14.渇望の果て(中)
豆電球の下なので気配は遠のいているが、異常を知らせてくれたのは深淵の誰かなのだろう。
ユウたちは宮城さんを信用しているの……?
「……感じた気配は、照土さんで間違いありません。……ですが、……形は人じゃなくて、獣のようでした」
「見たのか?」
「……いいえ」
目で見てはいない。それの動きから姿形をわたしが想像しただけだ。
「確証は、ないです。……もしかしたら、違うかも……」
認識できたのは第六感ともとれる感覚によってだ。そんな事象を他人に証明するのは不可能に近い。
最初から宮城さんに信じてもらえるとは思っていない。
諦めの一方で、もしかしたらわたしは知ってはいけない情報を得たのかもしれないという、強烈な不安があった。
だって、照土さんであろう、あの気配、あの形は……。
「無能が。神事を怠りやがったな」
忌々しそうに吐き捨て、宮城さんは小窓を睨む。
「本来ここには、あの類たぐいの奴らは近づこうとしない。俺がいるからな」
彼はわたしに向き直った。
「成り立てとはいえ、よっぽどお前が諦めきれなかったんだろうな」
詳細な説明はない。だけど宮城さんの放つ言葉の全てが、先ほど窓の外にいたのは照土さんだと表していた。
呆然と立ち尽くす。もしかしたらわたしは、この人に「でたらめなことを言うな」と非難して欲しかったのかもしれない。
「そんなに驚くことか? とっくに気付いているんだろ」
「……わたしも」
「あ?」
「わたしもいずれ、……わたしでいられなくなりますか?」
人の姿を失い、理性が消えて、光に怯える獣に——。
そうなった時、わたしは周囲の人たちに危害を加えてしまうのだろうか。
「本性を自覚してなお、人としての姿でいられる奴はごく少数だ。そういう意味では、お前はとっくにひと山超えている。くだらない心配してないで空木のじじいをどう狩るかを考えろ」
「……狩る」
人だったものを、——簡単に。
「成り立ては妖としての気配が薄く追跡が困難だ。そのぶん、人だった頃の欲望や執念が残っていて行動が読みやすい。奴の場合、執着物はお前だろう。協力してもらうぞ」
「殺す、のですか?」
ついこの間、顔を合わせた人を。わたしは照土さんの頼みに頷くことができなかった。
それでも、照土さんは故郷の村のために必死だったのはわかる。自分の望みに一途な、それだけの——ただの人だった。
こんなに簡単に、人は人でなくなるのか。あっさりと、処分の対象になってしまうのか。
「地上でああなれば戻れない。それが全てだ。奴らには自分が人でなくなったという自覚もない」
容赦なく突きつけられる現実に、唇を噛んだ。
つまり照土さんが変わってしまう前なら、どうにかできたの……?
照土さんと顔を合わせた時に感じた眩しさ。あれは篤志さんと同種の異常だった。
わたしは予兆に気づけていた。知っていながら誰にも言わず、放置してしまった。
「とにかく話は明日だ。奴も今夜は戻ってこないだろうが、念のため外に人を置いておく」
眠そうにあくびをしながら、宮城さんはわたしの横を通り過ぎた。
「助けられたかもしれない。なんてことは考えるなよ」
苦渋を見透かしたような忠告だった。
「事象の積み重ねによって起こった結果を、今さら悔いたところでどうにもなんねえんだよ。そんな暇があるなら次の被害をくい止める方法を考えとけ」
「……次」
「そもそもお前に背負える責任は最初からどこにもない。わかったならさっさと寝ろ。貴重な休息の時間を無駄にするな」
玄関で靴を履いた宮城さんは手を伸ばして壁のボタンを押した。豆電球の光が消える。
「どうにかすると言っただろうが。これ以上俺に付き纏うんじゃねえ」
悪態は深淵のみんなに向けられていた。
不機嫌を隠そうともしない宮城さんだったが、扉を閉めるのは非常に丁寧だった。足音は聞こえずに、気配が遠ざかっていく。
「……宮城さんとは、どういう関係なの?」
闇に問いかけ返ってきたのは、知らない事柄の伝達時に起こるあやふやな感覚だった。
つまり深淵と宮城さんは、わたしが言葉として認識できない、理解の及ばない間柄なのだろう。
宮城さんは怖い人だ。
その印象は出会った当初と変わらない。
口調は乱暴で、纏う空気はとても威圧的。
偉い人だから偉そうなのは当然で。目を合わせるのをためらうほど、向けてくる感情は直球だ。——直球で、言葉に嘘がない。
なんというか、怖い人ではあるけど、それ以上に彼はとにかく真面目なのだ。真面目だから、自分にも他人にも厳しい。
——わたしに背負える、責任はない。
気づけば照土さんに抱いた後ろめたさは、宮城さんがくれた言葉に打ち消されていた。
*
なりたて。
照土さんにはまだ人だった頃の執着が残っていると、宮城さんは言った。だからこそわたしの元へ来たのだと。
わたしの場合はどうなるだろうと、ふと疑問が浮かんだ。獣の本性が理性を凌駕した時、わたしは本能のままに、何を欲するのか。
自分が自分でなくなりかけたあの時。光が怖くてたまらなかった。
太陽や照明はもちろんのこと、わたし自身の内側にある光の気質すらもが恐怖の対象だった。
鼓動する心臓が煩わしくて、意識せずとも息をして生にしがみつく自分に怯えた。
光を厭い、ただただ無心に闇を求めた。
それはわたしだけに限らない、妖の本能だとしたら……。
「あっ——」
辿り着いた答えに思わず飛び起きた。
小窓の前に立ち、垂れ下がった布をめくった。
外はうっすらと遠くに木々の影が見えるだけの、黒々とした景色が広がる。
照土さんは妖に成り立てで、人のかけらがまだある。だからわたしの元へ来るのだとして……。
人としての全てを失い、完全な妖へ成り変わった時、照土さんはどうなるのか。
その答えを、わたしは知っている。
さっと頭から血の気が引いた。
妖たちは光を嫌う。
なんとかして肉体の内側に灯る光を消そうと必死になって、闇を求め——、深淵から地上へ落ちた、闇の迷い子たちを喰らうのだ。
妖が闇の子たちを狙うのには理由があった。
所詮は憶測でしかない。でも、おそらく間違っていない。闇への渇望はわたしも身をもって体験したから、妖たちの必死さは納得できた。
「……そんな」
足に力が入らず、小窓の前でへたり込む。
わたしが知らなかった……これがこの国の、現実なのだ。
——協力してもらうぞ。
決定事項とも取れる宮城さんの一言は、わたしが拒否しないと確信したうえでの発言だったのだろう。
妖を放置すれば、深淵に生きる者たちが地上に迷い込んだ際に害を被る。それだけはなんとしてでも防がないといけない。
我ながら現金なものだと自嘲する。
奥園家なんて関係ない。深淵のためなら赤兎班に協力して、照土さんを始末する覚悟ができた。
わたしが守りたいと、力になりたいと心から望むのは、奥園でも赤兎班でもないから。
母はわたしにとって大切な家族だ。無事でいてほしいと願う気持ちは今も変わらない。
でも、須藤さんに与する奥園についてはどうだ。彼らの正義に、わたしは共感できるのか……。
一方の、日の元の秘密を抱えて国を護る赤兎班は……。
ぐらぐらと心が揺れる。
本当はわかっている。
答えはとうに決まっていて、迷っているのも悩んでいるのも、結局は見せかけでしかない。ただわたしに決断する勇気がないだけだ。
わたしが守りたい人たちは、もうずっと、何年も前から変わらない。
*
気まずいと思って引いてしまうと、余計に気まずさに拍車がかかる。でもでもだってとごねたところで、事態は絶対に好転しない。
ならば腹を括ったほうが、痛手は少なくて済む。
「——囮になればよろしいのでしょうか」
翌日の朝。
朝食の前に部屋を訪ねてきた宮城さんを玄関で出迎え、開口一番。決心が鈍る前に言い放った。
「……どういう心境の変化だ」
宮城さんが怪訝そうに眉を寄せる。彼に付き従う穂高さんも驚きの眼差しを向けてきた。
協力的になったわたしが、そんなに信じられないのか。
「照土さんに関しては、これが最善だと判断したまでです」
赤兎班の人たちは妖を容赦なく葬る。
たとえ元が仲間であったとしても彼らは情けをかけない。使命に忠実な人たちだ。
わたしにはそんな義務も使命感もない。
あるのは深淵に生きる、みんなの役に立ちたいという利己的な理由だけ。
照土さんの命と深淵と。天秤にかけて悩むまでもなく、わたしが大切なのは深淵だと断言できた。
「闇の……、深淵の役に立ちたい。その気持ちは今も変わりません」
人殺しに加担してでも、闇の子たちを守りたい。わたしの思いはそれだけだ。
利害は赤兎班と一致しているはずなのに、なぜかわたしの意思表明は宮城さんにとって気に食わないものだったらしい。
眉間に皺を寄せた長身の男の人に見下ろされると萎縮してしまう。
なけなしの決意が揺らぎかねないから、その不機嫌な顔はやめてほしい。
宮城さんにとっても悪い話じゃないのに、どうしてこんなに睨まれなければいけないの。
「あいつらのためか。察しがいいのは評価するが、そう簡単に割り切れるものか? お前がしようとしているのは、人だったものを殺す手助けだ」
人だったもの。妖と言って誤魔化さないあたり、宮城さんは意地悪だ。
握ったこぶしに力が入る。
「……他に、救う方法がないなら」
悩んだ時間の分だけ、照土さんの理性は消える。わたしへの執着を失った先に、彼は闇を求める。
今動かなければ、わたしはためらい立ち止まった自分自身をずっと後悔し続けてしまう。
それに——。
「もしもこの先、わたしが人でなくなった時も、すぐに始末していただきたいので」
どこかで被害が出る前に。深淵に、迷惑をかけないうちに。
宮城さんたちならわたしを殺してくれる。その一点においては彼らのことを信用できた。
「……自分のために心を砕いた奴らにも、お前は平然と同じことを言えるのか?」
憮然と問われ、真っ先に思い浮かんだのは明将さんと雪根さんだった。
わたしのために必死になってくれた人たちだ。二人がいなければ、わたしはここに人として立っていられなかっただろう。
——その時は人として殺してやると、明将さんはわたしに言った。極限状態だったわたしを、安心させるために。
だけどそれを明将さんが望んでいないのは、痛いほどわかっている。
わたしが人であることを、人として前に進めることを喜んでくれる彼らに「もしもの時は始末してほしい」なんて……。
言えない。
頼めるわけがない。
自然と首が横に振れた。
言葉を失ったわたしを前にして、宮城さんは満足げに口の端を吊り上げる。
「ならいい。あいつらも報われたな」
くつくつと喉の奥で笑うさまは、とても楽しそうだった。
宮城さんの後ろに立つ穂高さんは、どことなく呆れているようだ。
「飯食ってまた来る。立派な決意は覆してくれるなよ」
悪役の見本になりそうな人の悪い笑みを浮かべ、宮城さんは踵を返した。
見送りをしようと慌てて玄関を出る。
ちょうどその時、廊下の先、階段のさらに奥にある昇降機から、花歩さんと雪根さんが姿を現した。
宮城さんに気づいた雪根さんが、朝食の乗った台車を押す花歩さんを追い越しこちらへと駆け寄る。
「朝からここで何を?」
「おはようございます、が先だろうが」
雪根さんと宮城さんの間に張り詰めた空気が流れる。見かねた穂高さんがこちらに振り返った。
「どうする? 自分の口で伝えるか、難しそうなら俺が説明しておくけど」
まさかその判断を、わたしに委ねてくるとは思ってなかった。
迷った末に「自分で」と小さく呟く。
返事を受け、穂高さんはちらりと雪根さんに目をやった。そして諦めたように肩をすくめる。
「了解。正直助かるよ。行きましょう、宮城さん」
睨み合いは長引かず、宮城さんと穂高さんはすぐに立ち去った。彼らの姿が見えなくなるまで、雪根さんは警戒心をむき出しにしていた。
「大丈夫? 酷いこと言われてない?」
「大丈夫……です。少し話していただけなので」
時間を置いて花歩さんが部屋に到着する。
朝食を部屋に運ぼうとしたその時、階段の曲がり角から明将さんが小走りでこちらへ近づいてきた。
「階段で宮城さんたちとすれ違ったが、朝からどうした」
「そっちは何も聞かなかったの?」
雪根さんは明将さんを不服そうに責める。
気にせず聞き流し、明将さんはわたしに顔を向けた。
「……穂高さんは朔に聞けと」
遠慮がちな声。話したくないなら言わなくていい、そんな気遣いが口調から読み取れた。
「あの、わたしは大丈夫です。おそらく赤兎班の皆さんを巻き込んでしまうことなので……、昨晩のことを、聞いていただけませんか……?」
空木村と照土さんの件は隠す必要がない。だからためらわずにあったことを全て話せる。
穂高さんに宣言してしまったからには、ちゃんとわたしの言葉で伝えよう。
明将さんと雪根さんと、花歩さんとわたし。
四人で朝食を食べながら、昨晩の出来事を話した。
といっても母の故郷、空木村の代表者である照土さんが深夜に会いにきた。それを宮城さんが追い払ってくれた。あらましはこの二つだけである。
宮城さんは問題を放置せず早期に対応すると言ったのだ。もはや明将さんたちに迷惑をかけるのは避けられない。
「すみません。……次から、次へと」
彼らの手を煩わせてばかりの自分が心底嫌になる。
「謝るな。朔に落ち度はないだろう。……ただなあ」
言葉を区切り、明将さんは箸を置いた。
「深夜でも早朝でも、異変を察したならその時点で呼びにこいよ」
「……すみません。おかしな気配に気付いても、まさか三階の窓まで登ってくるとは思わなくて、判断が遅れてしまいました……」
言い訳の半分は嘘だ。
たとえ身の危険を感じたとしても、そこに須藤さんの気配が付随していればわたしはどうすることもできない。
自分の都合で伝える情報を選択している。
こういうところで、わたしはずるい。
「照土さんがわたしと同じなら、光を嫌うのではないかと。それなら隠れて朝を待てば、なんとかなりそうな気がして……」
結果として宮城さんのおかげで難は逃れられたが、彼が来なくてもひとりで息を潜めて日の出を待つ覚悟はあった。
「まあ推察は正解だが、お前は被虐趣味でもあるのか」
「……そういうわけでは」
「アキ」
花歩さんに嗜められても、明将さんはどこ吹く風だ。
「自分一人が耐えればどうにかなる。その考え方自体が危ないと言ってんだ。特に朔の場合はな。苦しみを耐えて楽しむ趣味がないなら、もっと人を頼る癖をつけろ」
「簡単に言うわね。世の中みんな、アキみたいに図太い人ばかりじゃないのよ」
「だったらせめて図太く生きて幸せになる努力をしろ。信頼できる奴を頼って、他は利用するぐらいの姿勢で、朔はちょうどいいだろう。相手の気持ちなんざ考えるだけ無駄だ」
難しいことをあっさりと言われてしまった。
返答に困り果てて雪根さんを盗み見ると、目敏く気付かれた。
「一理あるかな。俺もアキと同意見」
「……律くんまで」
「まあ、俺は朔に頼ってもらう努力を惜しむつもりはないからね。だからもっと甘えていいし、朔はわがままになればいい」
「行動が伴わない、口だけが達者な奴ほど胡散臭く見えるぞ」
「口だけじゃないよ。もう絶対にあんな思いはさせない。それに言葉足らずは誤解を生みかねないから、ちゃんと伝えるのは大事なことだと俺は思うけど」
「基本の報告・連絡・相談すらまともにできない奴が偉そうに抜かしてんじゃねえ」
次第に主題はわたしからそれていき、明将さんと雪根さんのじゃれるような言い合いは朝食が終わるまで続いた。
二人が本気で怒っていないのがわかるからか、彼らのやりとりの近くにいても苦にならない。
花歩さんが「またやってるわ」といった感じで達観していたのも大きかった。
気まずさのない喧嘩。
なんだかんだ言いながら、明将さんと雪根さんの根底には強い信頼関係が出来ているのだ。




