20.御社参りへ(中)
夕方になると次第に薄暗くなり、室内に控えめな照明が灯された。
夜にはまだ早いけど、いつも花歩さんはこの時間帯に夕飯を運んでくれる。
階下の食事の準備だって忙しいだろうに。わたしは彼女のお世話になってばかりだ。
明将さんはまだ仕事が終わらないらしい。台所前の机を明け渡すように、束ねた書類を持って部屋を出て行った。
雪根さんは夜から任務があるそうで、一緒に食事を食べた後は共に隣室を退出し、わたしが寝泊まりする部屋の前で別れた。
夜のうちは深淵の加護がある。
闇の属性に傾くわたしがこれまで妖に狙われなかったのは、ユウたち深淵のみんなが隠してくれていたからだろうと、日中に雪根さんが言っていた。
照土さんのように初めからわたしを認知していない限り、闇を喰らおうと奔走する妖たちはわたしの存在に気づけない。
しかしこの闇の加護は、普通の人にとって些か苦痛をもたらしてしまうらしい。
ある者には強い重圧感として。またある者にとっては言い知れぬ恐怖心として——。生き物に安息をもたらす闇は、同時に未知への畏れを司っていると、これも雪根さんが教えてくれた。
照明の灯っていない部屋に入ると、闇の気配が一段と深くなった。
隠されて。守られて。知らないところでも、わたしは助けられてばかりだ。
慈しみと愛情が深い闇の中に伝わってくる。
深淵の神様はこんなにも優しい。
では天上の神様は、どのような方々なのだろう……?
ふと浮かんだ疑問を声に出す前に口を閉ざす。
なんとなく、それをみんなに聞くのは憚られた。
*
晴れないでほしいという願いは聞き届けられず、翌朝は見事な快晴となった。
分厚い日避け布の隙間から小窓の外をのぞけば、一面の青空が広がっている。
明るい光に身が怯む。今日の夕方には外に出るのだと考えると、緊張で呼吸が浅くなる。気分を紛らわすため、その日の朝は台所で何度も顔を洗った。
慣れた行動を変えると、よりいっそう夕方の御社参りを身構えてしまう。
できるだけいつも通りでいようと、日中は隣の部屋で過ごさせてもらった。
しかし定位置となった勉強机に座っても、課題は全く進まない。
時間が経つごとに不安と緊張が肥大していくばかりだ。
そんなわたしの後ろでは寝台のうえに雪根さんが、床には啓斗さんが横になり、静かに寝息を立てていた。
二人とも宮城さんの命令で任務に赴き、深夜から明け方にかけて本部に帰って来られなかったらしい。
どんな仕事をしていたのかはさすがに聞けない。だけど朝この部屋を訪ねてきた彼らは早々に倒れるようにして眠ってしまった。もうすぐ昼だというのに、起きる気配がない。
台所前の机で仕事をする明将さんも、今日は雪根さんを起こそうとしない。啓斗さんについても「邪魔じゃないなら寝かせてやってくれ」と言われた。
「床じゃなくて、ご自身の部屋の方がゆっくり休めると思うのですが」
「普段背伸びしているがそいつも寂しがり屋だからな。近くに人がいると安心して休めるんだろ。何時間も気を張り詰めた後は特にな」
膝を曲げて体を丸くし、横向きに眠る啓斗さんは、無防備に寝顔を曝け出していた。
成長途中のその顔に、改めて彼が年下なのだと気付かされる。
「啓斗さんはおいくつなんでしょうか?」
「今年で十六か、それぐらいだったんじゃないか」
そうなんだ。
学校はどうしているのかとか、深く聞くまでもない。平日わたしが高校へ通う間も、啓斗さんは仕事に勤しんでいた。
赤兎班の所属に年齢は関係ない。彼らはそれぞれの事情があって、ここにいるのだろう。
「宮城さんに誘われたらしいな」
課題に身が入らず、筆記具を持つ手が止まっていると明将さんが声をかけてきた。
あまり触れてほしくない話題に返答できずにいると、机に頬杖をついた明将さんが表情の消えた顔をこちらに向けた。
「決意のない奴が、国を守る前線に立つ必要はない」
「それは」
「他はどうかは知らないが、俺はそう考えている」
明将さんの言うことは、宮城さんの勧誘を断りたいわたしにとって嬉しい内容のはずだった。
それなのに、突き放すような言葉に寂しさや悲しみを感じてしまうのは、どうしてなのか。
「とはいえ全員が全員、日の元を守るという使命感がある訳じゃないけどな。危険と隣り合わせの赤兎班に身を置くことで、守れるものや得られるものがある。その利点を目的に所属しているのがほとんどだろう」
「明将さんも、でしょうか?」
「まあな。俺も律もそうだ。国を守るなんて大義、俺みたいなのが持ち得るはずがない」
自嘲的な笑みを浮かべ、明将さんは書類の束を自身の前へと引き寄せた。
「朔も正義感や義務なんてのはこの際そっちのけで、自分に得かどうかで選べばいい。戦力を強制的に徴集しなきゃなんねえほど、この国はまだ逼迫していないからな」
「まだ、ですか」
「この先どうなるかなんざ、誰にもわからないだろ」
確かにその通りだ。
今後、須藤さんが日の元を掻き回し災禍をもたらすなら、選択の自由などと言っている場合ではなくなってしまう。
そしてその禍は、わたしの言動ひとつで防げるかもしれないのだ。
「……そうですね」
宮城さんの勧誘に迷うよりも先に、わたしが決断すべきことはそこなのだろう。
悶々としているうちに午後になり、昼食の片付けを終えた花歩さんが御社参りの準備を手伝いに来てくれた。
今回の帰魂祭の他にも年初め、誕生月や婚姻の儀などの行事で御社へ参る際は、一般的に正装がよしとされている。
土地守りが常駐していない無人の御社に行くならいざ知らず。帰魂祭の時期にそれなりの規模の御社へシャツやパンツ、スカートといった服装で敷地を跨ぐのは非常識とみなされてしまう。
法律に定められているとかではなく、世間的な作法がそうさせているのだ。
この時期の御社参りは着物で行かなければ悪目立ちをする。
これまで御社参りをしてこなかった身としては、まずその事実に驚いた。
着付けを手伝おうと迫る花歩さんに戸惑い、観念して事情を説明すると、ひとつひとつ丁寧にそれらのことを教えてくれた。
わたしの着物については赤兎本部での生活が始まる際に、奥園が送ってきた私物の中に含まれていた。
母が中学卒業を機に揃えてくれた袷の着物と、夏用の単衣の薄物のふたつ。
着付けなんてしたことがないわたしは、花歩さんに任せて単衣の着物を着付けてもらった。
着付けについて、母には「いつか時間ができたら教えるわ」とずいぶん前に言われたっきり、その機会は訪れていない。
小さな菊の花が咲いた淡萌黄の着物に、薄い黄色の帯。記憶にある限りで、生まれて初めて着物に袖を通す。あとはされるがままに従った。
花歩さんが可愛い似合うと手放しで褒めてくれるのが面映く、この姿を母に見てもらえないのが少し寂しかった。
着付けを終えて、髪の毛を整えてもらっていると時間はあっという間に過ぎていった。
外出前から疲れ始めたわたしを気遣い化粧は薄めにして、花歩さんは満足そうに頷いた。
着物用の履物は持っていなかったので、花歩さんが草履を貸してくれた。
「歩く感覚がいつもと違うから、足元には気をつけて。疲れた時は遠慮せずにアキか律くんを頼るのよ」
「はい。ありがとうございます」
「着付けが済めば御社参りは半分終わったようなものよ。ひとまずお疲れ様」
彼女が玄関の扉を開けると、そこには袴姿の明将さんと雪根さんが待機したいた。
「お待たせしました。よろしくお願いします」
二人に軽く頭を下げる。
帯の締め付けに慣れず、深く呼吸するのが難しい。
「可愛い。すごく似合ってるよ」
「……あ、りがとう……、ございます」
雪根さんの直球の褒め言葉に顔が熱くなった。
「とりあえず行くぞ。花歩も下までは一緒に来い」
「でも、片付けが」
「んなもん帰ってきてからでいいだろ。俺たちが戻るまでは下にいろ」
花歩さんは渋々ながらに頷いた。
背を向けて歩き出した男性二人に続こうとする。
着物だと一歩が小さくて、足の動きが細かくなってしまう。廊下の直線でさえいつもの速度で歩けない。
みるみる開いてしまった明将さんたちとの距離に焦って小走りになるわたしの隣で、花歩さんが慌てて待ったをかけた。
「ちょっと、道中の歩調は朔ちゃんに合わせるのよ。着物だと歩幅も小さくなるの。草履も慣れてないでしょうし、もっと気を遣ってあげて」
「……悪い」
「ごめん」
「こちらこそ、慣れてなくてすみません」
「朔ちゃんは謝らなくていいのよ。さあ、行きましょう」
花歩さんに手を取られ、今度はゆっくりとした歩調で進み出した。
階段ではなく昇降機を使って一階へ下り、玄関に向かう。
すれ違う赤兎班の人たちの顔を見る勇気はなく、建物内ではずっと俯いていた。
玄関口には啓斗さんがいて、宮城さんの姿はなかった。
「宮城さんたちは先に行ったよ。朔が御社参りに行くなら別行動で問題ないってさ」
「なにそれ。だったら近くで済ませてもいいんじゃないの?」
「——て雪根さんが言うだろうけど、絶対に一樹さんのとこまで連れて行けだって。ちゃんと伝えたからね」
雪根さんは啓斗さんからあからさまに視線を逸らした。拗ねた態度を無視し啓斗さんはわたしへと向き直る。
「行ってらっしゃい」
「……はい、行ってきます」
思いもしなかった声かけに、反応が遅れた。
「似合ってると思うよ。動きづらそうだけど」
啓斗さんは小さく呟き、花歩さんの隣に並んだ。
二人に見送られ、駐車場の車へと足を進めた。
後部座席に乗り込む直前、振り返って赤兎本部の建物全体を見渡す。
周囲に嫌な気配はない。
「なにかあったか?」
「いえ、大丈夫です。問題なさそうで……」
明将さんの問いかけに対して、自然と口が滑った。
違う。そうじゃない。
いつあの男が聞き耳を立ててくるかもわからないのに、どうしてわたしは赤兎班に味方する発言をしているのか。
さっと顔から血の気が引くなかで、なんとか乗車した。
明将さんはそうかとも返さず、反対側からわたしの隣に乗り込んだ。
運転席に雪根さんが座り、車はゆっくりと走り出す。
道中は外の景色や西日を気にする余裕がなかった。やらかした失態に、心臓がどくどくとうるさい。
大丈夫、だとは思う。須藤さんのあの独特な気配は感じなかったから、さっきのは聞かれていない。
言い聞かせて自分を慰める。
後方確認用の鏡に顔が映る雪根さんと目が合う。にっこりととてもいい笑顔を返された。
続いて横目で隣を窺う。わたしに頭を向けて車窓から外を眺める明将さんの肩は、微かに震えていた。
この人今、笑いを堪えている。
道中の車内は誰も言葉を発さず、微妙な空気が漂った。
落ち着きを取り戻した明将さんはわたしの失言に言及せず、聞かなかったことにしてくれたみたいだ。
以前に徒歩で赴いた際は御社までそれなりに距離があるように思えたけれど、車を使うと十分もかからず到着した。
御社へと続く階段から少し離れた場所にある、田畑に囲まれた広い駐車場に雪根さんは車を止めた。
日没が近いというのに、空いた場所を探すのに苦労するほど、そこには沢山の車が駐車してあった。
わたしたちが車を降りた後も参拝目的の車の入りは絶えない。
御社へと続く細い道にはこれから参拝へ行く人と、用事を終えて戻る人とがそれぞれ列をなしていた。
あまりの人の多さに足がすくむ。この時期の御社は、こんなにも混み合うのか。
それに……。
道に出るために車の間を縫うように歩くわたしたちを、後ろから来た男性が強引に追い越した。
ぶつからないように避けようとして、体勢を崩しよろめいたところを明将さんが支えてくれた。
男性は苛立ちの滲む瞳でこちらを一瞥し、何も言わず早足で参拝の列へと行ってしまった。
「大丈夫か?」
「はい。……すみません。でも、あの人は……」
いや、あの男性だけじゃない。
御社へ参ろうとする人たちが纏う違和感に、改めて周囲を見渡した。
苛立ちや焦り、渇きに飢えと焦燥。
ひとりひとりの小さな不安定が混ざり合い、どんよりと空気が重苦しい。
「そうだね」
頷いて、雪根さんは声を潜めた。
「肉体に宿る光と闇が安定しない人たちは、日中は明るすぎて無意識に外出を渋るようになるから、御社参りも夕暮れ時に集中するんだ」
つまり、ここにいる人たちは皆、照土さんのように妖へと変貌する可能性を秘めているということ?
「すごいな。そんなに違うか?」
明将さんが参拝の列を眺めて首を捻る。
「俺にはわからん」
「安心して。ここにいる人たちは朔に危害を加えないよ。参拝から戻った人たちに集中してごらん?」
言われるままに御社に背を向け帰路につく人たちを探る。
「……あっ」
充満するどんよりとした空気で見逃していたものの、帰りの人々の足取りは軽く、気配はとても穏やかだった。
不安定さはなくなり、憑き物が取れたような、どこか晴れ晴れとした表情の人もいる。
ね? と雪根さんは微笑み、木々に覆われた階段の先にある御社を見上げた。
「そのために華闇と、御社は存在してる。だから御社参りは日の元の民には欠かせないんだ」




