0.良い子
生まれてしまったこの罪は、
どうしたら償えるのだろう。
物心がつく前から、わたしの世界は母が全てだった。
わたしの父親について母は語りたがらず、触れてはいけない話題なのだと幼心に悟るのも早かった。
父親のことだけじゃない。親類のこと、母が生まれ育った故郷のこと。母にとっては過去のほとんどが忘れてしまいたい苦しみだったらしい。
小学校の授業で、親に幼少期の遊びを聞いてくるという宿題が出た。質問をした時に母が見せた、嫌悪を滲ませた困り顔は、今でも忘れられない。
母の過去に何があったのか、結局知らないままだけど、別にそれで構わない。無理に知りたいとも思わない。母と二人でいられるなら、わたしはそれで十分幸せだったのだ。
だから平穏な毎日のために、わたしは彼女の禁忌に立ち入るのを避け続けた。
母との生活は引っ越しばかりしていた印象が強い。
幼少期、小学校、中学の初めごろ——。
きっかけはなく、ふとした時に母の気まぐれでそれは始まる。
六畳一間ひとまの長屋を転々とする生活だ。時には通勤に時間がかかるからと、母は引っ越しを理由に仕事を変えていた。
お金に余裕があるのに質素な生活をしていたのは、今にして思えば引っ越しの費用を維持するためだったのだろう。
身軽な方が転居がしやすいので、持ち物は多くならない。毎回、新たに居着いた土地に愛着が生まれる前に、わたしたちは別の土地に移った。
次々と移り住んだ土地に、思い出はあまり残っていない。
学校が変わり、新しい学友たちと馴染めずにいても、どうせまたすぐにいなくなると思えば気が楽だった。
出会った人たちとはすぐに別れがやってくる。
そんな中で唯一、どこへ行ってもわたしには変わらず母がいた。
たった一人の家族。
彼女と共に過ごせたら、他には何もいらなかった。
母はわたしの全てではあるが、同時に負い目でもあった。
生きる理由とか、存在の意味とか。
考えるまでもなく自分自身には価値があるのだと疑わなかった幼少期は、あっという間に終わる。わたしが成長と共に、自身の無力と無価値さを知るのは割と早かった。
事故によって肉体を離れた精神が闇の世界から戻り、意識不明の状態から目が覚めた。そこから体力と筋力を戻す生活訓練を受けて、無事に退院。
少しずつ日常の生活に戻れてきた、小学校三年の冬の終わりごろだった。
四年の進級と同時にまた住む場所が変わる。なので部屋は極限まで整理され尽くし、まるで生活感がない。
物の少ない部屋の中。居間にぽつんと置かれたちゃぶ台に頬杖をつき、わたしは母の帰りを待っていた。
いつもならとっくに寝ている夜更けのこと。
春が近いとはいえ外は雪がちらつき、凍てつく風が甲高い音を立てる。屋根が飛んでいくのではと思うぐらい、強い風が吹いていた。
そんな夜に限って、母は帰りが遅かった。
どうしても断れない宴会があり、夕食時に帰れないのはあらかじめ聞いている。
これまでも仕事の付き合いで飲み会を断れない時はたまにあった。しかし母はいつも食事だけして、割りかし早い時間に帰ってきてくれるのが常だった。
何かあったのではと思うと眠れず、かといって夜道を探しにいく勇気もなく、わたしはじっと部屋で待っていることしかできなかった。
母が帰ったのは、あと半刻もすれば日付が変わるころだった。
うとうとしていたところに鍵の開く音が聞こえ、慌てて立ち上がる。
「朔ー、ただいまぁ」
玄関へ駆け寄ると、厚い防寒着を纏う、寒さで頬が真っ赤になった母がいた。
「おかえり。お疲れ様」
「もう、やになっちゃうわよこんな時間まで。あのおっさん、まだいけるだろって何杯もお酒飲ませやがって。下心が丸見えなのよ」
愚痴る母から仕事用の鞄を受け取る。
「大丈夫だったの?」
「へーきへーき。ちゃんといなして、こうやって無事に帰ってこれました」
えへへと力なくはにかみ、防寒着を脱いだ母はふらふらと部屋に上がってちゃぶ台に突っ伏した。
湯呑みに水を入れ、ちゃぶ台にそっと置く。
玄関に脱ぎ捨てられた防寒着を拾うと煙草の匂いがした。誰かの移り香だろう。
防寒着は外で何度かばたばたと振ってから形を整えて、衣紋掛けに通す。
部屋に戻ると、湯呑みが空になっていた。
おかわりを入れて差し出せば「ありがと」と短く返された。
「あー、疲れたー!」
母は大きく伸びをして再びちゃぶ台に顔を伏せる。背中を丸め、天板に片頬をつけて、うつろな瞳がぼんやりとわたしを見つめていた。
目がとろんとしていて、なんだかいつもと雰囲気が違う。
お酒は強いと聞いているし、ちょっとやそっとでは酔わないと母自身が常々豪語している。
娘の前でもあまり弱い部分を見せない彼女、がここまで疲労を露わにするなんて、よほどのことがあったのだろう。
お風呂や着替えを勧めるのも気が引けて、母が寒くないようにと背中に毛布を掛けた。
「……ふふっ」
母の瞳には涙が溜まっていた。いつもの母らしくない。
心配になって、寝床を用意しようとしていた足が止まる。
すると無理やり笑っているとしか思えない、歪な弧を描いた母の唇がゆっくりと動いた。
「……朔がいなかったら、わたしの人生全く違うものになってたんだろうなあ」
ぼんやりと呟かれた言葉に頭が真っ白になった。
母の瞼がゆっくりと下がる。
閉じられた瞳からは涙がこぼれ落ちた。
しばらくその場に立ち尽くす。わたしの頭の中では、母の言葉が何度も繰り返されていた。
寝息が聞こえてきて、ようやく我に返った。
このままじゃ風邪をひいてしまう。急いで布団を用意して、母の肩を揺すった。
「お母さん、お風呂はどうする? 寝るにしても、そこだと体が冷えちゃうよ」
平静を装って言えば、目を覚ました母は着替えてくると脱衣所へ行ってしまった。
翌日になると気の強くてはきはきした、いつもの母に戻っていた。
あの時の発言を母が覚えているのか、いないのか、今でもわからない。言葉の真意を問う勇気はわたしになかった。
あの夜以降、ふとした時にわたしがいない場合の、母の人生を考えるようになった。
子どもという重荷がなければ、彼女はもっと自由でいられた。
産んでおいてなんて身勝手なと憤ったこともある。
だけどわたしは、自分が生まれてこなければよかったと、それだけは思うことができなかった。
母のことも大好きだ。たとえ母の負担になったとしても、ずっと一緒にいたいと望んでしまっている。
ならば少しでも母を助けて、役に立って、邪魔にならないように……。
良い子でいようと心に決めた。
*
夢を見ていた記憶はある。それなのに起きればどんな夢だったか忘れている。よくあることだ。
しかし今日の夢は微かに残っていた記憶のかけらによって、内容が鮮明に思い出せた。
——朔がいなかったら…………。
しばらく見ていなかった、あの夜の夢。
忘れていたわけじゃない。それでも改めて思い出すと、寝起きの気分はずんと重くなった。
先触れもなくいきなり母と引き離され、赤兎本部での生活が始まってからのこの数ヶ月。
会いたいとずっと望んでいた、母との面会がようやく叶う。
ここに来た当初はあれだけ焦がれていたというのに……。
緊張に混ざった期待と高揚感を、夢の余韻が打ち消していく。
陰鬱になるのは仕方がない。母の命を助けるための決断だったとはいえ、憎まれて当然のことをわたしはしたのだから。
赤兎班に味方して、須藤雷也の情報をばらした。
あの男を騙すため、進んで協力もした。
穏便な解決とは程遠い。日の元での奥園の立場を考えない選択だった。
母のために生きると決めていたにも関わらず、結局このざま。
どうするのが正解だったかなんて、今でもわからない。




