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24.邂逅果たす時(下)





残された樋渡さんがよろめいた。

床に膝をつく彼から距離を取るように集まっていた生徒たちは離れ、面倒事に関わるまいと散っていった。


おそらく留美香の言った「感染るかもしれない」という言葉が影響しているのだろう。


樋渡さんは脂汗を浮かべ、苦痛に耐えて歯を食いしばる。

彼から腐臭がして、鼻に手を当て息を止めた。


この感覚、この気配を、わたしは知っている。


いても立ってもいられず、樋渡さんの前に膝をつく。



「手を貸します。保健室に行きましょう」


「……だが」


「さすがに放ってはおけません」



樋渡さんの手を引いて立たせ、彼の腕を肩に回した。


横目で教室を窺うと、留美香が鬼の形相で睨んでいた。こっちはそれどころじゃないので見なかったことにしておく。

なんだかんだ拒絶しても、留美香は樋渡さんを嫌いになったわけではないのだろう。


それよりも、体調不良の彼に触れたことにより、気配を間近に感じて確信した。


この人を蝕んでいるのは、蟲の毒だ。




移動中に授業の始まりを知らせる鐘が鳴った。

始業式の後は学級活動だ。夏休みの課題を提出したり、連絡事項を聞いたら終了となる。教室へは学力考査に間に合えば問題ない。


わたしが女子生徒に髪を切られた時、彼がそうしてくれたように、わたしも樋渡さんを第二保健室へと運んだ。


幸い室内に人はいなかった。

丸椅子に彼を座らせる。



「体、どうされたのですか」


「……大したことはない。見せしめを含めた警告を受けただけだ」



腐臭は消えない。むしろ周囲に人がいなくなり、より濃くなった。

そして臭いに紛れて、あの(・・)気配がしている。



「……これ以上、須藤雷也とは関わろうとするな」



樋渡さんは顔を上げ、真っ直ぐにわたしを見つめた。言葉に思惑はない。これは彼なりの忠告だ。



「聞けません」


「君のためを思って言っている」



語気が強くなるのは、純粋にわたしを心配してくれているからだ。心根の優しさが、痛いぐらいに伝わってくる。

彼の視線を逃げずに受け止め、肺いっぱいに空気を吸い込んだ。



「だって、須藤さんの許しがないとわたしはこれからも母に会えない。無事かどうかを自分の目で確かめることもできない。奥園と赤兎班の件はあなたにお願いして、どうにかなることなの?」



あざけるように笑ってみせる。

笑いながら、さらに続けた。



「だったらもう、あの人に縋るしかないでしょう。……あの人が、何者であったとしても……」



樋渡さんがはっとして息を呑む。唇が「どこまで」と動いた。

笑みを消し、知っているという意味を込めて首肯してみせる。



「お願い。邪魔はしないで。あなたが止めても、わたしは聞けない」



スカートの内袋から、用意していた紙切れを取り出す。樋渡さんの横を通り過ぎる際、そっと彼にそれを渡した。



「邪魔をしないで。あなたの助けは求めてないの」



言い切って出入り口へ。



「辛いなら隣の保健室で休んでください。お体、早く良くなるといいですね」



返事は待たず、第二保健室を後にした。

病人を保健室に連れて行ったのだから、遅刻の言い訳が立つ。下手にさぼって怪しまれるのも嫌だから、素直に教室へ戻ろう。


樋渡さんを蝕む毒は、華闇の一樹さんを頼れば治る。全てが終われば、きっと彼も助かるはずだ。








     ◇  ◇  ◇






——面白い具合に歪んできた。


ちっぽけな生物が希望を絶たれて狂っていく様は、とても愉快だ。




夏休みの課題提出はすぐに終わり、始業式前に連絡事項は通達済み。残りの時間は学力考査のための自習時間となった。


ところどころで私語が囁かれながらも多くの生徒が机で課題の写しを広げるなか、須藤雷也はそっと席を離れようとした。

しかしそれを目敏く見つけた留美香によって不発に終わる。



「新学期早々、またさぼり? どこへ行くの?」



眉を寄せながら小声で話しかけられ、須藤は肩をすくめた。



「保健室。佐のとこだよ。具合はどんなものかと思ってね。佐が怖いなら留美香は来なくていいよ」


「だめよ、絶対嫌。何があっても行かせないから」



体調を崩した樋渡佐に朔が手を差し伸べている場面を目撃してしまっただけに、留美香は意地でも止めにかかった。

 須藤と朔が遭遇してしまうのをこの娘は恐れている。


会いたいと、話をしたいと朔が希望するなら、なおさら須藤と朔を合わせたくない。純粋な嫉妬心だ。


いつもは留美香に従順な朔が、今日ばかりは反抗的。留美香が不安になるのも、まあわからなくもないかと須藤はひとり納得した。


多少面倒ではあるが、ここで留美香の機嫌を損ねるのはよろしくない。

仕方ないなあと困った様相を装い、須藤は自身の席に戻った。



——さて、どうしたものか。



ほっとする留美香にはにかんで、次の計画を模索する。


奥園と赤兎班の探り合いは膠着状態が続いている。あちらはつまらないので、もう少し留美香や朔で遊びたい。

しかし日中は留美香の目があるから、朔に接触できそうにない。


そうなると、朔と会える時間は夜になるが……。



——夜の朔ちゃんはガードが堅いんだよなあ。



深淵の寵愛を受ける地上の生き物など、滅多にお目にかかれない。

闇に護られる朔に声を届けるのは骨が折れる。偶然見つけた照土のような、朔と縁のある駒が見つからない限り、あの深い闇の中で朔を揺さぶるのは不可能だ。



——いい頃合いだし、佐を使うのもありか。



大陸より連れてきた蟲は打ち止めになりつつあるが、閉塞的な日の元において手駒を確保する算段はついた。


まだまだこの国で楽しめそうだ。







     ◇  ◇  ◇



     ◇  ◆  ◇






樋渡佐は、当初朔から石か金属を渡されたのだと思った。

自身の手の中に収まったそれに、ずしりとした重みを感じたからだ。しかし想定した硬さはなく、物体は指に力を込めるとすぐに曲がった。


気になって視線を下方に移す。握られた微かに手を開けば、そこにあったのはただの紙切れだった。


材質を認識した途端、先ほどまであった手の中の重さが嘘のようになくなる。

不審に思いながらも紙切れをズボンの内袋に押し込み、樋渡はのろのろと立ち上がった。


重い体を引きずり、壁を伝って隣の保健室へ移動する。体調不良を理由に授業を欠席するためだ。


保健医は不在だったので、用意されている記録簿に名前を記入し、奥の寝台を利用することにした。


仕切り布を引いて、寝台に腰掛ける。

彼は内袋から朔に渡された紙切れを取り出して、膝の上で小さく折り畳まれた紙を広げた。




『聞かれています。声に出してはいけない。あなたの言葉を、赤兎班に伝えました』




端的な文章に目を通し、考えるより先に紙切れを手で握り隠した。数秒間、体が動かなかった。

樋渡は書かれた言葉の意味を理解するのと同時、目を大きく見開いた。



「————!」



呻きか。絶叫か。はたまた獣に近い咆哮か。

感情に任せて口から出かかった音を、寸前で堪えた。必死になって両手で口を押さえ、息を止めて。


しばらくそうしていると、声の代わりに目からぼろぼろと涙が流れた。口を押さえた手を離し、落ち着くために何度も深い呼吸を繰り返す。


樋渡の胸部から首へかけて、包帯で隠している場所にできた根が這うような痣は、日を追うごとに範囲を広げている。それに伴い体が倦怠感を覚え、感情の制御が次第に難しくなっている。


気を抜けば奇行に及んでしまいそうになる自分をこれまで制御できたのは、ひとえに父の教えがあったからに他ならない。


樋渡を強く厳しく育てた彼の父親は、全身がこの痣で埋め尽くされた。正気を完全に失う寸前、他に危害を加えぬためにと父親は自ら座敷牢に籠った。


父親の現状は奥園当主の命令で秘匿とされ、今は当主が用意したどこぞの誰かが父に成り代わり分家を監視している。


奥園当主に逆らう者は始末される。当主に服従を示さない限り、この痣は消えることはない。


樋渡自身も、朔に己の意思を打ち明けた時からこうなることは覚悟していた。

たとえ助からなくとも最後まで足掻き、奥園当主に一矢報いたかったのだ。



赤兎班が本格的に介入する。


奥園を、正せるかもしれない。



それは奥園の筆頭分家の跡取りである樋渡にとって、ようやく見出せた希望だった。






     ◇  ◆  ◇







明け方より降り続いた雨は、三時間目の途中には上がってしまった。空全体を覆っていた灰色雲がゆっくりと分裂し、窓から入る光で室内が明るくなる。


考査の問題用紙と向き合っていたが、気になって顔を上げた。窓の向こうに、遠くで雲の裂け目から太陽の光が線となって地上に降り注ぐのが見えた。

背中がむずむずして、慌てて視線を机に戻した。



三時間目と四時間目の間の休み時間。


席を立って隣の教室の様子を窺うと、留美香と須藤雷也の姿があった。しかし二人は廊下から遠い位置にいて、なおかつ教室の生徒たちがわたしの立ち入りを許さない。接触は難しそうだ。

複数の生徒が与えてくる無言の圧力には逆らわず、逃げるように自身の在籍する隣の教室へと戻った。


樋渡さんの姿がなかったけど、彼は無事に考査を受けられたのだろうか……。

心配したところで、これ以上自分に出来ることはないのだと言い聞かせる。わたしに他人を気遣っている余裕はない。



四時間目の考査が終了し、昼休みになった。

監督の先生がいなくなってすぐ、肩にかけた通学鞄をひったくられた。


慌てて取り返そうとしたわたしを男子が押さえ、その隙に女子たちが鞄の中身を漁る。

目の前で財布からお金を抜き取られ、さらに彼女たちはわたしのお弁当を教室の床にぶちまけた。花歩さんが作ってくれた、お弁当を。


教室中で笑いが起こる。



「きったねえ。自分で掃除しろよ」



背後から手を掴んでいた男子が、押し出すようにわたしを解放する。

落ちたお弁当の上に、通学鞄が放り投げられた。

その後黙々と教室の床を掃除するわたしを、学級の生徒がにやにやと観察していた。


不思議と怒りは湧いてこない。恐怖心もそんなにない。

あるとすればお弁当を粗末にされたことへの恨みぐらいか。


自分でも驚くぐらいに心が凪いでいた。

皇立院に通う旧家の子息令嬢でも、こんな蛮行に走るんだと感心する余裕もあった。


旧家は人間の血に固執していると宮城さんは言っていたけれど、人間の血が濃い者は特別正義感が強いとか、そういうわけではなさそうだ。


人間も、人として生きる妖も、性格面では本質的に大きな違いはないらしい。

だってここにいる誰が人間なのか、わたしには見分けがつかないもの。



「留美香さんを困らせてんじゃないわよ」


「あんたなんて、須藤君が相手するとでも思ってるの」



好戦的な生徒と目を合わせて火に油を注ぐのは嫌なので、俯いてやり過ごす。飛び交う野次はどうでもいい。

花歩さんの作ってくれたお弁当の中身をごみ箱に捨てる時だけ、心がちくりと痛んだ。






通学鞄とその中身は諦めた。壊そうが隠そうが好きにすればいいと、机に放置して教室を後にする。


ささくれた気分で隣に足を運ぶ。すると留美香の教室の生徒たちが一斉に睨んできた。

室内へ入るのを阻むように腕を組んだ女子生徒が扉を塞ぐ。城主を守る門番にでもなったつもりか。

この様子だと、留美香と須藤雷は教室内にいるのだろう。それが確認できたらまあいいか。

残念を装ってため息を吐き出し、教室を離れた。


自分の所属教室へは戻らず、一番近いお手洗いの個室にこもって携帯電話を取り出す。

祈るように胸元でぎゅっと握りしめてから、恐る恐る二つ折りの携帯電話を開こうとしたが——、迫ってくる複数の足音にはっとして寸前で携帯電話を畳んだ。



「いるんだろ! 出てこいよ!!」


「逃げてんじゃねーぞ!!」



どうして男子が女子のお手洗いに入ってきているのか。そんな疑問よりも、手近なお手洗いを選んでしまった自分の浅はかさに苦虫を噛み潰す。


個室の扉を強く叩かれる。感じる気配からして、人数は男女入り混じって六人。手洗い場の蛇口が全開になる音に、嫌な予感がした。

罵詈雑言を吐く彼らをいなせる自信はないから、大人しく嵐が過ぎるのを待つ。


予感は的中し、個室の上から水をぶちまけられた。最後には水汲み桶が降ってきた。

背中を丸めてしゃがみ込み、携帯電話を死守する。


また水責めか。次の授業時間までに乾かせるかなあ。

扉を蹴られ叩かれ、扉一枚隔てた先で女子と、男子がやかましく叫ぶ。内容はほとんど頭に入ってこなかった。


早く携帯電話の画面を見たい。だから彼らにはさっさと飽きて立ち去ってほしい。

そんなことを考えていると、再び上から水をかけられた。


昼休み終了五分前を知らせる予鈴が鳴った。お手洗いを水浸しにした生徒たちはそこでようやくいなくなった。

人のことを言えないけれど、考査の勉強はしなくてよかったのだろうか。


気配を探っても、女子用のお手洗いにはわたししかいない。静かになったことにほっとして、改めて携帯電話を開く。画面が明るくなった。

よかった、壊れてない。


簡素な待受画面の左下には、待ち望んでいた一件の不在着信の通知があった。

発信元を確認し、すぐに画面を閉じる。


どくどくと、心臓の鼓動が早くなる。携帯電話を持つ手が震えた。

込み上げる気持ちをぐっと堪え、何事もなかったかのように外へ出るため、深呼吸を繰り返した。




五時間目が始まる。

布巾で軽く水分を取ったとはいえ、髪も服も濡れたままだ。その状態のわたしに話しかけてくる者は誰もおらず、考査の監督をする先生も見て見ぬふりをしてくれた。

水気を含んだ袖口が答案用紙を濡らす。解答欄に文字が書けなくなった。

書ける箇所だけ答えを埋めて、早々に机に筆記具を置いた。


考査中にそこかしこから視線を感じていたが、他人の奇異の目はどうでもよくなっていた。




全ての考査が終了した放課後。

隣の教室が先に解散していたので急いでわたしも校舎を飛び出した。


下校する生徒たちに紛れて校庭を歩く留美香と須藤雷也に駆け足で追いつく。



「待って、留美香!」



思いのほか声が大きくなった。

下校中の生徒だけでなく、校庭の植木を整えていた剪定業者の人たちや、学校に出入りする大人たちも何事かと足を止める。



「……あんた、いい加減にしなさいよ」



低い声で唸るように言い、留美香が振り返る。

次いで須藤雷也も苦笑しながらわたしへと体を向けた。


生徒たちは面倒事に関わるまいと校門へ早足で向かう者がほとんどだったが、中には面白そうに遠巻きにこちらを観察する者も何人か見受けられた。主に留美香やわたしと同じ教室の生徒だ。



「いくらなんでもしつこ過ぎるわ。頭、大丈夫? 雷也の言った通りちょっとおかしいんじゃない?」


「一応、正気でいるつもりだけど……」



放課後といっても、日はまだ落ちていない。

西に傾いた太陽の光は眩しい。しかし日光ににさらされていても、わたしはわたしを保っていられる。


浅くなる呼吸を落ち着けて、すっと須藤雷也を見据えた。



「何よ? 言ったじゃない。雷也は渡さないわよ!」



留美香の声が、近くて遠い。



「どうしたの、朔ちゃん?」



声量は須藤雷也の方が小さいはずなのに、ゆっくりと問いかけられた言葉は留美香の声を貫通して耳に届いた。



「雷也! やめてったらっ」



留美香が不機嫌そうに叫ぶ。

須藤雷也の問いかけに答えている余裕はなかった。


心臓が激しい鼓動を繰り返す。

極度の緊張で動かない体を叱咤して片手をあげる。


ゆっくりと、須藤雷也を指さした。



「…………ぅ」



終わりにしましょうと言ったはずが、顎が震えて言葉にならなかった。



「ほんと、どうしちゃったのかな?」



須藤雷也は心配そうに振る舞いながらも、とても楽しそうだ。

そんな彼に剪定業者の作業服を着た、宮城さんが近づく。


足音を立てず、気配を殺し。敵の背後を取った赤兎班の班長は、容赦なく刃物で須藤雷也の背中から胸を貫いた。



数秒間、須藤雷也を中心に時が止まった。

須藤雷也はきょとんと自身の胸から突き出た刃に目を向ける。


ここが学び舎で、周囲には子供がたくさんいる。そんなことへの配慮は一切見せず、深く被った帽子の下で宮城さんは凶悪に笑った。



「よお。ようやく会えたなあ」



刃物に胸を貫かれたまま、須藤雷也は首から上を後ろに向けた。宮城さんの顔を確認し、肩を僅かに震わせる。



「あーあ、見つかっちゃった」



そしてそれはそれは楽しそうに、声を弾ませた。







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