1.母と娘
赤兎班も所属する、日の元を支える三つの柱のひとつ——鳳の本拠地は、皇都の中央部からやや離れた位置にあった。
堀と高い塀に囲まれた広大な敷地の中に多くの建物が規則正しく並ぶ。中心にそびえる一際大きな横長の御殿の、重厚感のある紺色の瓦屋根は堀の外からでもよく見えた。
今日の目的地は鳳本部からほど近い場所にある、収監所だった。
現在、母はそこにいる。午後に予定された面会へは、穂高さんと柊さんが同行してくれた。
到着した検問所にて手続きを済ませた柊さんが車へと戻る。発進した車は二重の堀に掛かる橋を渡り、左右が高い塀となった鉄門を潜った。
収監所までの一本道は予想していたよりも長く、至るところに見張りの姿があった。
車の窓を閉めていても張り詰めた空気が伝わってくる。その空気からは中の者を絶対に逃さないという意思がありありと感じられた。
車は内部をぐるりと囲う鉄の柵を過ぎて、収監所の建物の前に確保された駐車場に停車する。
「行こうか」
穂高さんに促され、車を降りた。
私語が許されない雰囲気のしんと静まり返った無機質な廊下を進む。
わたし自身が法に触れたわけではないのに、ここにいるとなんだか自分が悪いことをしてしまったように思えてくる。
母と須藤雷也との関わりは現在も取り調べ中だという。
本来は面会が許されない盤面で、今日わたしがここに来ることができたのはひとえに宮城さんのおかげだった。
須藤雷也の情報を渡す代価として、母に会わせてもらう。
ただの口約束だった。こんな小娘との取り引き、応じず裏切ったところで赤兎班は痛くも痒くもないだろう。
それでも宮城さんは、自身の権力を行使してわたしとの約束を果たしてくれた。
同時にそれはわたしと母を会わせても問題ないと、鳳本部や宮城さんが判断したことを意味するのだ。
だったら、おそらく。所詮は希望でしかないけれど……。
わたしは母に、怒りのあまり殺意を抱くほどは、憎まれていない。
小部屋へと足を踏み入れる。
案内してくれた施設の職員は、ここでしばらく待つようにと告げて出て行った。
穂高さんと柊さんは言葉を発さず、壁際で待機する姿勢をとった。
わたしと母の会話は聞いているが内容に口出しはしないと、出発前に言っていたことを遵守するためだろう。
緊張しながら待機していると、小部屋の扉が叩かれた。
施設職員の開いた扉から姿を現したのは、見間違いようのない、わたしの母だった。
最後に顔を合わせた時よりも少しやつれているけれど、意思の強い眼差しは変わっていない。
母は職員に誘導されて小部屋に入った。彼女が着ているのは上下、ボタンや紐のない簡素な服だ。彼女の腰まであった長い髪は、いつの間にか肩あたりまで短く切られていた。
警戒心をむき出しにして口をつぐんでいた母の瞳にわたしが映る。目が大きく見開かれると同時に口が動いた。
「朔っ!」
「……っ、お母さん」
数歩の距離を駆け寄った母は、わたしの顔をまじまじと見つめ、やがて大きく息を吐き出した。
「……あぁ、もう。よかった……」
安堵の声に、目から涙が溢れた。
嫌われていなかった。
わたしはまだ、この人の娘でいられる。
「あなた大丈夫なの? 連絡も取らせてもらえなかったけど、元気にしていたの?」
「わたしは……、大丈夫。お母さんの方こそ、危ないことはなかった? ずっと、心配で……」
嗚咽に引きずられて声が上ずる。
涙が止まらないわたしに母は苦笑を浮かべ、肩の力を抜いた。
「馬鹿な子ね。こんな時までお母さんの心配しなくていいのよ。それに、こっちはなんともなかったわ。今はちょっと大変だけど、すぐに礼司さんの無実も証明されるわ」
「お母さん、お義父さんは……」
「何を言われたかまでは聞かないけど、彼は騙されて利用されていただけよ。礼司さんもわたしも、留美香ちゃんの婚約者候補が別人に入れ替わっているなんて知らなかったの。これが全てよ」
「……うん」
母の表情に嘘はない。自分たちは須藤雷也に騙されていたのだと信じている。
義父は本当に何も知らなかったの?
それとも、今も母を騙し続けているの?
不安を隠しきれないわたしの前で、母の表情も曇った。
「ないものの証明ほど、難しいものはないわ。奥園家が日の元を仇なす者に対して、決して協力する意思はなかったのだと、それがはっきりするまで時間がかかりそうなの」
顔をわたしに向けたまま、母は視線を穂高さん達の立つ壁際へと動かした。苛立ちを見せたのは一瞬のこと。すぐに視線を戻し、わたしと目を合わせる。
「今は辛いかもしれないけれど、もう少しだけ我慢できる?」
「わたしは平気赤兎班の人たちにも、いろいろ気を遣ってもらえてるから。だからお母さんは自分のことを、もっと大切にして」
「あなたは……」
脱力しかかった母がゆるく笑ってうんと頷く。
「そうね。また家族で暮らせるように頑張らないとね」
「うん……、そうだね」
わたしの家族は母ひとりだけど、母の家族にはわたしの他に、義父と留美香も当然含まれている。
認識の違いが重くのしかかる。顔に笑みを貼り付けることで、彼らを家族と認められない心の醜さをひた隠した。
帰りの車中は複雑な心境となった。
母に会えて嬉しかったのは本当。しかし全てが解決したら、再び「家族」での生活が始まるのかと思うと、気分がどんよりと沈んだ。
こんな非日常、早く終わるのが一番いいに決まっている。わかっていても、わたしは今日も赤兎本部へ帰れることにほっとしていた。
「空木村について、お母さんに言わなくてよかったの?」
本部へと走る車の中で穂高さんが聞いてきた。
「なんとなく、言ってはいけない気がして」
「別に問題はなかったと思うよ。宮城さんに口止めはされてないよね?」
「そうなのですが……」
日の元の秘密や赤兎班の本当の役割など、この数ヶ月間で母にも言えない秘密がたくさんできてしまった。
空木村と神代巫女についてはともかく、照土さんの末路は安易に漏らしてはいけない。
「母は、あまり自分の過去に触れたがらない人なので、大変な時に、余計な心労を溜めてほしくなくて」
「そう。まあ朔ちゃんの自由だけど、元々は誰が抱えるべき問題だったのかは留意しておくべきだよ。彼女は空木村と決して無関係ではない。むしろ彼女が過去に決断した行動の結果が、今回君に降りかかったようなものだからね」
非常に耳が痛い。照土さんは亡くなってしまったものの、今も空木村は存続している。問題の本質は依然として解決できていない。
あれもこれも。
考えることが多すぎて憂鬱だ。
信号で車が停車する。
重い沈黙が漂う車内で、運転席に座る柊さんが後部座席へと振り返った。
「君は、妖と人間について、違いが判別できているのか?」
抑揚のない低く静かな声音。感情をのぞかせない唐突な問いかけに、明確な理由もなく回答に困った。
柊さんに反応を返せたのは、信号が変わって車が発進してからとなってしまった。
「……いいえ、普段の生活で、明確な区別はできていません。皇立院には旧家の子息令嬢が多く通っていますが、誰が人間で誰が妖かなんて、全く……」
夏休みに日の元の真実を知ってからも、それは変わらなかった。
ひとつだけ、見分けられるものがあるとしたら……。
「おそらく、わたしにわかるのは……、光と闇の均衡が崩れた妖だけです。その……、彼らはとても、眩しかったので」
帰魂祭の時期、日が暮れかかった時間に御社へ赴く参拝者たち。
赤兎本部を訪れた、空木村の照土さん。そして、篤志さんも……。
これまでも人の形を失いかけている、危うい境界に立つ人たちは視認さえすれば知覚できていた。
逆に言えば、光と闇の均衡が取れた妖は、人間と区別がつけられない。
日の元に生きる大多数の妖は、そんな人たちだ。
「朔ちゃんの目でもそれなら、本当に、違いなんて些細なものなんだろうね」
隣に座る穂高さんの呟きには、皮肉が混ざっていた。
「皇……、日の元の政治機関を牛耳る旧家の連中が、なぜ人間の血に固執するのかわかるかい?」
「単純な優勢思想……、だけではないのでしょうか」
「それもあるよ。今やごく僅かしか残っていない人間たちが、何も知らずのうのうと暮らす妖たちを支配していることへの優越感というか、人間は上位者だという捻じ曲がった自尊心を旧家の者は少なからず持っている」
それもある。ということは、他にも理由が存在するのだろう。
人間と妖の違いはどこにある?
外つ国は妖にとって、光が強すぎる場所だと宮城さんが言っていた。
妖は人間よりも光に弱い。だから光と闇の均衡が取れた日の元でしか生きていけない。
「光への耐性を維持するために、旧家の方々は人間としての血筋を……?」
「そうだね。まあこの場合は、光への耐性を旧家が求める理由そのものが問題なんだけど」
「……均衡が崩れて自我を失う者を出すことは、古い家にとっては不祥事となるからでしょうか」
「それもあるかもね。でも本質はそこじゃない」
穂高さんは窓の外、西に傾く太陽を見上げた。
「妖の血筋は光に弱い。万が一、日の元が外つ国の侵攻を受けることになった時、妖だけでは太刀打ちできないだろう。外の者と渡り合うには、人間でいることが重要になる。だから、人間の血を絶やしてはならない。——というのが旧家にとっての建前だ」
「建前……、ということは、本音があるのですね」
「うん。そうだね」
軽蔑のこもった笑みを穏やかに浮かべ、穂高さんは前方助手席を睨むように見つめた。
「もしもこの先、日の元が滅びる日が来たとしても、人間の血を維持した家は外つ国に逃れて一族を存続できる……と言ったら、朔ちゃん的にはどう思う?」
「そ……れは」
まさかの答えに言葉が続かない。
「さっきも言ったけど、固執しているのは一部の家だけだよ」
肩をすくめた穂高さんは説明を付け足すだけで、話の全てが冗談だと否定はしてくれなかった。
一部でも、旧家には本気でそういった考えを持つ人が、存在しているのだ。
「いつも外つ国の脅威に赤兎班が動くと、危機感が芽生えた旧家の連中がよく騒ぐんだよ。挙げ句の果てには日の元に人間を増やすため、重婚を認める法律を作ろうとする動きも出てくる。ほんと、やりたい放題だよ」
「毎回、皇家が一蹴しているがな」
柊さんが口を挟んだ。
皇家とは、日の元の政治機関「皇」の頂点に立つ、国の絶対的支配者のことだ。建国時より神の血筋を脈々と受け継ぐ一族とされている。
「まあ、それがせめてもの救いかな」
座席に深くもたれかかり、穂高さんは隣に座るわたしに顔を向けた。
「現状の皇に守る価値があるのか、俺からはなんとも言えない」
「……どうして、この話をわたしに……?」
穂高さんとこんなに話したのは初めてだ。
いつも淡々と職務を全うしている人が、赤兎班としての思惑もなくわたしに旧家の事情を教えてくれたとは思えない。
「ちょっとした親切心だよ。君は明日からまた皇立院に通うことだし、知っておいた方が少しは上手く立ち回れるだろう。あそこの生徒は旧家の子息令嬢で溢れ返っているからね」
本当に、それだけなの?
疑り深く観察するわたしをものともせず、彼はわたしの視線を正面から受け止めた。
「旧家が妖の存在含め、日の元の秘密を継承させるのは後継が十八歳になった時と決められているんだ。だけどその年齢に達していなくても、既に知っている子供も少なからず存在する」
その説明に、ふと樋渡さんが頭に浮かんだ。
奥園分家の筆頭、樋渡家の後継者である彼は日の元について、どこまで教えられていたのだろう。
「自身を妖だと自覚しながら人の姿を維持できる者は、朔ちゃんが思っている以上に貴重だよ。駒として欲しがる輩は大勢いる。君が赤兎の保護下にあるのはもう隠せないし、あれこれ勘繰って近づいてくる者も出てくるだろう」
一般に知られてはならない、国を挙げて秘匿にしていることを隠さず、情報を共有できる者。
秘密を守る義務を負った立場からすれば、そういった者で周囲を固めた方が精神的な負担が減る。
どこへ行っても重宝されるのは生きていくうえで利点となるかもしれないけど、下手に関わると旧家の権力闘争に巻き込まれかねない。穂高さんが言いたいのは、そういうことだろう。
「……気をつけます」
元より学校生活において、わたしには友人と呼べるほど親しい間柄の生徒はいない。加えて今さら学校の生徒と仲良くなろうとも思えない。
不自然に近づいてくる者を警戒できる環境が整っているのは幸いだった。
「皇立院に嫌気がさしたなら中央霊山へ行けばいい」
柊さんの提案は、前に雪根さんにもされたものだ。
雪根さんは華闇から鳳の赤兎班に移ったらしいけど、もしかしたら柊さんも華闇で宮城さんに勧誘を受けたひとりなのだろうか。
「自分の抜けた穴を彼女で補おうとするのはどうかと思うな」
浮かんだ疑問は穂高さんの言及によって解消された。
「ならばこのまま赤兎班に留まるか」
「朔ちゃんが望めばね。宮城さんは結構本気で欲しがってるみたいだし。お母さんたちはものすごい勢いで反対してくるだろうけど」
きっとその通りだ。
母は赤兎班にあまりいい感情を抱いていない。母の描く理想の未来は、わたしが奥園の娘で居続けることだろうから。
多くの道を提示されながら、結局わたしは母の望み通りに動こうとしている。
それで自分が苦しむのはわかっているのに……。
車は皇都の中心地を抜けて郊外へと進む。
通っている学校の前を過ぎれば、あとはよく見知った帰り道だ。慣れた景色にほっと肩の力が抜けた。
「個人的な下心を見せておくと、俺に嫁ぐというのもひとつの道としてはあるよ」
緊張の糸が解けかけたところにとんでもない発言をされて、意味を理解するまでに時間がかかった。
ぎこちないながらもゆっくりと隣を見やる。わたしに爆弾を落とした穂高さんは、いつも通りの涼しい表情でさらに続けた。
「一応は穂高家も旧家の一端を担っているからね。うちは政とは関係ない役割を与えられていて、皇との関わりは薄い。そのおかげで権力闘争とは無縁でいられるから、朔ちゃんにとっては優良物件だと思うよ」
売り込むにしても、他に言い方があるでしょうに。
穂高さんは本気というわけではない。だけど、彼は決して嘘は付いていない。
冗談じゃない分、なおさらたちが悪い。
「近い将来、旧家は妖の血を歓迎できるかどうかが、皇家への忠誠に直結する時が必ずくる。妖の血が濃くなるほど、旧家の後継は華闇での修練が必須になるだろうけど、それはいいとして」
何がどういいのか。言葉を失い戸惑うわたしとは反対に、穂高さんはとてもいい笑顔だ。
ひょっとして遊ばれてるのかなあ。
「長い年月を共に過ごす伴侶に、隠し事をし続けるのは負担が大きい。そういう意味で俺にとっての利点も多い。朔ちゃんがうちに来たいなら歓迎するし、大事にするよ」
「……今のところは、考えてないです」
なんとか断り文句を捻り出した。
穂高さんはそうかと頷きあっさりと引き下がる。
「嫌ならもっとはっきりと断った方がいいよ。こういう誘いは、今後山ほど出てくるだろうから」
「まさか。わたしなんて……」
「言っただろう。君にはそれだけの価値がある」
断言されても、素直に信じられない。
「気をつけなよ。知らないうちに奥園の手駒にされて、勝手に結婚相手が決められてたなんて、さすがに笑えないだろう」
……もう、既にその状況になりかかっていた実績があるとは、ちょっと言いづらかった。
かつて義父はわたしを樋渡さんの伴侶に当てがおうとしていた。
もしも義父が須藤雷也に騙されていただけで今回の疑惑は冤罪だったとしたら、再び義父はわたしの結婚相手を勝手に決めてしまうのだろうか。
そうなったら、母は樋渡さんの時と同じように、義父に反対してくれるのかな……。
まだ日が高いうちに赤兎本部に帰って来れた。
穂高さんと柊さんとは宮城さんの元へ報告に行くため、一階の廊下で別れた。
赤兎班の本拠地で、ひとりで自由に動ける。当たり前のようにこの環境をわたしに与える穂高さんたちの信頼が嬉しくもあり、面映い。
せっかく築けた関係を崩したくない。
大人しく自分の部屋に戻るため、勝手知ったる階段を上る。
母との面会の気疲れが吹き飛ぶくらいに、穂高さんの話は衝撃が強かった。
旧家の現状から、わたしのことまで。
改めて思い返して、日の元で平穏に暮らすには「知らないこと」が重要だったのだと身に染みる。
出会う人たちが、たくさんの道を示していく。多くを知ってしまったからには、自分がどうするべきかをわたしは選ばなければいけない。
「朔」
背後からの呼び声に足を止め、階段の踊り場で振り返る。
一階の廊下には明将さんがいた。
「おかえり」
「ただいま、戻りました」
階段を下りようとしたら、片手を上げて止められた。書類の束を脇に抱えているのを見るに、彼は仕事中だ。
「お疲れ。大丈夫だったか?」
「はい。……母も、元気そうでした」
「そうか。よかったな」
「……はい」
忙しいのだろう。
短く切り上げ、明将さんは一階の廊下を奥へと行ってしまった。
でも……、少しだけ彼と話せた。
嬉しさを噛み締め階段を上る。単純なもので、足取りはさっきよりも格段に軽くなっていた。
——もしも。未来を選ぶ自由がわたしにあるというならば……。
彼の役に立てる未来を、選んでもいいかな。




