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16.心の行き先(上)




楽しそうだけど、きみはそれでいいの?








     ◇  ◇  ◇





妖の討伐作戦から一夜明けた。

本部内では事後処理に追われる班員たちが慌ただしく走り回っていた。


昨晩蟲が出現して以降、朔の怯えようがひどい。

今朝も雪根が様子を見にいけば、彼女は寝台の上で頭を抱えて泣いていた。


「ごめんなさい」と、雪根が話しかけるより先に朔は何度も繰り返す。誰に対する謝罪なのか、聞くつもりはない。人として踏みとどまれた彼女を再び奈落へ突き落とす発言は避けるべきだ。


朝食が食べられないほど塞ぎ込んでしまった朔を明将に任せ、雪根は宮城の執務室へ赴いた。


来訪は予想済みだったのか、宮城は雪根を室内に招き入れ、用意していた報告書を手渡す。


報告書には三日前、鳳管轄の留置所にいたはずの照土が、忽然と姿をくらませたことが記されていた。

牢屋の扉が開けられた形跡はなく、鍵も閉ざされたまま。見張りの者が気付かぬうちに、照土は脱走を成功させた。

状況からして人ならざる者が手引きしたのは明らかだ。



「このことは下に伝える必要がないと判断されたのですね」



雪根の口調は冷ややかだ。上司に対する敬意が微塵も感じられない。



「伝えられるわけがねえ。俺にその報告が上がったのは昨日のことだ。しかもこちらがじじいについての確認を入れてようやく吐きやがった」



苛立ちを隠さずに宮城は続けた。



「脱走をうちに知られるのが怖かったんだと。明るみになる前にじじいを捕まえれば、不祥事はないものに出来ると思ったとか。まったく、どんな教育受けてやがんだ」


「……昨日、これを知って」


「あ?」


「朔には黙ってたんですね」



照土の脱走を手引きした者が存在することをはじめ、赤兎の敵——奥園が今回の件に関与している可能性を、宮城は知っていながら雪根たちに教えなかった。



「当たり前だ。言う意味がない」



宮城はあっさりと事実を認めた。当然の選択だと、皮肉混じりに口の両端を持ち上げる。



「お前だってそうだろ?」



指摘を受けて雪根は苦い顔をする。

留置所にいるはずの照土が妖となって朔に会いにきた。昨日、朔の話によって得られた情報から、照土の脱走は雪根にも予想できていた。

鳳で拘束中の照土が自由に動いているにも関わらず、宮城から照土の情報が入ってこないことを不審に思ってもいた。


しかしあえてその話題を避け、沈黙を選んだのは雪根も同じだった。


ただでさえ不安定な朔に、悩みの種を与えるなどもってのほかだ。



「そもそも奥園朔が苦しんでいるのは、お前らがあいつに心を砕いたからだろうが。お前や東郷に対して情が芽生えなければ、自分は奥園だと割り切ることもできただろうに」


「彼女を妖にして処分するのが正解だったと、そう言いたいのですか?」


「ちげえよ。現にあいつによって東郷は助けられただろ」



そうだ。昨晩屋上での蜻蛉の襲撃時、朔がいなければ明将は死んでいた。


信頼の積み重ねが朔にその判断をさせたというなら、彼女は自分たちに少しずつ心を開いてくれている。雪根にとって喜ばしいことだ。


しかしそれは同時に、危うい立場にいる朔をさらに苦しめる結果になってしまった。


赤兎に味方する朔を、奥園は快く思わないだろう。

敵は赤兎の網を潜り抜け彼女を脅し、指示を送れる。規格外の探査能力を朔が有しているために成せる伝達手段だ。



「奥園は朔について、どれだけ知っているのでしょう」


「さあな。だがうちに送った当初は何も把握していなかったと考えるのが妥当だろう。深淵の寵愛も探知能力の異常さも、知っていれば他に使い道はいくらでもあったはずだ。あれは捨て駒にするにはあまりにも惜しい」



深淵との関係を、朔はこれまで人に打ち明けたことはなかったという。それこそ、母親にも。

ならばどういう経緯で朔の秘密を知ったのか。疑問に対して答えは簡単に導けた。


赤兎班の預かりになって以降、奥園朔の行動範囲は限られていた。敵との接触は学校内でされているのだろう。

朔を監視している敵がどこで聞き耳を立てているかわからないので、推測はできても、口には出さない。



「接触の機会があったと仮定して、そこであいつを奥園側に懐柔しきれていないあたり、弄んでいるとしか思えない」



奥園の正義を謳って洗脳せず、不用意に朔を怯えさせ、楽しんでいる愉快犯。



「今回の敵は、そういう奴だ」



めんどくさいと言わんばかりに宮城が吐き捨てた。


敵の撃破も大事だが、雪根にとって最重要事項はそこにない。



「どうすれば、朔を守れますか」



敵の影に怯え泣く彼女が痛々しい。完全な信頼を勝ち取るとまではいかなくとも、出来る限り重荷を外してやりたい。



「……お前は少し自重しろ。仕事に私情を挟みまくってんじゃねえぞ」



宮城は引き出しから取り出した懐中時計を、机の前に立つ雪根へと放り投げた。



「五回でいい。それで十五秒ずつ、脈拍測りながら俺と話してみろ。測り終えたらその場で脈の平均出して報告するように」


「……は?」


「いいからやってみろ。秒針が上にきたら開始だ。……そうだな、ひとまず俺たちも奥園朔とは腹を割って話す必要がありそうだ。中途半端な知識は余計な危険を招きかねない」


「ちょっと待ってください。無理ですよ」



言いつけ通りに手首に指をそえるも、秒針と速度の違う微かな脈の鼓動を感じ取るのに難儀した。加えて十五秒ごとに脈の拍数を覚える。

ただそれだけに集中するなら雪根も可能だったかもしれない。


しかし宮城の話は、雪根にとって聞き流せない内容だった。余計なことに集中力を削がれてはいられない。

雪根の苦情に宮城はにやりと笑う。



「そういうことだ」


「……どういうことですか」



もういいだろうと判断し、雪根は懐中時計を机に置いた。



「人が一度に注意を払える容量には限界がある。個人差はあったとしても、起こる全ての事象に対して、隅から隅まで意識を向けられる奴はいない。気配の探知については優秀であっても奥園朔も人だ。そこは変わんねえよ」



ひとつのことに集中してしまえば、必ずどこかが疎かになる。

理屈がわかれば敵に意識を向けさせないようにするのは容易い。



「お前と東郷はこれまで通り日中はあいつの側にいればいい。それだけでも敵の伝達は十分遮断できる」



雪根たちに心が向けられるほど、朔は敵の意思を汲み取りづらくなる。

それは朔自身を守ることに繋がり、同時に赤兎班にとって有利に働く。



「せっかく人に留まれたんだ。貴重なお仲間は大事にしてやれ。話は終わりだ。さっさと行け」



宮城の追い払うような仕草に、雪根は一礼して素直に従った。

扉を開けると部屋の前には、いつの間にか穂高が待機していた。



「正式に許可が下りたので、俺とアキの仕事は他にやってください」


「そんなことだろうと思ったから、もう手は回してるよ」



やれやれと言わんばかりに穂高はため息を漏らす。

珍しく小言が続かないのをいいことに、雪根は穂高の気が変わらないうちにその場を離れた。


話は済んだ。


早く、朔のいる三階の部屋へ辿り着きたかった。






       ◇  ◇  ◇








どうすればよかっのだろう。


母を見捨てて赤兎班に寝返るなんてできない。

明将さんたちを見殺しにだってしたくない。



あれもこれもと欲張っているから、こんなに苦しいの?







知人の悲惨な死に様を目の当たりにしたというのに、悼む余裕がないとはなんて薄情なのだろう。結局わたしはいつも自分のことばかりだ。


嫌悪感の奥底で、人としての理性を溶かす獣性がくすぶる。悩みを放棄し、本能に身を任せれば楽になれると、わたしは人に教えられなくても知っていた。


人から妖へ。肉体の変化で伴う苦痛はほんの一時。そこを越えれば、こんなに悩むこともない。あとはすぐに、誰かがわたしを殺してくれるだろう。


楽な道はすぐそこにある。

人の生を踏み外すのも簡単だ。本性を自覚してからというもの、理性の壁はとても低くなった。


苦しくたって、それでも人の道を選んでしまう。朔としてのわたしを望む人たちがいてくれるからだ。

こんなわたしでも生きていていいと、認めてもらえたから踏みとどまれたのに……。


恩人を守ろうとした自分自身を誇れないなんて。この浅ましさ、この醜さに吐き気がした。



「……ごめんなさい」



この呟きは何度目だろう。

誰に宛てた謝罪かすらもはや定まらない。



ごめんなさい。


蟲の奇襲を邪魔したのはわざとではなく、ただ知らなかっただけだと。お願いだから、わたしはちゃんとするから母には手を出さないでと須藤さんに懇願する。



ごめんなさい。


義父と結ばれ、やっと幸せになれた母を、また不幸にしてしまった。わたしは母に迷惑をかけてばかりだ。



ごめんなさい。


明将さんを、命の危険に晒した。彼が助かったところで、無事を喜べない。



ごめんなさい。


わたしは照土さんが妖になる前に、救えたかもしれなかった——。



寝台の上で座り込み、悶々と考え続ける。

軋む心を紛らわせようと二の腕に爪を立てた。爪が肌に食い込み痛みをもたらす。

しかし一向に不安は消えない。心配事はなくならず、苛立ちが増すばかりだ。


親指と人差し指の爪で、腕の皮膚を摘んだ。刺すような鋭い痛みにほんの少しだけ目の前が晴れた。

更なる激痛を欲したわたしの手を、明将さんが掴む。



「自傷はやめとけ。癖になると苦労するぞ」


「あっ……、すみません……」


「だから、謝るなって」


「……ごめんなさい」


「…………」



沈黙に耐えられず、膝にかかる薄布団へと視線を落とす。

自分で自分に傷を付けても、物事は好転しないとわかりきっているのに。


本当に、毎回わたしは何をしているんだろう。


責められるのが怖くて明将さんをまともに見れない。

少し前なら赤兎班は奥園の敵だと割り切れたから、彼らに憎まれたとしても諦めがついた。

今のわたしは明将さんたちに拒絶されることが、とても怖い。



「……わたしは、奥園なんです」


「そうだな」



明将さんが寝台に腰掛ける。



「昨晩の蟲だが」


「あれは、知らなかったんです。本当に」



反射で弁明に走ったわたしに明将さんは苦笑する。まあ落ち着けと、大きな手を伸ばしてわたしの頭を軽く押さえた。



「そんなもん最初からわかってる。誰も疑ってねえよ」



ゆっくりとした口調は焦るわたしとは正反対で、ひとり必死になっている自分が途端に恥ずかしくなる。



「ついでに言うと、敵が陰湿で救いようのない愉快犯だってことも、理解しているつもりだ」



敵。その一言にはとてつもない怒りが込められる。


あらかじめ、熾烈な感情の矛先はわたしでないと彼は示唆してくれている。それでも、じくじくと胸が痛んだ。


「答えられないならそれでもいい」と前置いて、明将さんは上体を捻って真っ直ぐにわたしと目を合わせた。



「昨晩、俺を助けたことも、朔の悩みのひとつなのか?」



そんなの……。本人を前に、肯定できるはずがない。

唇を噛んで返答を避けた。



「だからやめろって」



明将さんが手に触れる。

わたしは無意識のうちに手の甲に爪を立てていたようで、はっとして自分の両手を引き離す。


明将さんはこちらに背をむけ、寝台に浅く座り直した。



「皮肉と捉えて楽になるならそれでも構わないから、これだけは言わせろ。ありがとう。朔のおかげで助かった」



前を見たまま、まるで独り言のように彼は言った。

皮肉なんて、思うわけがない。誠意に報いれない自分が歯痒かった。


手を伸ばせば届く位置にいる明将さんが遠い。

視界が滲み、大きな背中がぼやけた。


泣いていることを悟られまいと俯き乱暴に涙を拭う。

視界の端に、寝台についた明将さんの手が映った。

あの手にすがれば、きっと明将さんは応えてくれるだろう。

そうすればわたしは助かる。奥園家からも解放される。



母の命を、代償にして……。



昨夜、落ちた蜻蛉が変化した、母の顔が脳裏をよぎる。

いつどこであの男が見ているかわからない。

わたしが赤兎班に味方したと、そう認識されたら、もう二度と母に会えない。


伸ばしかけた手を、無言で下ろした。もどかしさに敷布をぐしゃりと強く掴む。



「難儀なものだな」



ぽつりと呟き、明将さんはわたしの手の甲を指で軽く小突いた。







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