3.まさかの再会(上)
いつか来る別れが、怖くてたまらない。
寝台の上で横になり、まぶたを閉じた。
体にかかる薄布団の感触や、全身を包む暖かさ。
五感に集中しながら時間を過ごしていると、やがて意識が肉体を離れてすうっとどこかに吸い込まれていく。
暑いや寒いという温度の感覚が消え、前後左右の平衡感覚もあやふやになる。
まぶたを開くと、そこにはわたしの求めた漆黒の世界が広がっていた。
今日もここに来られた。
ほっと胸をなでおろす。
眠る前にあった倦怠感はない。自分がとても軽く感じる。
生身の体はここにないから当然といえば当然か。
朝になるまでの期限付きではあるが、ここでは肉体の疲労とも決別できた。
「……朔」
背後でした声に振り返る間もなく、黒い手に後ろから抱きしめられる。
のけぞるように仰ぎ見れば、猫耳を生やした人影がこちらを覗きこんでいた。
「……ミィ?」
「うん」
名前を呼べば、彼は嬉しそうにわたしの肩に顔をうずめた。
この世界に来て早々に誰かがそばにいる、ということは……。
「ミィが、こちらに導いてくれたの?」
「うん。朔に会いたかったから」
その言葉が嬉しくて、後ろへと振り返りわたしよりも頭ひとつ高い位置にあるミィの頭を撫でる。
ミィは猫みたいに喉を鳴らした。
相変わらず、彼からは猫の先入観が抜けてくれない。
わたしが初めてこの世界に迷い込んだ時。
右も左もわからず途方に暮れてしまっていたわたしの元に、真っ先に駆けつけてくれたのがミィだった。
出会った当初、彼は幼いわたしを怖がらせまいと、力と気配を可能な限り隠していて、その小さな存在をわたしは小動物……、猫と認識してしまった。
あれから時間が経ち、この世界に住む人たちにもすっかり慣れた。
ミィもわたしの前で本性をさらけ出すようになったのだけど、当初の名残で彼の頭には今も猫耳が見えていた。
ミィという名前も、かつてわたしが付けたものだ。
幼かったとはいえちょっと安直すぎないか、とは成長してから何度も思った。
本人にもほかの名前を提案したけれど、彼はことのほかこの呼び名を気に入ってくれているらしく、今のままがいいのだとのこと。
黒が全てを埋め尽くす世界。
ここでは、視覚でものを捉えることはできない。
耳で誰かの声を聞くこともかなわない。
ミィたち、光の届かぬ世界の住人には実体がない。
だから肌を通して伝わる温もりは本来感じるはずがないもので、抱きしめられる腕の強さや圧迫感も、本当はまやかしなのかもしれない。
しかし光源のない暗闇の中にいても、みんなの姿は影としてわたしの目に映し出される。
声なく届けられる彼らの意思も、言葉に変換されてわたしの頭に直接響いてくる。
闇の世界では、使える感覚器が地上と全く違うのだ。
そんな地上の常識が通じない常闇の世界で、みんなの存在を知覚し、鮮明な意思疎通ができるのは、わたしの性質が生まれつき普通の人と少しずれているからに他ならない。
朝昼晩という時間の経過。
春夏秋冬の季節の移り変わり。
そういった変化のないこの場所は、いつもわたしに安息を与えてくれる。
しかしながら、わたしにとってのこの場所は永遠でない。
年齢を重ねるにつれ、夢を通してここへ辿り着く頻度は確実に少なくなっている。
成長とともに生まれつき闇に傾いた性質が薄れ、属性の均衡が取れてきてしまっているからだ。
「……ひょっとして、ずっと見てたの?」
「日が暮れてからは、ね」
「そっか」
たとえどんな場所にいようと、夜になればわたしはひとりじゃない。
直接的な干渉はできなくても、見守ってくれるひとがいる。
そのことに嬉しさを覚えたのと同時に、あちらの世界でミィの気配を察知できなかった自分に落胆した。
部屋の灯りが付いていたから。
周囲に気を配れるほど、心に余裕がなかったから。
理由はいくらでも上げられるけど、数年前のわたしだったら同じ条件下であってもみんなの存在を感じられていたはずなのだ。
月日を経て体の成長と共に少しずつ、闇に覆われたこの世界が遠くなっている。
「朔?」
ひとり気を沈ませていたところ、ミィの声で我に返った。
「ううん。何でもないの」
慌てて誤魔化すも、ミィにはわたしの心情がお見通しのようで両肩にかかる重みが増した。
「……嘘」
「……うん。ごめんなさい」
ミィの手に自分の手を重ね、彼とともにいられるこの時間を噛みしめる。
「やっぱり、お別れは寂しいかな」
遠くない未来、この身が成熟した時。
わたしはあの眩しすぎる太陽の下で、誰の支えもなく生きていけるのだろうか。
「まだその時ではないだろう」
接近する大きな気配がはっきりとした口調でわたしの不安を引き裂いた。
「命と同じだ。どんな事象にも終わりは必ずくる。それは悲観しても仕方がない」
声のする方へと目を凝らせば、散らばった靄が一か所に集まり人の形が作られる。
見上げるほどの身長がありながら、細身の彼。
短い髪をツンツンと全体に立たせ、影だから表情は見えないが、いつも不機嫌そうな空気を醸し出している。
厳しい物言いはしても、言葉の中にはいつだって優しさが込められている、強い闇を纏う存在。
彼とは、昨日も会った。
「……ユウ」
名前を呼べば、目の前に立ったユウが腰をかがめてわたしの顔を覗き見た。
「そんな先のことより、あの状況について俺たちに説明はないのか」
ユウの言及に、わたしを後ろから抱くミィの手にも力がこもる。
ああ、やっぱり知られているのか。
「朔のいた場所の座標が、いつもと違ったから。多分みんなも気付いているし、心配してるよ。今ここには来れないけど」
ミィの説明を聞いて周囲を見渡す。
できる限り遠くまで探っても、感じ取れるのはミィとユウの気配だけだった。
「みんなは?」
「穴の修繕に奔走している。地上の太陽が隠れた途端、あちこちに綻びが出やがった」
苛立つユウに、焦りの色を垣間見た。
これまでも何かのはずみで人の生きる世界と闇の世界が繋がる現象はあった。
最近は、その頻度が異常なまでに増えているのだ。
境目が綻びる原因はわからない。
少なくとも、闇の世界側に異常はないはずだと、前にユウが言っていた。
「今のところ、こっちから落ちてしまったものはいないよ。だから安心して」
「……うん」
不安は尽きない。
それでもミィの励ましは嬉しかった。
「俺達のことより、まず自分の心配をしろ馬鹿」
「そんなこと言われたって……、というか、ユウたちはどこまで知ってるのよ」
ユウやミィがあちらの世界のわたしを視ていたのは、日没から就寝までのはず。
宮城さんの説明は、その前に終わっている。
気落ちしていた自覚はあるものの、どんなことが起こったかを具体的に彼らは知らないと思うのだけど……。
ユウにばかり集中していると、こっちも構って欲しいと言わんばかりに、わたしに密着するミィが腕の力を強くした。
「アカウサギに囲われてる時点で、何があったかは察しがつくよ」
すねた口調で呟いたミィに対して、首を捻る。
「アカウサギって、赤兎班のこと? 彼らを知っているの?」
「まあね。……あんまり好きじゃないけど」
ミィは不服そうに肯定する。
驚いた。
こちらの世界の人たちは、あちらの社会の仕組みについては無関心だとばかり思っていたのに。
いや、でも。わたしが「囲われてる」というのは少し語弊がある。
誤解を解くためにも、かいつまんで今日あったことをふたりに話した。
話が進むにつれ辺りには彼らの怒気が蔓延していく。密度の濃い空気に全身が総毛立った。
「ユウ、怒るのはいいけど気を抑えて。朔がもたない」
「じゃあてめえも、その陰気でじめじめした感情をどうにかしろ。こっちまで腐ってしまいそうになる」
言い返されたミィはしばらく沈黙した。
ミィの気配が、だんだんと小さくなっていく。
やがて獣の耳をした男性の影は、黒猫へと変化を遂げた。
手のひらに収まるほど縮小した猫姿のミィは勢いよく後ろ脚で地面を蹴り、わたしの肩へと飛び乗る。
黒猫が頬へと顔を擦り付けてくる。甘えた仕草がとても可愛い。
小さな黒猫を肩から腕の中へと誘導し、胸元で抱きしめわたしからも頬ずりをする。
ミィとじゃれあって癒されていると、ユウに盛大な舌打ちをされた。
「いつまでそうしてんだ」
「もう。少しぐらいいいでしょう」
「にゃー」
すねた態度でミィを抱きしめるわたしに便乗して、腕の中の子猫が鳴いた。
力を抑えこんだミィの意思をわたしには正確に読み取ることはできない。しかしどこかからかう空気を含んだ鳴き声だ。
「てめえ、調子に乗ってんじゃねえぞ」
喧嘩腰になったユウを無視して、子猫姿のミィはわたしの腕の中で落ち着く体制を整えてくつろぎだす。
再びユウから舌打ちが聞こえた。
彼の不機嫌はいつものことなので気にしないでおく。
「……赤兎班に取り締まりを受けるようなことって、一体何なのでしょうね」
義父がどんな疑いをかけられているのか、全く見当がつかない。
鳳の赤兎は、日の元の政治機関「皇」を守るために存在している。
取り締まりの対象は当然、皇……つまりこの国の中枢を脅かす者に限定された。
国の脅威になることなんて、規模が大きすぎて具体的な想像ができない。
宮城さんに説明を受けたときは何かの間違いだと反射的にに否定したけど……。
「改めて考えてみたら、わたしは義父にかけられた疑いは濡れ衣だって言いきれるほど、義父のことを知らないの」
母が愛した人。
わたしにとって奥園礼司という男は、それ以上でも以下でもなかった。
「なんにしろ、お前に手を出さないというなら、俺たちだってクソ兎には介入しねえ。それにもしお前が自分の義父に少しでも疑念を持っているのなら、距離を置けるのは悪いことじゃないはずだ。少なくとも、身の安全は保障されているんだろ?」
「それは、そうだけど」
「だったら大人しくしているのが得策だろう。しばらくはこっちからそっちにチビが落ちても、探しに行くのは控えろ」
「……って、どうしてそうなるのよ」
こればかりは納得できない。
最近は境界に穴が開く事態が多発して、わたしの生きる世界に迷い込む闇の住人達が増えてしまっているというのに。
わたしがこちらの世界に返してあげられるのは、迷い込んだ子の中でもほんの一握りだけかもしれない。
それでも、微々たる力でもみんなの役に立てるなら、頑張りたい。
ユウはあきれた様子で溜息を吐きだし、わたしを見下ろす。
「人質が夜に抜け出しているとばれたら、お前の立場が危ぶまれる。落とし子探しは危険を冒してまでする必要はない」
にゃー……と、小さくミィが鳴いた。
その声からは、ユウに同意する気持ちが伝わって来た。
あちらの世界に迷い込む闇の子たちは、闇の世界に溢れる小さな意思のひとつにすぎない。
闇の世界に戻せるならばそうするけれど、朝が来て迷い子が消滅してしまっても、仕方がなかったで済まされてしまう。
この世界で強大な力を持つユウたちにとって、彼ら小さな存在など些細なものでしかない。
時々このことがもどかしく思えてしまうのは、わたしが甘すぎるからだろうか。
「ふてくされてないで納得しろ。本来の生活を切り捨ててまで、俺たちを助けようとしなくていいんだ」
ユウはいつになく真剣だった。
心配してくれているのだと。その「声」からは苦しいぐらいにユウの感情が伝わってくる。
「う、……ん」
みんなに迷惑はかけられない。
そう自分に言い聞かせて頷けば、ユウがわたしの頭に手を置いた。
「夜になれば、誰かが必ず傍にいる。いけすかない奴ではあるが、アカウサギの近くは安全だ」
「……うん」
いつだって、ユウたちは優しい。
ひとりが怖いわたしはみんなに、「わたしのことは気にしないで」という気遣いの言葉すら言えない。
甘えっぱなしで嫌になる。
徐々に意識が暗闇から離れ、光の中へと吸い込まれてゆく。
じきに朝が来る。
黒の世界は気配を消して、やがて体の感覚が戻った。
布団の重み。
わたし自身の体温。
ゆっくりと目を開く。
目に映るのは、薄暗い部屋。
格子のついた窓がかすかな明かりを室内に届ける。
鳥の鳴く声が耳に届いた。
ユウたちのいる世界とは違い、ここでは体という器を通して世界を感じる。
夜明けは近い。
もうすぐ、太陽に照らされた長い一日が始まる。
部屋は就寝した時のまま。
昨日のことは現実で、わたしは赤兎班の監視下に置かれている。
仰向けの状態でぼんやりと天井を見ていると、やるせない思いがこみ上げて来た。
手の甲で視界を隠し、きつく目を閉じる。
こんな世界、夢だったらよかったのに。