佇んでいた。久しぶりに、夢を介して深淵に来られた。
周囲を見渡すと、どこもかしこも黒で覆われた空間が果てしなく広がっている。
ここはわたしのよく知る闇の世界のはずだ。
それなのにいつもより一段と闇が濃くなったと感じてしまうのは、どうしてだろう……?
——……く、……さく……。
足元から影がぬっと立ち上がった。声からして、そこにいるのはミィなのだけど……。
すぐそばにいるはずのミィの気配が遠い。わたしの名前を呼ぶ声も、壁越しに聞こえるようにぼやけていた。
「ミィであってるよね? そこにいるのは」
——……う……ん。
「どうしてかな。なんだか今日はみんなの気配が薄く感じるの」
御社の闇泉で会った時よりも、みんなの意思がうまく伝わってこない。嫌な予感がしてミィの気配に集中する。
下にばかり気を取られていると、頭上から強い闇の気配が降ってきた。
——俺たちじゃない。薄まっているのは朔の気配だ。
ユウの声がわたしの内側に直接響く。同時にかかった圧力に、押しつぶされるかと思った。
強く、重い闇の塊。普段は人の形に見えていたはずのユウは輪郭がはっきりせず、全体像が掴めない。
「……もう、お別れなの?」
——近いうちにそうなるだろうな。
ユウの意思は鐘の音のように反響して、わたしへと届く。
いつかその日が来ると、ずっと前からわかっていた。
それでも、いざ別れが目前に迫ると寂しさが溢れて言葉が出てこない。
呆然としていると周囲の闇が波打つ。
ユウが笑っているんだ。
——あの啖呵はどうした? 少しは成長したかと思えば、また逆戻りか。
「……だって……」
——まったく、悩むのが好きな奴だなあ。
呆れ混じりに笑われるも、ユウの根底にあるのは深い慈しみだ。直接伝わる彼の心が愛おしい。
わたしの弱さばかりを見せてきたみんなの前で、今だけ強がっても意味がない。
「……寂しいよ」
すぐ近くにいる、ミィの気配が強くなった。
彼のことだから、きっと抱きしめてくれているのだろう。
——……ずっと……、……から……。
耳元でミィが囁いた。言葉としては断片的にしか聞こえなかったけど、意思はちゃんと伝わった。
「うん……」
わたしがみんなを認識できなくなっても、みんなの存在が消えるわけじゃない。
深淵という、闇に覆われたこの場所から、みんなはずっと地上を見守ってくれている。
——もっと地上の者たちの頼り方を覚えろ。特にアカウサギは利用しまくれ。
「いや、それはちょっと」
相変わらずユウは無茶を簡単に言ってくれる。
周囲の闇が渦を巻く。空気がぴんと張り詰めた。
——日の元や外つ国に関係なく、天上の奴らは総じてしぶとい。地上の夜程度の闇では消滅しないうえに、肉体の消失と死は直結しない。
それは、須藤雷也に成り代わっていた外つ国の神について言っているのか。
——全てが片付くまで、何がなんでもアカウサギにお前の身を守らせろ。
ユウの気配が重くのしかかる。真剣さに比例して、わたしの呼吸が苦しくなっていった。
意識が遠のく。わたしはもう目を覚ましてしまうの?
——……気をつけろ。近々、日の元の護りが弱まる……。
次第にユウの声が弱くなり、圧迫感は徐々に消えた。この身……というよりも精神は楽になったけど、みんなの気配が近くで感じられないのは、やはり寂しかった。
*
朝の光に嘆息して起き上がった。
改まった挨拶ができずに深淵を離れてしまった後悔が重くのしかかる。咄嗟でも、せめてお礼ぐらいは言えばよかった。
沈んだ気分で身支度を整える。朝ごはんまでに時間があったので、台所側を軽く掃除した。
塵取りに溜めた埃をごみ箱に流し入れ、ひと段落ついた頃合いで部屋の扉が叩かれる。
「朔ちゃん、おはよう」
「おはようございます」
扉を開けば花歩さんと雪根さん、そして明将さんが立っていた。
単純なものだ。今日も顔が見れた、たったそれだけで嬉しい気持ちが心を占領していく。
みんなを部屋に通し、四人で花歩さんが作ってくれた朝食を食べる。
「学校、やっぱり通わないとだめなの?」
食事中に雪根さんに尋ねられ、困りながらも首肯した。
「立場としてはまだ、わたしは奥園家の者という扱いなので」
皇立院で須藤雷也が消失してから、今日で一週間となる。あの後わたしは体調を崩し、復調したらすぐに鳳で軽く聴取を受けた。それが終われば母との面会の手続きを踏んだりといろいろ慌ただしく、学校のことに気を回している余裕はなかった。
しかし事態がひと段落ついた今、わたしが学校に通わなくていい理由はなくなってしまった。
義父が須藤雷也と協力関係にあったという証拠は未だ発見されず、ただ利用されていただけであるという見方が強まっている。
義父を罪人として裁けないなら、赤兎班と奥園の間で交わされた契約は有効となり、赤兎班はわたしを学校へ通わせなければならない。
ただし今回の件を経て、赤兎班におけるわたしの立ち位置は監視対象から保護対象へと名目が切り替わったらしい。
同時にそれは須藤雷也を倒したからといって、日の元の脅威がなくなったわけではないことを意味していた。
「非常事態ってことにして、ずっとここにいればいいのに」
「無理だろ。事態が収束していないという証明はどうやってもできねえからな。それにいつ来るかも予測できない脅威に、延々と怯えていても仕方がない。学校は行けるうちが華だから、学べる時に学んどけ」
「高校の勉強ぐらい俺が教えるよ」
「お前の仕事は教師じゃねえだろ。これからの時期忙しくなるってのに寝言抜かすな」
言い合う雪根さんと明将さんに、花歩さんがのほほんと笑う。
彼らの話題が自分のことだというのが気恥ずかしくて、つい俯き気味になってしまうが、嫌ではなかった。
他愛のない会話に幸せを実感する。一日の始まりが前ほど憂鬱でなくなったのは、ここにいる人たちのおかげだ。
食事を終えて、登校の用意をしたら部屋を出た。
階段を下っている時に、一階からきた班員とすれ違う。
「おはよう」
「あっ……。おはよう、ございます」
わたしのぎこちない挨拶を気にした様子もなく、彼は二階へと行ってしまった。
一瞬の出来事だった。緊張しすぎて頭がふわふわする。
たった一言。普通の朝の挨拶に胸が暖かくなった。
そこから一階の廊下を玄関へ進んでいる時——。
「朔」
途中で宮城さんと出くわして呼び止められた。
「登校にあたって、ひとまず校内で近付いてきたやつの名前は聞いておけ。赤兎班の目がない場所では誰とどんな話をしたのか、逐一俺に報告するようになっていると言ってやれば、大抵のやつは引き下がるだろう」
事前の助言があるということは、本当にそういう生徒が出現する可能性があるのだろう。
「わかりました。そうします」
「それでも諦めないのが出てきた場合は、本当に俺に報告しろ」
要件だけ伝えて、宮城さんは行ってこいと玄関を示した。
「ありがとうございます。行ってきます」
頭を下げ、明将さんと雪根さんの待つ玄関へと急いだ。
*
送迎の時はこれまで、人目を忍んで学校の裏側に車を停めていた。しかし赤兎班との関わりを隠す必要がなくなり、これからは他の生徒たちと同じく学校正面に設けられた乗降場所を利用できるようになった。
今日からわたしが登校することを生徒たちは事前に知らされていたらしい。
教室に入ったわたしは注目を浴びたが、視線を寄越す人たちに驚いた様子はなかった。それでも数人の生徒はわたしの姿に不安げな顔をして、緊張を走らせていた。
朝礼前や授業の間の休み時間に、わたしに直接話しかけてくる生徒はいなかった。
ぎすぎすした空気を除けば、身体的な害もなくすこぶる平和だ。
ちらちらと向けられる視線は仕方がないと割り切った。
四、五人ほど、こちらと接触を試みようとする気配が見え隠れしているが、各々の家の事情か、互いに牽制しあって話しかける機会をことごとく逸してくれているのがありがたい。
見かねてわたしから歩み寄る姿勢を見せたら最後。面倒なことになりそうなので気付かぬふりを貫いた。
旧家の勢力図や交友関係をわたしは何も知らない。奥園の件も解決していない今、家に関わる繋がりは慎重になる必要があった。
様子見の均衡が崩れたのは昼休みだった。
長い休憩時間を教室で過ごす気になれず、お弁当の入った鞄を片手に廊下へ出ようとしたところで女子生徒に呼び止められた。
「ねえ奥園さん……、朔さんの方がいいのかしら。朔さんってお昼いつも一人なの? よければわたしたちと一緒に食べない?」
「え……と」
お弁当を床に落とされた、一週間前の出来事が脳裏によぎり、鞄の持ち手を握る手に力が入る。
「ごめんなさい。その……」
「いいじゃない。わたし、朔さんとはずっとお話ししてみたいって思ってたの。朔さん、いろいろ大変だったのよね? わたしたちでよければ相談でも愚痴でも、何でも聞くわ」
断りを聞き流した彼女は、わたしの腕を掴んで女子の集団へと強引に誘う。
「あの、話すことは何も」
「寂しいこと言わないで。この機会に仲良くしましょうよ」
強い力に焦る。ここで断れば教室内でのわたしの立場が悪化するかもしれないとか、そんなこと考えていられなかった。
「やめて!」
女子生徒をなかば無理矢理振りほどく。掴まれた手が離れた瞬間、体勢を崩して後ろによろめいた。
たたらを踏んだわたしの背中を誰かが支えた。
「登校初日でこれか」
呆れを含んだ声が頭上に降り注いだ。わたしの後ろにいたのは樋渡さんだった。
彼の登場に教室中がにわかにざわめく。
「あ、りがとうございます」
お礼を言うと樋渡さんは微かに頷き、わたしを誘っていた女子に視線を向けた。
「な……、なによ」
「飯塚か。赤兎班の班長には報告しておく」
「はあ!?」
目を見開いて慌てる彼女を無視し、彼はわたしへと視線を戻した。
「話がある。着いて来てほしい」
「ですが……」
「内容は赤兎班に報告してくれて構わない。無論、俺はそのつもりだ」
淡々と、彼は静かに告げた。
声量こそ小さかったが、発した言葉は聞き耳を立てる者たちにしっかりと聞こえていたらしい。
わたしを昼食に誘った女子をはじめ、多くの生徒が気まずそうに目を泳がせていた。
彼が赤兎班の名前を出したのは生徒たちへの忠告だ。
わたしと話した内容が赤兎班に筒抜けになるなら、今みたいに安易に話しかけづらくなる。
思惑を持つ者たちを牽制するには、十分な発言だった。
これは、彼に助けられたと考えていいのだろう。
人のいない空き教室に入って扉を閉めるや否や、樋渡さんはわたしに頭を下げた。
「ありがとう。俺も父も、君のおかげで助かった」
感情の籠らない口調は相変わらずだけど、誠意はしっかりと伝わってきた。
「そんな……、頭を上げてください。正直、あなたを助けることを目的として赤兎班に協力したわけではなかったので、恩を感じる必要はありません」
須藤雷也によって彼は蟲の毒に蝕まれていた。
赤兎班の作戦が遂行されればどうにかできると期待はあったが、わたしは積極的に彼を助けたわけじゃない。いわば成り行きで互いにとって良い方向に事が進んだだけである。
「それでも、助けられたのは事実だ」
生真面目に彼は言い切った。
頭を上げた樋渡さんと向かい合う。何を、どこまで喋って良いのかわからず迷っていると、彼のほうから話し出した。
「俺の家——樋渡は鳳に、君の保護を名乗り出たのだが……、それを君自身が拒否したと赤兎班より聞いている。これは本当に、君の意思なのか?」
「……はい。間違いありません。分家の方々にとってわたしは奥園当主の後妻の連れ子でしかありませんし……、保護していただくような身ではないかと」
そもそもわたしは奥園の分家がどのような仕組みになっているのかも詳しく知らない。母の再婚以来、一切関わってこなかった人たちだ。
後妻の連れ子として嫌厭されていたのがどういう風の吹き回しか。深く考えなくても想像がついた。
さらに奥園の分家には現在、留美香が預けられているのだ。保護を求めることは、さすがに無理がある。
「君なら分家も歓迎するが……、これまでの待遇を顧みれば、警戒されるのも仕方がないことだろう。赤兎班の預かりで不便がないならこちらは引こう」
「赤兎班の方たちには、とても良くしていただいてます。なので、わたしは大丈夫です」
そうかと、樋渡さんは頷いた。
常に喜怒哀楽をあまり顔に出そうとしない彼の表情が微かに曇る。
「来週には奥園当主と君の母君は釈放される見込みだ。当主が外つ国と通じていた証拠はどこにも見つからなかった。全ては須藤家が独断で、奥園当主の意向をはき違えた末に行なった所業、という形で処理される」
奥園家を監視する役割を与えられていた須藤家は取り潰しが決定した。近いうちに奥園の新たな監視者が旧家より選出されるという。
「あなたは義父が、本当に無実だと思いますか?」
ずっと燻っている疑念を投げかけてみる。
樋渡さんは否定も肯定もしなかった。
「俺は高校を卒業と同時に奥園本家へ入ることになった。次代の当主を娘ではなく分家筋に譲ること。さらにはそれまでの期間、本家の持つ権限の多くが一時的に分家に移されることも、当主は了承した。それもあっての、条件付きの釈放だ」
同時に、留美香が彼の妻となることも決定したそうだ。これは奥園の分家にとっても納得のいく解決方法だったのかもしれない。
ここで釈然としない気持ちが芽生えるのは、わたしが旧家を詳しく知らないからだろうか。これだと樋渡さんはまるで、奥園という家を存続させるための駒にされているみたいだ。
疑惑ではある。それでも自分や父親を殺そうとした者の娘と一生を添い遂げる覚悟とは、どんなに重いものなのか。わたしには想像ができない。
「今回の、奥園分家の決定は、あなたの望んだものなのですか?」
「望んだもなにも、旧家とは日の元に尽くす存在だ。皇家より与えられた役割を果たすことが最優先とされ、そこに私情を挟むなどあってはならない」
彼の旧家としての模範解答に、彼個人の感情は窺えなかった。
愛のない結婚も、家のためなら受け入れる。
これが旧家のあるべき姿なのか、わたしにはよくわからない。わかる立場に、なりたいとも思わない。
口を閉ざして考え込んだわたしに、樋渡さんは伏せ目がちになりながら口を開いた。
「それでも、幼い頃より共に育った仲だ。留美香に対して情がないわけではない」
彼の眉間に皺が寄る。間近で感じた抑えきれない感情は、とてつもなく深い後悔だった。
「……飼い猫が死んだ、番犬が死んだ、……母も死んだ。次は自分だと、……幼いころ、前奥園当主——留美香るみかの母の葬儀の際に、留美香に言われたことがある」
「……それは」
言葉を失うわたしの前で、彼は力なく自嘲した。
「その後すぐに現当主と分家の間で軋轢が生じ、俺は留美香としばらく会えなくなった。本家に残された留美香が、当主の元どのような教育を受けてきたかはわからない。……わからないが、留美香が死の恐怖と共に生きてきたことは想像できる」
「その話を、あなたは誰かに」
「いや。……俺があの時もっと、留美香の訴えを重く受け止めていれば、もしかしたら、何かが変わっていたかもしれないな」
所詮は結果論でしかないと、彼は話を切り上げ顔から感情を消し去った。
「奥園当主の釈放に合わせて、来週から留美香も登校を再開する。君の元へは行かせないし、彼女自身そんな余裕はないだろうが、心づもりだけはしておいてほしい」
「……わかりました」
「すまない。何から何まで苦労をかける」
要件は以上だと告げて、樋渡さんは空き教室を去っていった。




